前将軍たる足利義政が死去したことで中央での勢力がまた変わったらしい
さて、関東探題として古河公方の下で足利家の家宰扱いの家臣である簗田氏と野田氏などとともに鎌倉府の運営に携わることになったとは言え、彼らや鎌倉五山の僧侶も鎌倉府の運営に携わることになり、中央から監視役も兼ねているのかもしれない部下も派遣されたためだいぶ楽になった。
加賀一向一揆の発生もあって六角征伐は中止されて守護たちは領国へ戻ったが、足利義尚は側近の結城尚豊を近江守護に任命していたが、彼は自害に追い込まれて近江守護は宙に浮いている。
しかし領国を失っている斯波義寛と、守護代の織田敏定は越前に逃れて、朝倉孝景の息子氏景の推戴により、斯波義俊と名乗って鞍谷公方となっていたこと。
その鞍谷公方は4代将軍の足利義持の弟で足利義嗣の子である足利嗣俊を家祖に持ち、家柄の上では斯波氏よりも遥かに鞍谷公方の方が格上であったこともあって、彼が名目上の越前の国主とされたことで、それが斯波義寛の越前横領の言い分が通らなかった原因でもあったため、彼らは越前へ攻め込んだが、朝倉経景・朝倉光玖・朝倉景冬らに撃退され、織田敏定や甲斐敏光とともに自害してはて、管領の斯波武衛家は事実上滅亡した。
そんな事もあったが関東が落ち着く頃には年が変わって延徳2年(1490年)になった。
昨年同様に関東の国人豪族などの正月の挨拶を受けていたが、加賀一向一揆の影響が越中にまで及び越後が不安定になったこともあって、さすがの山内上杉も今年は鎌倉に挨拶にやってきていた。
これで俺ものんびりできるかと思った矢先の1月7日に前将軍たる足利義政が死去し、それを受けて日野富子が出家することになった。
そしてなんか嫌な予感がすると思ったらその予感は命中してしまったのだ。
「北条右京太夫(長氏)の鎌倉探題の任を解き、代わりのものは伊勢より派遣するものとする」
「は、かしこまりて、ございます」
「そして、代わりに北条右京太夫(長氏)を近江・伊賀・伊勢守護に任ずる。
この命を受け次第、六角高頼並びに加賀一向一揆の討伐を行なうようにとのことでございます」
「………かしこまりて、ございます」
ゲリラ戦を行っている六角の甲賀忍者と加賀一向一揆を討伐しろとか簡単に言ってくれる。
それとも父親である足利義政が死んだことで畠山政長が権力を握り、細川政元の影響力が落ちたのか?
何れにせよ甲賀のゲリラ戦術に対抗するためには風魔一族に加えて伊賀の忍びなどにも協力を要請するべきか。
まったくもって頭がいたいぜ。




