ようやく伊勢の員弁郡地域を制圧できた
さて、梅戸城や田能村城への攻撃などあれこれやっているうちに、年が明けて明応元年(1492年)になった。
世界的にはイベリア半島での、レコンキスタの完了や、コロンブスによるアメリカ大陸発見などがあった年だ。
そして日本国内では5月に近畿や東海の大雨で洪水被害が続出するはず。
さらに疫病が流行したことが理由に明応と改元されたのだ。
なお昨年に甲賀や伊賀だけでなく近江や尾張などでも蕎麦を栽培しておいて、食べられるものを確保しておいたこともあって、俺たちにはさほど飢饉の影響はないが、美濃・信濃・甲斐・伊豆・相模・武蔵などはかなりやばい状況でもあるようだ。
だからといってその地域に対する権限がなにもない俺にできることはないが。
ちなみに怨霊が引き起こす祟りは自然災害だが、その中でも疫病は自然災害の一種とされ、祟りの中でも最も恐れられた。
なお『太平記』では、怨霊になった楠木正成が、足利尊氏配下の武士である大森彦七が持つ刀を奪おうと鬼女となって襲ったりもする。
なぜゆえに楠木正成を女性にさせたのかは謎なのだが、後醍醐天皇、大塔宮護良親王らの怨霊たちを足利尊氏が弔うため創建したのが天龍寺であり、安国寺でもあったりする。
大雨による飢饉や疫病を、怨霊になった楠木正成が起こしているのであろうからこそ、先祖朝敵御免を行うことで、怨霊を鎮めるべきであるという理由つけにできそうな気もする。
そして、梅戸城や田能村城を力攻めで落城させて、員弁郡地域から六角氏に与していた勢力の駆逐にようやく成功した。
駿河で小鹿範満を討った時や、伊豆の堀越公方である足利政知を討った時同様に地元の国人豪族の力を借りて、まずはその地域において孤立しており、討伐する名目のある勢力を討って足場を固めていくということはどうやら伊勢でもうまくいきそうだ。
それをやって成功すれば下で公方様やら管領たちに警戒されてるのか、地位と所領を取り上げられて他の場所でおなじようなことをまた最初からやらされるのにも、いい加減疲れてきたけど、もともと伊勢氏には、代々同じ国での守護職を継承している守護のような地盤がないからどうしようもないことでもあるのだよな。




