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執権北条氏の後裔の血筋の婿養子に入って北条長氏と名乗ったよ

 さて、伊豆一国に相模川西岸の相模、そして駿河の一部を領有した俺だが、現状では室町幕府の幕臣かつ今川と扇谷上杉の臣下という立場でしかない。


 この状況を変えるためには現状の立場を利用して今川家を乗っ取るという方法もあるが、そうした場合には今川の重臣や分家が当然黙っていないだろうから、下手すれば全面的な戦争になる可能性があるが当然それは避けたい。


 で、あれば姉上や今川の分家、重臣たちとも話をした上で、伊豆の北条氏の血筋の家へ養子に入り俺自身が北条を名乗って、今川の政治には強く関わらない姿勢を見せたほうが彼らも納得するだろうし伊豆や相模は支配しやすくなるだろう。


 まあ執権北条氏と今川氏は建武2年(1335年)の北条高時の遺児である北条時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した中先代の乱(なかせんだいのらん)でも対立しているし、後醍醐天皇の皇子の一人である宗良親王(むねよししんのう)が暦応元年/延元3年(1338年)には、義良親王(のりよししんのう)とともに北畠親房に奉じられて伊勢国大湊より陸奥国府へ渡ろうとするが、座礁により遠江国に漂着し、井伊谷の豪族井伊道政のもとに身を寄せた時は井伊氏と今川氏の間に対立が起き、暦応3年、興国元年(1340年)に井伊谷城が落城すると、駿河安倍城へ移り、こんどは狩野氏と今川氏が対立するが、そちらも攻められると興国5年/康永3年(1344年)に信濃国伊那郡の豪族であり中先代の乱でも北条方に協力した滋野氏の支流望月氏の一族である香坂高宗に招かれ、「信濃宮」と呼ばれる拠点を築いて30年もの間南朝の拠点として活動したが、このときにも当然今川氏は南朝勢力と対立している。


 最終的には文和4年/正平10年(1355年)に諏訪氏・仁科氏など信濃の宮方勢力を結集し、北朝方の信濃守護小笠原長基と桔梗ヶ原で決戦に及ぶが敗れて、諏訪氏や仁科氏など有力氏族の離反により南朝の活動が停滞・沈静化することになり、応安2年/正平24年(1369年)には信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受け、吉野に戻ることになった。


 今川は常に北朝側、足利尊氏側にたって戦っているので北条という名前は良くは思わないかもしれないのだが。


 というわけで俺は一度駿府に赴いて姉上や今川の分家や重臣たちと話をすることにした。


「姉上、今川家分家並びに重臣の皆様方。

 私は伊豆に加え小田原や相模川西岸の相模西岸を統治していくために、伊豆田中城の田中家の養子に入り北条を名乗り、今川筆頭家老の地位を返上しようと思いますが、いかがでございましょう?」


 俺の言葉に対して多少でも不安そうな表情なのは姉上だけだな。


「伊豆に西相模を統治するということになれば駿河・遠江まで手が及ばなくなることは必定。

 そうされるのが良かろうと私は思いますぞ」


 朝比奈泰煕がそう言うと、岡部・庵原・福島や三浦、由比なども同様にうなずく。


「然り」


「然り」


 瀬名・関口・新野・入野・小鹿と言った今川の分家にも異存はないらしい。


 そもそも俺は姉上の弟ではあるが今川とはゆかりは本来ないわけで、伊勢は伊勢平家の出であるから源氏である今川より執権北条氏のほうが近いわけでもある。


「無論今回のご協力の恩に報いるためにも必要な場合には我々も兵を出します」


「その必要はおそらくないと思うが……」


 と朝比奈泰煕がいうと姉上が首を振った。


「三河を抑えるためにはあなたの力が必要でしょう。

 そのときにはお願いします」


「わかりました姉上」


 これはいざとなったら俺たちの兵が駿河に来るぞという意思表示でもある。


 まあ、今川の分家も含めて甥である今川氏親をきちんともり立ててくれればいいと思うし現状ではお家騒動の火種になるような人物もいないからなんとかなるだろう。


 駿河から伊豆に戻り伊豆国田方郡田中郷の田中城の桓武平氏北条氏流の田中氏である田中大膳は堀越公方への討ち入りのときに協力してくれた国人の一人でもある。


「この度はそちらへの養子入りを希望するのだが協力願えるだろうか」


「無論でございますよ」


 そもそも俺の父親伊勢盛定は備中伊勢氏で、傍流でしかないが、伊勢氏嫡流の妻を迎えたことや、俺が伊勢貞道の養子となったことで嫡流に入り込んだので、養子に入れば厳密に血をひいていなくてもその家系とみなされるのだな。


 史実における氏綱の正妻である養珠院も、もとは堀越公方足利成知の家臣である横江北条氏の娘であるとされ、横江北条は、遡れば前北条最後の執権、北条高時に繋がる尾張の一族で、横江氏は、その後のどこかの段階で横江→横井になって、伊豆の桑原氏や田中氏はこの横江(横井)一族で、堀越公方討ち入りの際に従ったらしい。


「では私はこれより北条長氏と名乗ることにいたしましょう」


「ふむ、良き名でございます」


 これは中央の”伊勢”との決別でもある。


 このことでもしかしたら日野富子あたりは怒るかもしれないが、伊勢本家には特に問題とされないであろうとも思う。


 とりあえず伊豆の一宮でもあり北条氏と関係が深いともされる三嶋大社の修繕には取り掛かったほうがいいだろうな。


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― 新着の感想 ―
[一言] おお~、ようやく独立か! 今まで散々成果上げては奪われの連続でストレスでした。 史実では今川が、北条は今川の家臣という認識で国境問題が起こるんだけど、そこらへんはこの世界線では大丈夫っぽいか…
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