龍王丸は正式に元服して氏親と名乗り、今川家の当主となったよ
さて、小田原城から引き揚げたのちは、狩野川の治水を優先して行ったりしていたが、今年もあれこれやっているうちに文明14年(1482年)になった。
京都では室町幕府8代将軍だった足利義政が東山の月待山麓に東山山荘の造営を始めたようだ。
延徳2年(1490年)に足利義政が死没するとその菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺こといわゆる銀閣寺だな。
もっとも金閣寺と違って銀箔が張ってあるわけではないのだが、足利義満の時代とは比べ物にならないほど幕府の権威権力財力が衰退している時期に行うようなことでは本来ないのだが、文明8年(1476年)に花の御所が京都市街の戦火で焼失していて、足利将軍家の邸宅の1つである小川殿へ移動したが、すでに仲が険悪になっている日野富子と足利義尚が伊勢貞宗邸から小川殿へ来たことで、富子達から逃れるために東山山荘の建築を急がせたようだ。
専横の振る舞いが目立った父の伊勢貞親と違って、彼は温和な性格だったことから足利義政の信任も厚く、足利義尚の養育係に任じられていたので足利義尚や日野富子は今まで伊勢の屋敷にいたのだな。
ちなみに守護などからは石などの献上はあっても、建設費用の献上はほとんどないので、公家領や寺社領からの取り立てで補うこととなったわけで、朝廷などからの反感を買ったりもしたようだ。
「元大樹様はいったい何をやっているのだかなぁ……」
まあそれはそれとして文明3年(1471年)に生まれた今川龍王丸が数えで12歳になったことでようやく元服ができる。
龍王丸は正式に元服して氏親と名乗り、今川家の当主となった。
ちなみに足利氏は、鎌倉時代までは尊氏などがそうであるように「氏」の字を通字としていた。
しかし、二代目の足利義詮以降「氏」は傍流の関東公方などの通字となり、宗家は「義」を通字とするようになった。
もっとも清和源氏には「義」や「頼」が好んで使われる字であり、足利尊氏が幕府を創設した事によって、それまでは清和源氏の分家の一つしかなかった足利家が源氏の棟梁になったということであるのだろう。
その一方で、関東の鎌倉公方家には「氏」を通字として名乗らせたのは、あくまでも関東の「足利家」を継いだのは鎌倉公方家であるという意味があったのだろう。
で今川氏の当主は氏を使ったり義を使ったりしていて、一貫しないんだがその時の立場次第なのかもしれないな。
そして氏親は生まれてすぐに父が戦死して男兄弟がいなかったこともあり、駿河今川氏だけでなく、遠江今川氏の一族などを「御一家」として重用している。
史実では龍王丸が15歳になり成人しても小鹿範満は家督を返そうとはしなかったため、伊勢盛時が討ち入って範満は防戦するが敵わず弟の小鹿範慶、範満の甥である孫五郎も共に自害して小鹿氏は断絶の危機を迎えたが、孫五郎の庶弟とみられる小鹿民部少輔を取り立てて今川氏御一家の筆頭に据えることで、旧範満派の取り込みを図っている。
最も今回は筆頭衆としては俺が据えられて、瀬名氏貞・葛山氏広・関口氏兼、小鹿民部少輔などの今川分家の者たちとともに政務を代行したりしないとならなかったりする。
「姉上は弟使いが荒いですなぁ……」
「無事元服したとはいえまだまだ安心はできませぬからね」
確かに元服したといっても10代の若造では周囲に舐められるからなぁ。




