今川家中の内紛に介入して今川の軍事権を抑えたよ
さて、史実においての北条早雲は、永正6年(1509年)頃まで今川家臣として働いていたこともあって、今川家中が割れて政争からの内紛が起こることなどはなかった。
なんだかんだ彼が生涯名乗っていた伊勢という名前が大きく影響していたのだろう。
しかし俺が伊勢の名前を捨てて北条長氏を名乗り、今川氏親の後見人を降りたことで、今川重臣の朝比奈や福島は俺たちが西相模や甲斐を抑えようとしている間に今川分家との政争から合戦に至ってしまい現状では今川の分家が不利な状況なようだ。
そこで姉上からの使者が来た。
「北川殿は朝比奈や福島の独断専横にとても心を傷められております。
傍若無人に振る舞う彼らを弟君である駿河守様にどうか諌めてもらえないかとおっしゃられています」
俺は少しだけ考えたあとうなずいた。
「わかりました、某は姉上の力になる所存であるとお伝え下さい」
使者はホッとしたような表情の後にうなずいて言った。
「それは良い知らせを持ち帰ることができます」
実際に斯波が現在越前の朝倉征伐にでていたり、甲斐が甲斐国人である逸見氏や跡部氏の専横があったりなど国人がその地位を奪おうとすることは多い。
ただあからさまに兵を動かすに至るのがここまで早いとは正直予想していなかった俺の読みも甘かったが、彼らも俺の甲斐攻略がもっともっと時間がかかり、その統治で手が一杯になるとも思っていたのだろう。
尾張の斯波は越前で朝倉とやりあっていて動けないし、三河は吉良が 西条家と東条家に分裂したまま争いがおさまらず、その間に松平などの国人の台頭を招いているし、信濃も府中小笠原家、松尾小笠原家、鈴岡小笠原家に分裂したまま、衝突を繰り返し衰退していて、国人衆の台頭を招いているから周辺の他国からの介入もないと考えたのだろう。
ところが俺が経済的調略で甲斐の有力な国人である小山田と穴山を切り崩し、宗家に反抗的な分家を味方につけて、あっというまに甲府を制圧してしまい、甲斐の統治は風魔に丸投げしたことで、自由に動き回れる状態になった。
無論山内上杉の動きを警戒しなくてはならないではあろうが、扇谷上杉との関係も一応良好で、扇谷上杉は河越城近辺で粘り強く戦っていることもあって、そっちもすぐには心配はいらないだろう。
俺は自分の直轄地から1000の兵を集め、伊豆や小田原からの国人達に兵1500名を出させて合計2500名の兵で駿河へ向かって、野戦で福島・朝比奈連合の2000を打ち破った。
そうやってまず駿河から彼らの影響力を排除し、駿河の国人衆を改めて俺の指示に従うようにさせ、今川分家の兵500をあわせて3000の兵での福島正成のいる高天神城へむかった。
『高天神を制するものは遠州を制す』と称されるほど地理的に重要な城であり、後にも争奪戦が繰り返された城だが、力攻めと降伏勧告を繰り返すと圧倒的兵力差もあって最終的に福島正成は降伏した。
福島正成には自害を命じたが一族や兵の降伏は受け入れ、そしてすぐに朝比奈泰煕が籠もる掛川城へと俺は兵を進めた。
掛川城は高天神の北8キロほど離れた場所の城でやはり重要な位置を占める城である。
こちらでも力攻めと降伏勧告を繰り返すとやがて朝比奈泰煕は降伏した。
朝比奈泰煕に対しても自害を命じたが一族や兵の降伏は受け入れたことで混乱は比較的少なく収まった、
福島・朝比奈という遠江において比較的勢力の強い重臣達二名があっという間に敗北して当主が廃されたことでその他の国人達は俺に素直に従うことにしたようだ。
結果的に俺は駿河と遠江の国人を従えたことで、実質的な軍権も手に入れることになった。
今川氏親には後見人の分家連中とともに当面は内政に専念してもらう方がいいかもしれない。
そして西遠江の安定には三河と尾張の制圧も必要だろうが、三河の吉良家は今川の本家であるというのが事態をややこしくしそうなのが問題だな。




