そろそろ交易経路の整備に力を入れるとしようか
さて、楠氏の先祖朝敵御免を得ることができたことで 川俣正充には桑名の木俣など伊勢の各地にいる楠木一族に呼び掛けてもらい、俺のもとにはせ参じるよう伝えておいたが、その甲斐もあり桑名の木俣がこちらの下についてくれた。
もともと応仁の乱以前の伊勢のうち三重郡・朝明郡・員弁郡・桑名郡には幕府と関係の深い国人たちが多くいたこともあって、ようやく北伊勢の統治が安定してきたといえるだろう。
それに伴って、鈴鹿郡、河由郡の関氏や神戸氏、安濃郡の長野氏・植藤氏、工藤氏なども俺の下に入ってきた。
さすがに国司である北畠は俺の下に入る気はないようだけどな。
これにより伊勢の大半を抑えることもできたし、そろそろ交易に力を入れ始めるとしようか。
尾張や美濃も俺が直接的に統治しているのであれば木曽三川の木曽川、長良川、揖斐川、特に大垣へ至る揖斐川を用いて川を遡上し、そこから西へ関が原を超え琵琶湖へ物資を運んでしまうのが早いのだが、尾張はともかく美濃は土岐や斎藤が、がっちり支配しているからそっちは使えない。
しかし、桑名は古くは平安時代より、主に京都及びその周辺で生産されていた物資を尾張以東の東日本へ輸送するための中継拠点として、また尾張や美濃を中心とした地域の本途物成や小物成といったいわゆる租税年貢を集めて近江を経由して京都方面へ送り出す中継拠点として繁栄していた。
室町時代には商人たちによる自由都市となり「十楽の津」と呼ばれた。
「楽」とはいわゆる楽市楽座で有名だが守護や地頭国人がかける税を免除された場所であり、主従制に反することなどの罪から免れたりする場所でもある。
「楽」とは「無縁」であり、その「無縁」が保障される場所を「公界」ともよんでいた。
伊勢は寺社や禁裏地が多く、「公界」もたくさんあった。
お茶で有名な宇治や神宮の港として発達してきた大湊もそうだが、禁裏御料所であった桑名もそうで守護の介入を許さない場所であった。
もっとも、数多く存在した「公界」も、のちには織田信長や豊臣秀吉の圧倒的な武力の前に屈服せざるを得なかったが、現状の俺では難しいのも事実だがやりようはある。
桑名から近江や山城にある京へ向かう際に横断するには千種街道や八風街道が多く利用される。
そういった街道の整備や警備を守護たる俺が担う代わりに利用料をいくばくか払ってもらうようにするのだ。
もともと守護の役割というのは謀叛人の検断・殺害人の検断・夜討強盗山賊海賊の検断といった治安維持こそが基本的権限であった。
それに、刈田狼藉の検断権と使節遵行権が新たに守護の職権に加えられたりしたが、あくまでも守護は治安維持や国内の武士間の紛争へ介入する司法の権利を持つ存在でしかなかった。
もっともさらには国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられ段銭や棟別銭の徴収なども行うなどにいたり、ただの行政官から脱していったのも事実なのだが、何分俺には先祖代々の地盤というものがないのでただの行政官から抜け出せないでいるのだ。
結局は直属の武力というものがなければ権威など無視されてしまえば終わりだ。
ともかく俺は伊勢や伊賀の東海道や千種街道や八風街道の整備に加えて員弁川、鈴鹿川、安楽川といった伊勢から延びる川や野州川などの河川を並行して用いれるようにそちらの整備も手掛けていく予定だ。




