相模は石高的には意外と貧しいんだよな
さて、伊豆と相模川より西の西相模、駿河の東端を実効支配して今現在は治水工事をすすめつつ、争いに巻き込まれて農民が離散した場所などの農地を再整備している俺だが、実際の所、石高的にはまだまだ貧しいままだったりする。
伊豆がおよそ7万石、西相模は10万石、駿河の所領を合わせても20万石に届くかどうかだろう。
一般的に貧しい貧しいと言われている甲斐が23万石。
山内上杉の本拠地である上野が50万石。
今現在扇谷家と山内家が奪い合っている武蔵国が67万石。
古河公方方の本拠地である下総が40万石、上総が37万石、常陸が53万石、下野が37万石。
織田信長で有名な尾張は57万石で斎藤道三の美濃は54万石。
要するに現状の俺は甲斐にすら劣る農業生産力しかまだ得ていないのだな。
で相模がなんでこんなに貧しいかといえば、簡単に言うと21世紀の神奈川県でいうところの川崎横浜は境川の東で武蔵に属しているため、小田原近辺と相模川流域以外の平地が少なすぎるのだ。
だから相模の伊勢原の辺りから始まる相模川の沖積地の相模平野は相模では数少ない水田などの農地に向いた地域でここを落とされた事による扇谷家のダメージは図りしれず、最終的には今川に泣きついてきたわけだな。
だから、糟屋館というのは重要な地域だったわけだ。
とはいえ武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が合流する地理的な要衝で土地的にも相模よりはるかに豊かな河越一帯を優先するのも当然だとは思うけれどな。
平安時代末期から南北朝期にかけて、河越を支配していた桓武平氏秩父氏流の河越氏は、武蔵国の在庁筆頭格として武蔵七党などの中小武士団や国人を取りまとめていた。正平7年/文和元年(1352年)、観応の擾乱直後の武蔵野合戦では河越直重らは足利尊氏方に参戦し、新田義宗を越後に敗走させ、関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、相模国守護職となった。
しかし、康安2年(1362年)に畠山国清が失脚すると河越氏の相模国守護職も解任されてしまった。
さらに貞治7年(1368年)に、河越氏が中核となって高坂氏と共に武蔵平一揆を指揮し、関東管領・上杉憲顕に反乱を起こしたが、河越合戦で上杉朝房軍との激戦ののち敗北し、南朝方の北畠氏を頼って伊勢国へと敗走したことで河越氏は没落し、関東管領が河越をおさえることになったわけだ。
史実における北条早雲は七沢城攻略後の相模平野を徐々に切り取っていき、永正9年(1512年)に上杉朝長の籠もるこもる大庭城を攻略し、平安末期から続いた相模国最大の荘園である大庭御厨を手に入れたらしい。
大庭城を制圧した早雲は大庭城を大改修したが、永正10年(1513年)に玉縄城が築かれたことで重要度が下がり、その支城となったとされている。
玉縄城は城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となり、鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面でも重要な役割を担った。
とはいえ今現在は扇谷上杉と敵対しているわけではないので相模川の東に進出する必要はない。
「それにしても圧倒的に人が足らないのだよな」
俺の言葉に大道寺重時がうなずいた。
「元々お前さんは荏原荘だけ統治していればよかった状態だったのに、今や伊豆と西相模の領主だからな。
そりゃ人が足らなくて当然だ」
「まあ、そうなんだよな」
結局は荏原荘時代から従っていた地侍などを除けば、伊豆や相模の国人から抜擢して使っていくしかないんだよな。
問題なのは完全によそ者の俺に素直には従わないってことだけども、やはり北條行長という人物の養嗣子となって北條長氏と名乗ったとしたことに習って、北条家の血筋の人物の養子になることで北条の後継者になるべきか。
伊豆の田中城城主の田中氏や桑原氏がそうらしいし、できないことはないだろう。




