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日野家からの縁談を皮切りにあちこちから縁談の話が舞い込んできたよ

 さて、俺は生玉荘の農地の再開発と生國魂神社の復興などを行っている。


「田植えが間に合うかどうかはギリギリだよなぁ……」


 大道寺重時が苦笑しながら頷いた。


「京の都とこちらの両方の面倒をみろというのがどだい無理な話なのではありますが」


 それでも生玉荘でもまだ可能なところでは田植えを行い、無理なところは冬の麦の作付けに向けて開墾や用水路、排水路の整備をしている。


「これだけ塩があれば京の都でも助かるだろ」


 大道寺重時が頷いた。


「塩は生きる上では必需の品ですからな」


 塩田からの塩を樽に詰めて淀川をさかのぼっては京の都へ運んで、朝廷・幕府や神社などに寄進しつつ、諸国から戦火を避けるために流れてきた流民には塩や梅干しのにぎり飯の炊き出しなどもあいかわらず行い、そうやって話を聞きつけて炊き出しに集まったものには、備中鍬などをもたせて耕作放棄地へ向かわせての開墾作業や油絞りや紙漉きなどの作業を行わせて、食い扶持を確保させた。


「金で雇われて京に来て、そのまま残った連中が盗賊や匪賊になってるのは頭が痛いな」


「もともと京の賊は多かったと聞きますが捕らえて更生しそうにないものは殺すしかありますまい」


「まあ、そうなんだけどな」


 事実上盗賊となっているような悴者などは伊勢家や細川家の協力で捕縛したり斬り殺して壊滅させ排除をしていったことで、京都の市街の治安はそれなりに安定したと思う。


 そこで舞い込んできたのが日野富子の日野家の養女と俺の縁談だ。


「俺を従五位上右兵衛佐に昇格させて、日野家の娘さんとの縁談ですか?」


 ちなみに右兵衛佐と同位の左兵衛佐は斯波家の独占している官位で武衛将軍という唐名がもとだが、室町幕府の官職の中でもかなりの高位に当たる。


 俺に話を持ってきた母さんが頷いて諭すように言った。


「ええ、こちらは伊勢平家ですから決しておかしくはないですよ」


 日野家は藤原北家日野流で本貫地の山城国宇治郡の日野からその名前がついていて、浄土真宗開祖の親鸞は、この一族でその子孫が代々門主として本願寺を率いた大谷家でもある。


 日野家が有名になるきっかけは鎌倉幕末の倒幕活動からで元亨2年(1324年)に発覚した後醍醐天皇の武力倒幕計画である正中の変に積極的に参画したことで著名な日野資朝や日野俊基も日野家の出身だ。


 そして、建武の新政が崩壊して足利尊氏と後醍醐天皇との対立が決定的となったときに、日野家出身の三宝院賢俊が持明院統の光厳院から尊氏に対し後醍醐追討の院宣を下す仲介をしたことで、日野家と足利家の結びつきが生じた。


 承久の乱の朝廷側の敗北後、公家の分家の創立が低調だったこの時代にあって、日野家からは裏松・烏丸・日野西など多くの分家が創出されたが、室町幕府3代将軍足利義満の御台所だった日野業子及び日野康子以後、将軍の正室は日野流から出すことが慣例となり、4代義持の正室栄子、6代義教の正室宗子、8代義政の正室富子、9代義尚の正室、11代義澄の正室と6代にわたって将軍の御台所を輩出し、足利義視の正室も富子の妹の良子である。


 もっとも日野家があまり力を持ちすぎることは将軍にとっては好ましくない側面もあり、6代将軍義教は日野流の勢力抑制に乗り出し、御台所だった宗子を退け、正親町三条公雅の娘である尹子が御台所となった。


 応仁の乱で日野家が東軍、正親町三条家が西軍に分かれ争っているのもそのあたりが原因だったりする。


 此のときに日野家の宗家である日野有光が足利義教の不興を買って失脚し、南朝復興を目指す後南朝と結んで、嘉吉3年(1443年)9月に金蔵主を擁して禁裏を襲撃し、三種の神器の一部を奪う禁闕の変を起こし、比叡山延暦寺の根本中堂に立て籠もったがやがて討たれ、有光の子資親も六条河原で処刑され、日野家はいったん完全に断絶した。


 しかし足利義教が嘉吉元年(1441年)に赤松満祐により殺害されて、その行き過ぎた専制政治に対して原状を回復しようとする動きが起き、この一環として日野家も再興された。


 7代義勝・8代義政の母重子が日野家の出身だったこともあり、富子が義政の御台所となると、兄の日野勝光は強大な政治的影響力を握り、本来では日野家の家格では昇進することのできない左大臣にまで昇り「押大臣(おしのおとど)」と呼ばれている。


 一方の俺の伊勢家は桓武平氏維衡流の伊勢平氏の氏族で平維衡は平将門を討伐した平貞盛の子どもで、鎌倉幕府の執権であった北条氏も平貞盛の一族だ。


 そして伊勢平氏は平清盛などのいわゆる平家の一族でもある。


 平清盛は従一位・太政大臣にまで昇進し、一族で公卿に列した人数12名と過去のことではあるが、伊勢家も家格としては決して低くはないのだな。


 実際に伊勢貞親は従四位上伊勢守だが五位以上を貴族、三位以上を公卿とする律令制では立派な貴族に含まれるのだ。


 鎌倉時代では北条の得宗のみだったし、室町時代では三管領四職を務める家や伊勢家などの政所執事くらいしか従四位上に叙せられることはない。


 もっとも戦国時代も末期になると大内義隆が従二位兵部卿・大宰大弐・侍従となったり、三好氏や松永久秀が従四位下に昇るなど家柄と関係なくなっていったりもしたが。


「実際のところ私に断る権限はないですよね」


 俺がそう言うと母さんは頷いた。


「まあ、そうなりますね」


 姉が自分の意志で今川義忠と婚姻を結んだのでは無いのと同様に、伊勢氏として朝廷幕府の双方に強い影響力を保つ日野家との縁談話が来た以上、それを断れば双方の家の面目を潰すことになるだろうから俺にこれを断るような権限はない。


 こういった時代は女にも男にも結婚相手を決めるような権限はないのだな。


 ただそうなると黙っていないのは正親町三条家でこちらからも縁談が来たらしい。


「こうなると側室として正親町三条家の娘さんも娶ることになりそうですか」


「そうなりますね」


 日野家、正親町三条家だけでなく近衛政家の近衛家などからも話が来て結局俺は全員を正室側室として迎えることになった。


 まあ公家の娘さんがまともに子供を産めるかどうかわからんのは江戸時代初期に公家から嫁をもらっても結局子どもが出来ずに断絶したりした徳川幕府を見てもあきらかなんだけど、白粉や偏りすぎた食事に運動不足が問題なんだよな。


 嫁ができれば当然世継ぎが期待されるし、どこかの嫁さんだけを贔屓するわけにも行かないから可能な限り対等に扱わないといけない。


要するにうちの家の荘園の保護と開墾、実家への支援もよろしくという意味なんだからな。


 正直頭がいたいことになったと思うが、政権中枢にいる武家としてはある意味こういうのは普通なのかもしれない。


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