江戸城の太田資康の調略に成功したので小机城も落とし武蔵南部を制圧したよ
さて、江戸城の太田資康の調略は比較的早く行えた。
「どうやら太田資康と扇谷上杉朝良はかなり険悪な状態だったようでございまして、こちらへつくことを了承しました」
風魔小太郎の報告に俺はうなずいた。
「父親を謀殺された太田資康もそれにより一度敵となったことで戦った扇谷上杉朝良もお互いに疑心が晴れないのだろうな。
だがこれは好機だし、今のうちに小机城を攻めおとすぞ」
小机城は現代で言うならば新横浜駅のあたりにあり、鎌倉の玉縄城と江戸城を結ぶ重要な位置にある。
鶴見川を用いた堀を巡らせていることもあり、それなりの防御力はあって、鶴見川を使った水運の流通経済網における重要地点でもあり、東海道の要衝でもある。
元は長尾景春が反乱を起こした時に、長尾景春に味方した豊島氏の部下の矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦ったが、攻め手が小勢なため包囲は数十日に及んだ。
だが、大田道灌は「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」という戯れ歌をつくって兵に歌わせ士気を鼓舞してこれを攻め落としている。
「権現山城の上田蔵人(政盛) にも兵を出すように伝えよ」
俺は風魔小太郎に指示を出した。
「かしこまりました」
「お前さんには城の留守を任せる」
俺がそう言うと大道寺重時がうなずいた。
「ああ、任せておけ」
何だかんだといつも書類仕事を任せて悪いが、大道寺重時は俺の分身みたいなものだからな。
幼いときから一緒に育ってきた仲だからあれこれ言わなくても俺の意を汲み取ってくれるのは非常に助かる。
小田原城の大森や伊豆の国人衆なども含めた4000の兵を率いて俺達は小机城ヘ向かったが、太田道灌が攻め落とした後はろくに補修されていなかったのもあって、あっさり陥落させることが出来た。
それにより武蔵国南部の現在で言う川崎横浜周辺の国人を服属させた俺は兵を北上させ、扇谷上杉朝良の兵を高輪原にて撃破し、寝返らせた太田資高と挟撃を行って扇谷上杉朝良を打ち取り、そのまま石神井城、練馬城、岩付城を攻撃して落城させ、蕨城も攻略して武蔵南部を押さえた。
これに対して扇谷上杉は朝良の兄の上杉朝寧が山内上杉憲房の支援を受けて態勢を立て直そうとしているようだが、やはり朝良は文弱で幼少とは言え当主の戦死というのは小さくない影響があったようでその動きは比較的鈍い。
だが山内上杉が本格的に動き出せば今でのように簡単にはいかなくなるだろう。




