表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

154/160

伊勢の攻略には勢力の分断と北畠しの乗っ取りが必要だろう

 さて、俺は服部や望月に伊勢の木造や川俣、関、神戸などを切り崩してこちらの味方につけてほしいと調略の依頼を出した。


 伊勢国の石高は56万石と決して低くはなく、しかも城の防御力も低くないので単純な力攻めは通用しない可能性が高い。


 織田信長は永禄10年(1567年)頃から伊勢平定を開始しているが、神戸具盛の宿老山路弾正が城主を務めていた高岡城の守備をなかなか崩せず、戦線は膠着して美濃へ撤退している。


 そして翌年の永禄11年(1568年)には、4万の大軍で織田信長は再び伊勢に侵攻し、北伊勢の国人領主たちはたちまち従えられていくが、高岡城は落ちなかった。


 そこで織田信長は、神戸具盛に対して、自身の三男・三七(のちの信孝)を神戸家の養子とすることを条件に和睦を打診すると、神戸具盛がこれを受け入れ、神戸氏は実質的に信長の傘下へ入った。


 続いて長野城を居城とする長野具藤に狙いを定め、長野家重臣の細野藤敦が守る安濃城攻めを開始する。


 このとき長野一族は和戦両論に分かれ、細野藤敦の弟の分部光嘉や川北藤元らは和睦を主張。


 しかし、細野藤敦は安濃城に籠って抵抗したが、信長の弟の織田信包を長野氏の嗣として和睦することを画策していた分部光嘉らが、細野藤敦が信長方に寝返ったと讒言し、長野具藤に細野藤敦を攻撃させたが、細野藤敦はこれを撃退し、長野具藤は生家である北畠氏を頼って南へ落ち延びていく。


 これにより織田信包が長野家の家督を継ぐこととなり、長野氏も信長の傘下へ入った。


 そして北伊勢が落ち着いたことで織田信長は、永禄11年(1568)9月、足利義昭を美濃に迎え、6万の大軍を率いて京へ上洛した。


 そしてその翌年の永禄12年(1569)5月、北畠具教の弟で木造城を守る木造具政が、織田家に内通して宗家に謀叛を起こした。


 北畠具教は、すぐに軍勢を派遣して木造城を攻めたが、長野家や神戸家の軍勢が織田方として救援に駆けつけたこともあり、木造城の攻略には至らなかった。


 そして織田信長は北畠具教・具房父子の籠もる大河内城を攻撃するが、雨のため鉄砲が使用できなかったこともあって、城兵の抵抗の前に損害を被り撤退。


 信長は力攻めをあきらめ、周辺の田畑の作物を刈り取るとともに、城下の住民を城内へ追いこんで兵糧攻めへと戦法を切り替えた。


 それにより大河内城内では兵糧が尽き、餓死者が続出し北畠方はやむなく講和を打診。


 これを受け、北畠具教、具房父子が大河内城を退去すること、信長の次男の茶筅丸(のちの信雄)を具房の養嗣子かつ娘・雪姫の婿に迎え、北畠家の跡継ぎとすることを条件に信長は降伏を認め実質的に北畠家は織田信長に乗っ取られることとなる。


 これは兄弟や子供の多い信長だからこそできたことでもあるが、信長の北畠氏との戦いはむしろ信長方が次第に劣勢となり、足利義昭の仲介で和議に入ったと言う説もある。


 俺は北条の名前に変えたばかりだから更に北畠に名を変えることはできないが弟の伊勢弥次郎盛興を養嗣子にさせて北畠を名乗らせるというのはありかもしれないな。


 北畠は村上源氏中院家庶流の大臣家でもあるので家格はかなり高く中央への影響力も低くはない。


 まあ、反発も受けそうではあるのだが。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 信長は尾張、美濃の資本力が有り力の差は歴然でしたので抵抗する側も織田一門に入るとか降伏後の待遇を良くするための抵抗だったような気がします。 後北条が織田と同じ手を使っても相手に足下を見られる…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ