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現状は両上杉の共倒れを待つべきか

 さて、軍記物で北条早雲は大森藤頼を騙して討ち小田原城を奪取したとされるが実際は大森氏の内紛に乗じたものでもあり、しかも、大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものであるようだ。


 そもそも旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を早雲がだまし討ちにしたことになるが、永正元年(1504年)8月の武蔵立河原の戦いでは、扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した早雲は、今川氏親と共に出陣して山内顕定に勝利しており、この時点では扇谷上杉との同盟関係は切れていない。


 その同盟が壊れるのは武蔵立河原の戦いの翌永正2年(1505年)、山内上杉軍によって囲まれた河越城の開城に伴い、上杉朝良が甥にあたる実兄・朝寧の子の朝興を養子に迎えて家督を譲り、江戸城へ隠居したことがきっかけだな。


 それ以前の長享の乱で、対立する山内上杉家領であった神奈川湊を支配下に置いていた相模守護代の上田政盛は、上杉朝良の降伏によって山内上杉に神奈川湊を奪われた。


 それを不服とした上田政盛は永正7年(1510年)武蔵国権現山城で挙兵し、これに対して扇谷上杉家の上杉朝良・山内上杉家の上杉憲房は7月に権現山城を包囲、援軍に駆けつけた北条早雲軍を撃破したことで、長享の乱以来続いてきた北条早雲と扇谷上杉の同盟関係は完全に破綻した。


 その後上杉家がまとまっていたら北条早雲は相模から追い出されていたかもしれない。


 実際は山内上杉も扇谷上杉も古河公方家でもお家騒動が起こりそれどころではなくなったこともあって三浦義同を討滅して、早雲が相模を統一しているのだけどな。


「現状では山内上杉からの攻撃を受けないためにも、大森のお家騒動への深入りは避けたほうがいいだろうな」


 俺がそう言うと風魔小太郎はうなずく。


「山内上杉の関東管領として動かせる兵の数の多さを考えれば、単独で立ち向かうのは無謀というものでしょう」


 扇谷上杉も現状では山内上杉を打ち破っているのだが越後・上野・武蔵北部を地盤とする山内上杉との地力の差は歴然で、太田道灌を謀殺したこともあって多少勝っても扇谷上杉に味方しようとするものもいなかった。


 扇谷上杉と山内上杉、ついでに言えば古河公方も共倒れになる状況をまずは待つのが無難だろう。


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― 新着の感想 ―
[一言] 深入りは禁物ですが、義政や義尚とか外野が口出しをしてきたらそうはいきません。イザという時の動けない口実を相談しておくべきかと思います。
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