古河公方が鎌倉に戻ることになり俺は関東探題とかいう微妙な地位につくことになっちまった。
さて、現状では岩槻城と河越城の間で小競り合いはあるが、山之内上杉による全面攻勢による大合戦は起きていない。
これは古河公方がどちらにつくかの旗幟を鮮明にしていない上に、越後の守護上杉氏と守護代の長尾氏の関係が微妙な状態にあったりする上に揚北衆の動向もはっきりしないことから全戦力を投入する事ができないからだろう。
無論万ではなくとも何千という兵力は動かしているあたりは腐っても関東管領山内上杉家とは言えるだろうが、こちらも相模や武蔵の国人を動員すれば対処できるし、甲斐を押さえてあるから武田による横槍は心配いしなくともよく、古河公方がフラフラしている間はどっちつかずの国人を従えて攻めてくる心配も少ない。
そして鎌倉五山の僧侶を使者として室町幕府中央に古河公方を鎌倉に迎えたいと伝えた結果が出たのはおよそ3ヶ月後。
上洛していた鎌倉五山の住職たちが戻ってきたのだ。
「公方様並びに大御所様より古河公方様を鎌倉へ迎え北条殿は関東探題としてその補佐を行ってほしいとのお言葉をいただきました」
「ふむ、それは主に財政的な面でということですかな?」
「そうでございます」
どうやら古河公方を鎌倉へ戻して相模・武蔵の統治を公方付きの文官たちへぶん投げようという計画は失敗したようだ。
ここでややこしい話になるが関東探題というのは関東公方付きの政所執事として司法や財政を担当しろということだな。
本来は鎌倉公方が中央から派遣された”関東管領”であって、上杉氏はこの関東管領である鎌倉公方の執事を代々努めただけであるが、鎌倉足利家の関東公方の自称にともなって、上杉が関東管領と称されるに至っている。
もともと管領は、将軍を直接的に補佐して幕政を統轄し、幕臣の筆頭として、幕府の重要な儀式に参列して行事を執り行なう立ち場で、もともとは高師直などが担っていた足利氏家宰である執事の後継職である。
つまり関東管領より関東探題は下で、幕府中央における細川・畠山・斯波などに対しての伊勢同様の立場に置かれたわけだ。
鎌倉公方が自称である以上、執事にすぎない上杉の関東管領も自称でしかないのだが、もともと鎌倉時代から続いているが多い関東では鎌倉殿が室町殿の下であるという意識が少なくそれが関東の独立の気風につながっていたりもした。
鎌倉公方は関東10か国の相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐に加えて奥羽も間接的に押さえていたが現状では下総・上総・安房・下野・常陸のみであるとは言え、影響力を山城のみとしてしまった中央よりは影響力は残している。
「そして、鎌倉の復興と関東の戦乱が収まった暁には近江・伊賀・伊勢・大和の守護としたいともおっしゃられていました」
「関東が落ち着いたら伊勢神宮や興福寺などを含んだその地域の寺社や御料所の再建もしてくれと言うことですかな」
「おそらくそういうことでございます」
あっさり簡単に言うが言いたいことはわかるし、おそらくこれは日野富子の意向だろう。
朝廷というのは全國に建っている寺社の頂点であり、それらの寺社領が守護や国人に奪われっぱなしでは朝廷の権威もまた下がりっぱなしになるからな。
鎌倉五山や鎌倉の鶴岡八幡宮を復興させて武家の権威を取り戻した後には朝廷の権威復活を狙っているのだろうなぁ……。
なお伊勢は北畠が守護じゃないのかと思われるだろうが、北畠はあくまでも伊勢守であって伊勢守護ではなかったりする。
「ともかくは鎌倉御所やその他の建物復旧と同時に寺社を再建しないといけませんな」
俺がそう言うと鎌倉五山の住職たちが嬉しそうに言った。
「古川の皆さまが鎌倉へ戻られるまでに復興を進めるべきでございましょう」
「そうでございますな」
これは今まで蓄えていた津料などをつぎ込んで大工や人足などを集めてやるしかないな。
中央は山内上杉も鎌倉に戻るように言うだろうが、さてどうなるかな。




