三河の土地争いも何とかおさまってきたし、次は尾張だな。
さて、三河を制圧してその後の土地争いの訴訟などに忙殺されているうちに年が明けて文明19年、長享元年(1487年)になった。
正月のあいさつなども大変だったがもめごとの解決が基本は自力救済、要するに強い力を持つ方が幅を利かせる時代というのは本当に大変だ。
例えば合戦には強いが領地経営はまるでダメな国人が領地を広げればどうなるかというのは、ちょっと想像すればわかるだろう。
もっとも惣村の方もあまりひどい扱いになれば土地を捨てて離散したり、一揆を起こして実力で灰処したりもするからやり方があまり極端な場合大抵は長続きしないが。
むしろ、比較的マシに見えるくらいが一番困るわけだ。
村からの訴えなどがあった場合には地頭国人の話と惣村代表の話を両方聞くが大抵は国人側が関所を勝手に作ったり、中抜して私腹を肥やしすぎていたりする場合のほうが多い。
そういった場合はそういうやつは討伐して他のものに与えるなり直轄地にするなりするがまあそんなことの繰り返しだった。
風魔に任せていた甲斐の国もかなり落ち着いてきたようだ。
風土病被害の大きい地区の住人は相模・遠江・三河などの治水などの普請へと借り出して移動させたりもしている。
甲斐における冷害に強い稲の品種の選抜も多少だが進んでいるようだ。
東日本では豊富な雪解け水によって夏でも水そのものが不足することは殆どないが逆に冷害は起きやすいから寒さに強い稲というのは重要だ。
越前朝倉氏と斯波氏の方はといえば文明13年(1481年)に、朝倉孝景の死により嫡子の朝倉氏景が家督を継いだが、文明18年(1486年)に38歳で死去したことで、子の朝倉貞景が家督を継いだが、わずか13、4歳の若年のため、家臣が勝手な行動をしたりしている事もあって現在斯波は越前へ兵を出してその奪回に全力を傾けている。
戦国チート爺と名高い朝倉宗滴(朝倉教景)はまだ幼少だしな。
斯波高経は越前・若狭・越中守護として新田義貞を撃つ功績を上げたが観桜の騒乱で足利尊氏と足利直義の間を行ったりきたりした上に佐々木道誉と対立して没落したが、その四男である斯波義将は越前・越中・信濃守護となり、その子である斯波義重が足利義満から寵愛されたこともあって越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護となったこともあって、越前は先祖代々の本拠地としての意識が強い。
遠江も斯波から俺が奪っているわけではあるが、斯波の本来の本拠地で石高が約50万国あり、日本海側からの物流の要衝でもある越前と斯波が現地に赴いたことのない石高が25万石程度で海における物流の要衝でもない遠江ではどちらが優先なのかは言うまでもないだろう。
斯波は三河の制圧が困難故に早く終わると思っていなかっただろうし、今のうちに尾張を制圧してしまいたいものだな。




