中断されている伊勢神宮外宮の式年遷宮と街道整備をしなければな
さて、畿内というのは、 大和・山城・摂津・河内・和泉の5ヶ国であるが、それに準ずる地域となるのが播磨・丹波・近江・伊賀・伊勢・紀伊である。
播磨・丹波・紀伊に関しては現状の俺は関係しないが、近江・伊賀・伊勢は現状統治を進めている場所であって朝廷や幕府にとっても関係が深い場所と言えなくもないのだが伊賀や伊勢に関して言えばかなり微妙な状態であるとも言える。
都が大和の飛鳥や奈良の平城京などにあったころの東海道と言えば、大和国の宇陀から東に向かって鈴鹿関が置かれて鈴鹿峠を越え伊勢国に入り、関・亀山を経て、四日市・桑名を通り、尾張国へ通じる道であり、鈴鹿関で東国からの攻撃などに備えていた。
しかし、延暦13年(794)に、山城の平安京に都が遷されると、近江から鈴鹿峠を越える事になって、大和から伊賀を通る道は停止されたが、大河川に橋を架ける技術が発達していないこともあって、東山道の方がよく使われていた。
そして律令体制の崩壊とともに街道整備は行われなくなり道は荒れていくのだが、鎌倉に幕府ができ、京の六波羅探題との連絡が重要視されたこともあって、東海道は整備されていくことになった。
鎌倉時代の東海道は、尾張で萱津を通って、墨俣から美濃国に入り、そのまま、東山道ルートと合流して、不破関を通過して近江国に入り、さらに北陸道と合流して京都へ向かう、関ヶ原越えのルートに変更されていたが尾張と伊勢の間には大きな川があって移動しづらく、山の中は整備がしづらいという問題によるものだったろう。
そういった事もあって伊賀や伊勢の重要度はこの時代はかなり下がっているのも状況をややこしくしている理由の一つでもあったろう。
もっとも本能寺の変の後に徳川家康が三河へ帰る際には甲賀・伊賀を抜けて伊勢にでてそこからは船で三河に戻っていたりするので道がないわけではないし、熊野大社と伊勢神宮というこの時代でも大きな権威を残す寺社が残っていることで全く人通りがないわけでないのが救いではあるが。
「京から甲賀や伊賀を通じて伊勢・尾張の往来をしやすくするための街道整備もやらんといかんが、問題は銭だな」
俺がそう言うと大道寺重時額相して言う。
「それにどれだけ銭をかけるのだという話だな。
しかも近江だってまだ完全に落ち着いたとは言えないぞ」
「とはいえ”蟻の熊野詣”と”伊勢詣”前の道を整備すれば落ちる金も増えるだろう」
「ふむ、それはそうかも知れないな」
伊勢神宮への”お伊勢参り”はこの時代はあまり活発でなく、熊野詣には紀伊路と呼ばれる淀川を下った後紀伊半島を海岸沿いに歩く道が主流だが、伊勢神宮を経由する伊勢路も存在はする。
熊野詣が行われたきっかけは延喜7年(907)の宇多上皇に始まり、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の頃にもっとも盛んになったが、熊野水軍は最初、平氏に付き、のちに源氏に付き壇ノ浦の合戦で活躍したものの、承久の乱で熊野は上皇方に付き、上皇が敗北することで熊野詣では衰退することになって、室町時代には距離的にも近い伊勢参りのほうが流行しつつある状況でもある。
だが、永享6年(1434年)9月23日以来、外宮の式年遷宮は中断されているし、これをちゃんとやらんといかんよな。




