古河公方が鎌倉に戻ってきたのでだいぶ楽になったな
さて、古河公方が鎌倉に戻ることになり俺はそれを補佐する関東探題になった。
かつて堀越公方には京都より派遣された関東探題渋川義鏡が付き添ったが、関東管領である山内上杉家や扇谷上杉家が反発したこともあって伊豆にとどまらざるを得なかった。
その堀越公方を将軍位簒奪の恐れありと討ち取ったのは誰でもない俺なわけだが、鎌倉以来の関東の諸将は初代鎌倉公方足利基氏以来の血筋である足利成氏への忠誠心が厚く、それ故に関東管領上杉家と古河公方とそれに協力する関東の勢力の戦いは長く続いた。
この時点で上杉家は伊豆・相模・武蔵・上野・越後をおさえる大勢力であり、下野、常陸、下総、上総、安房の武家の助力を得た古河公方とも全面的に争うだけの国力を十分有していた。
しかし、古河公方との争いが収まった後の長尾景春の乱、さらに山内上杉と扇谷上杉家の抗争により国力は大きく疲弊し、扇谷上杉は事実上滅亡して、山内上杉も越後・上野に加えて武蔵の一部おさえるだけとなりその発言力は大きく低下している。
俺は堀越公方足利政知が押領した伊豆国内の京都寺院領や鎌倉五山領を、返納して鎌倉五山や鎌倉殿などの建物を人足や大工を大掛かりに雇って復旧し、古河公方やその側近の受け入れ体制を整えた。
「生きているうちに鎌倉に戻ってこられるとは感無量であるな。
北条左京大夫(長氏)にはまこと感謝するぞ」
古河公方であった足利成氏はおれにそういって笑った。
「やはり鎌倉こそが武家の本拠としてふさわしいものでございますゆえ、お戻りいただき嬉しく存じます」
「とは言え私ももはや歳であるし家督は譲ろうと思う」
「左様でございますか」
家督を譲っても実際には権力をそのまま持ち続けることも多いが、実務からは離れたいということだろうか?
そしてそんなことをしているうちに延徳元年(1489年)となった。
正月の挨拶に関東の大名国人などが鎌倉へとやってきて挨拶をしていたが山内上杉は来ていないようだ。
まあ他国の逆徒呼ばわりしていた俺が関東探題などという地位について伊豆・相模・武蔵などの領国支配が正当化されたのは上杉からすれば信じられないことなのだろう。
とは言え北条改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであるし、関東探題就任は中央の正式な任命によるものでいつまで経っても関東の争いを終わらせることができない上杉家にしびれを切らしたとも見えるが。
まあ、三浦高救は里見氏の重臣である安房正木氏を頼って安房国に逃げていたリもしているので、関東の国人たちが皆挨拶に来ているわけでもないのだろうけども。
まあともかく古川に移動していた関東における政治的拠点は鎌倉に戻り、鎌倉府のある鎌倉に出仕して鎌倉公方在倉制も復活し、鎌倉から古川に移動していた多くの奉公衆やその他の家臣、僧侶・文化人なども鎌倉に戻ってきた。
これで圧倒的文官不足はとりあえずなんとかなるだろう。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことで和田惟政、伊勢貞興、明智光秀、松永久秀、細川藤孝などの幕臣を後には家臣にしたように上手く行けば俺の臣下に取り込めるかもしれない。
もっとも山内上杉や三好長慶のようになる可能性も十分ありえるけどな。




