南近江や伊賀はなんとかなったが伊勢が問題だな
さて、甲賀や伊賀の有力な国人を取り込んだり、訴訟沙汰を武力でひっくり返そうとした連中は武力で叩き潰したり、文官として使えそうな連中は扶持米や扶持銭で抱えることで、南近江や伊賀についてはだいたいの問題は片付いてきたと思う。
「しかし米が作れないのならば麦や蕎麦を作ればいい。
美味い食い方を教えれば問題はあるまいと言っても、甲賀や伊賀の者たちは半信半疑であったものが多かったのですが、蕎麦を上手く食べられる方法を教え、実際に食べさせたことで、今年は餓えずに済みそうです。
それはともかく伊賀や甲賀の土が焼き物に向いているというのはどのように知ったのでございますか?」
風魔小太郎がそう聞いてくるので俺は冷や汗を垂らしながら考えた。
信楽焼きのたぬきといえば全国的に有名だからと答えるわけにはいかんのだろうし。
「もともと甲賀信楽は、良い土があるということが古くから知られていて、鎌倉殿の時代には、窖窯によって壺、甕、擂鉢などの焼き物づくりが始められていたという話を聞いたことがあったのでな。
もっとも(鎌倉幕府)倒幕からのその後に延々と続く争いのせいで、衰退してしまっていたようなのだが」
「なるほど、そういった記録がございましたか。
さすがは殿でございます」
なんとかごまかせたかな? まあ、大道寺重時は”いやそうじゃない”といいそうだけども。
で、これで加賀一向一揆鎮圧に行けるかというと、そういうわけにも行かない。
俺には伊勢守護の地位も与えられていて、そっちもなんとかしないといけないからだ。
本来ならば伊勢守護は一色義直なのだが、文明18年(1486年)に禁裏の意向により一色義直の知行地である小浜が武田国信に与えられると、抗議のため丹後へ下向し、翌長享元年(1487年)の9代将軍足利義尚による六角高頼攻め(長享・延徳の乱)にも参陣せず、代理に次男の一色義秀を参陣させことから、彼が伊勢守護の地位を剥奪されてそれが俺に回ってきたわけだ。
そして応仁の乱の際には、北伊勢で新守護の土岐政康と一色家の守護代石川道悟との合戦が続いたことのしこりがまだ残っているうえに、伊勢国司である北畠政郷北畠具方親子が伊勢中部の神戸氏や長野氏、関氏らと争っていたりもする。
さらに「十楽の津」とよばれる桑名は桑名衆が統治している自治都市であったりもする。
「伊勢は三河や近江以上に面倒くさいな……」
とりあえずは三河や南近江でやったように訴訟をうけて沙汰を下し、力ずくでそれをひっくり返えそうとしたらそれらを個々に潰していくしか無いかな。
最初から力ずくで行こうとすれば北伊勢四十八家とよばれる連中がまとまって対抗しようとしてくる可能性が高く無駄な犠牲が出る可能性が高いからな。




