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御霊信仰はというのは案外あなどれない

 さて、京の都内部での本格的な戦争が始まるとともに京の市中ではある噂が流れているようだ。


 その噂とは”御霊様の祟りで、多くの武士が死ぬ”というものだった。


「まあ、そう言いたくなる気持ちはわかるが、噂の出処はいったいどこなんだろうな」


 御霊合戦(ごりょうがっせん)の戦場となって燃やされた上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に祀られているのは崇道天皇(すどうてんのう)こと早良親王(さわらしんのう)井上内親王(いのえないしんのう)、とその息子の他戸親王(おさべしんのう)藤原吉子(ふじわらのよしこ)橘逸勢(たちばなのはやなり)文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)など政争に敗れて殺され怨霊となって祟りをなしたとされる人物たちばかりであるが、それが燃やされたのだからそういう風に考える人間がいてもおかしくはない。


「噂の出本は内裏から今上と上皇が退避する結果となったことを恨む朝廷の公家か、社を燃やされた寺社のものか、それとも合戦の様子を見ていた民か、それとも……燃やす原因になった畠山義就を追い落としたい、畠山政長か……」


 現状の朝廷は御霊会を盛大にできるほど余裕はないからな……。


「まあ、元服前で養われてる身分の俺じゃ何もできないがな……」


 元服したら幕府へ出仕するなり、駿河に下向するなりしないとならないだろうけど、幕府が財政難に陥るのはもはや目に見えているし、今のうちに金儲けの種になることを仕込んでおかないとならんだろうな……。


 この間も足利義政は畠山義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。


「まあ、将軍の言葉に従ったところで意味がないと思われてるよな」


 そして応仁元年(1467年)9月には応仁の乱における大きな戦闘の一つである東岩倉の戦いが起き、東軍と西軍が衝突した。


 これまで東軍は花の御所を確保して官軍としての立場を取り、西軍は追討令を受ける側に追いやられていたが、その後東軍の総大将だった足利義視が伊勢に出奔し、戦況は西軍有利に傾いていた。


 有利になった西軍は攻勢に出て9月1日に畠山義就が武田信賢の守る三宝院を放火して落とし、6日の将軍足利義政からの停戦勧告にも耳を貸さず13日に内裏を占拠した。


 しかし14日には、東軍の筆頭格である細川勝元の家臣秋庭元明と赤松政則の家臣浦上則宗が上洛した。


 そもそも両者は8月中に勝元の命令を受けて摂津で大内軍の上洛を防ごうとしていたがそれを果たせず、大内軍の後を追って入京したのだが、既に下京がほとんど西軍に占拠されていた状況であったために、東寺を経由して東へ迂回して16日に京都郊外の東岩倉の南禅寺の裏山に布陣した所で西軍に察知され、18日から西軍の南禅寺山攻撃が始まった。


 この闘いも激戦となり双方に多くの死傷者がでたが、10月2日に西軍は攻撃を中止して京都へ戻り、東軍はその隙に北から迂回して入京して東軍本陣へ辿り着いたが、この戦いで天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つ青蓮院が焼かれることになった。


 当然ながら比叡山の怒りは大きく幕府に対して抗議をしたが、幕府側としても比叡山に退去した後醍醐天皇をかくまったりしていた時代からその傲慢さには堪忍できずにいて、足利義教は度々比叡山を包囲し比叡山の代表者4人の首をはねたりもしている。


 そして、1499年に細川政元によって比叡山の建物が徹底的に焼かれる原因の一つにもなったのだろう。

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