鎌倉を落としたことで山内上杉が本気になったか、三浦氏を滅ぼして相模を統一したよ
さて、俺達は大庭要害に続き玉縄要害などを攻略して鎌倉を制圧し、鎌倉の鶴岡八幡宮の復興などに乗り出した。
「それにしても鎌倉に公方がいないとは言えこの荒れようはひどすぎるな」
大道寺重時の言葉に俺はうなずいた。
「堀越公方(足利政知)を鎌倉に入れなかったのは、実は元からこんな感じだったから入れられなかったということかもしれないな」
「たしかにそれはありそうだ」
そもそも鎌倉時代には北条氏が執権として幕府機構を掌握したが鎌倉自体は戦火に巻き込まれることはなかった。
しかし元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の意を受けた新田義貞軍が鎌倉を陥落させ、北条高時ら北条一族と家臣は東勝寺合戦において自決し、鎌倉幕府が滅亡した後は、中先代の乱や北畠、新田らに攻め落とされそのたびに戦火に巻き込まれている上に、康正元年(1455年)に足利成氏が古河に逃れた後は古河に住む成氏を討つため、対立する扇谷上杉氏は川越城へ本拠地を移したし、山内上杉氏も鎌倉を後にした。
足利公方の後任として、幕府は、足利政知を遣わしたが、成氏に味方する者が多く、また上杉氏は足利政知の付け人を快く思わず、 関東に入れなかった。伊豆の掘越にとどまって堀越公方となった。
この結果、鎌倉には公方も管領もいなくなり、衰退した。
鎌倉は関東における政治の中心地で無くなり、それに付き従う官僚も当然いなくなれば、鎌倉が大きく衰退するのは当然でもある。
例えるならば中央官庁や裁判所などが鎌倉から古河に移動すればそれに応じて中央官僚や検事、裁判官などもそちらへ異動してしまうようなものだ。
鎌倉は鎌倉幕府や室町幕府の鎌倉府が行政や司法の中心地としていたからこそ栄えていたのだから、それが農業と漁業だけになってしまえば、ただの地方都市の一つに過ぎなくなるわけだ。
ああ、それと、明応7年(1498年)の明応地震で、鎌倉は大きな津波に襲われるから津波対策をしなくてはいけないな。
そして甲斐の武田などが俺に屈服し、今川が遠江を押さえた事もあってか、山内上杉顕定は、細川政元に接近し、細川政元も俺が遠江から鎌倉までを押さえたことに不信感を抱いたのか、それに応じてしまった。
細川政元は斯波義寛と上杉顕定の連携も図っているらしい。
それに対して俺は今まで山内上杉とつながっていた、文明12年(1480年)に相伴衆となった、大内政弘と手を結んだ。
もともと彼とは応仁の乱の時に面識があったから話しは早かった。
そして扇谷上杉定正は、大森氏頼によって放逐されて、甥の上杉朝良がその後を継ぎ山内上杉と扇谷上杉は和解した。
俺はそういった動きの間に、三崎城を攻め落とし、三浦時高・高教親子を自害に追い込んで三浦の分家に統治するように命じた。
三浦時高は永享10年(1438年)に足利持氏が関東管領の上杉憲実討伐のために武蔵へ兵を出しており、そのときに三浦時高は鎌倉府の留守を命じられたが、室町幕府6代将軍の足利義教が足利持氏討伐を命じると、そのまま幕府軍迎撃のために箱根山に向かった足利持氏を横目に三浦時高は上杉氏と結んで叛旗を翻し、三浦半島から軍を引き入れて鎌倉を占領して足利持氏・義久父子を自害に追い込んだ過去があったため、人々は「永享の乱で主君・足利持氏を裏切って攻め滅ぼした報いだ」と噂した。
いや、その噂を流させたのは俺だけど、実際にそう思っている鎌倉の人間は少なくなく、三浦の統治にも支障は少なくなったから効果は抜群だったよ。




