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応仁の乱で京での最大の消耗戦となった相国寺合戦でもう京の都はぼろぼろだ

 大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、応仁元年(1467年)9月の東岩倉の戦いで東軍を破り京都北東に追い込んだ。


そして10月には京を制圧する戦略上の最重要拠点となる、足利義満が花の御所の隣接地に建てさせた相国寺をめぐる合戦が起こる。


「こりゃやばいな、寺に行くのはそろそろやめにするか」


 相国寺は御所のすぐそばで、伊勢屋敷は御所を挟んで反対側のすぐそばという事もあり、合戦に巻き込まれてはたまらんと俺は屋敷にこもることにした。


 東軍は細川勝元を筆頭に細川勝之、畠山政長、武田信賢、赤松貞村、京極持清などが相国寺を守るためにその南に布陣し、西軍は山名宗全を筆頭に朝倉孝景、畠山義就、大内政弘、一色義直、土岐成頼、六角高頼などが南側から東軍に攻めかかった。


 細川勝元はここで火器である石火矢(石火矢)飛砲(ひほう)と呼ばれる大砲や、小銅銃(しょうどうじゅう)と呼ばれる鉄砲、矢に火薬を詰めた筒をつけてロケット花火のように飛ばす飛火箭(ひかせん)、同様にロケット花火のようにやりを飛ばす飛火槍《ひかそう。》大砲で打ち出すものを石ではなく太い杭のようなものにした火箭などを投入し、西軍へ向けてそれを使用したが、命中精度の低さ、威力の低さゆえにそこまで効果的に使用できたとは言いがたかった。


 この時代の小銅銃はまだ火縄銃ではなくタッチホール式で銃身の末尾につけた穴に直接焼けた鉄を押しつけて発射するというものであったから、射手の思うように打てるものではなかったのだ。


 これもあって日本では鉄砲は高くつく割に対して役に立たないものと言う認識が強くなったらしく、ポルトガルの鋼鉄でできておりネジ式斧尾栓によって掃除が隅々まで行えて暴発が少ない火縄銃の伝来によって、ようやく鉄砲というものは威力のある火器となっていったのだ。


 西軍の畠山義就と朝倉孝景の軍はまず相国寺の武田信賢と京極持清を攻撃し、激戦の末に両者を退却させて相国寺を焼いたが、これは西軍に内通した相国寺の僧が放火したとも言われる。


 花の御所は相国寺のすぐ西側にあったためこちらも西軍に攻撃されたが、半分焼け落ちながらも陥落を免れた。


 東軍側は一旦退却したが、畠山政長が一色軍と六角高頼軍を急襲して打ち破り、相国寺を奪回したが、再度朝倉孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠に成功し、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、畠山義就が山名宗全邸の西に移ったことで東軍は劣勢に立たされたが、朝廷が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したことで西軍は朝敵となった。


 結果として西軍は相国寺の奪取により軍事的には東軍を追い詰めたが、朝廷と将軍双方を敵に回し、朝敵となってしまったことで政治的には西軍が敗北したともいえ、このあたりに細川勝元の政治力の高さも伺える。


 この合戦が双方に多大な死傷者を出す消耗戦となったことで、これ以降は両軍の間での衝突が散発的になり、主要な合戦は京都から地方へとうつり、相手陣営の有力武将の調略へと戦略が切り替わっていった。


「これで少しは落ち着くのかね」


 正直に言えば屋敷近くでどんぱちを度々行われてはたまらないからな。

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