90,滝
単車を降りたアノンは、湖面の澄んだ緑に誘われるように歩む。見上げるような崖に、伸びる枝葉がかかり、岩肌に白く細い滝が何本も流れ落ちていく。
ごうごうと鳴り響く水音が耳奥でかき消える。葉の擦れる音、滝が湖面を打つ音、包まれる響きにアノンは呆けた。
強い風が吹けば、水滴が宙を舞い、空に虹をにじませる。
ほやんと空を眺めるアノンを男たちが、まぶしそうに盗み見ていた。彼らは、この水場の景色が美しいと知っており、その景色を見せてあげたいと思っていた。
アノンはそんなささやかな気持ちなど知ることもなく、明るい空から時折はずみで降りかかる飛沫に目を細めた。
ライオットは、イルバーの単車からおりたアノンが水場に近寄り、空を見上げる様を見ていた。薄紫の髪が、風に凪ぎ、濃い紫の瞳が空を見つめる。黙っていれば、面立ちは柔和であり、横顔は美しい少女である。風景にあっとうされてか、淡い色合いの口元は緩んでいた。
この数日、身体変化に苛まれ泣いていたことを思うと、その穏やかな雰囲気にライオットはほっとする。
まさか彼が彼女になるなど思いもよらなかった。
変化に狼狽するのは当然であり、打ちひしがれて当たり前だ。彼に生じた不測のほころびを補って、初めてライオットは役に立てたと実感した。自身の必要性を認識できた。
むしろ驚いたのは、飄々とした生意気な少年の奥に潜んでいた強者の矜持だ。
自身を強いと認識する者が、何を思うのか。それは人それぞれだろう。なのに、十六歳の、ライオットより四歳も下の子があんな強い意志をのぞかせるなど思いもよらなかった。
(強い者の責任か……)
彼はどんな経験をしてそんな境地に至ったのか。
ライオットは弱者側だ。兄弟のなかでも立場は弱かった。男兄弟四人いても年齢の離れた末であり相手にされない。上も下も女姉妹に囲まれている。騎士になったのは、先行きを求めてだ。職を求めて、騎士になったリオンとライオットはさして変わらない。地方では領主の子息という立場でも、王城がある都市部に出れば、平民とほぼ同じだ。侯爵家や伯爵家、子爵家など王都に居住を構え、近隣に領地を持つ者達からみれば、平民同等。あからさまな嫌味はなくても、一段下に見られていることは肌で感じていた。女姉妹の間を渡り歩いた愛嬌で泳ぎ、うまく乗り切ってきた。フェルノの護衛に選ばれた時、若干のやっかみを感じたが、ほぼ表に出ることが無くなったライオットがそれらの視線にさらされることはすぐになくなった。
公爵家子息のアノンはライオットを煙たがり、守られる必要はないと言うが、下位の貴族であることは気にしていなかった。彼は地位をもってライオットを見下しはしないのだ。弱いくせにとは見ても……。
アノンが自分の力を誰かを守るためあると意識していると知った時は、衝撃だった。
強さに矜持を持ちながら、それを誰にも悟らせなかったのはなぜか。ライオットもそこまでは知らない。それでも、アノンは、誰一人欠けることなく、旅をまっとうしようと考えている。
出発前、思わず口をふさぐよう咎めはしたが、アノンが宣言した一言をライオットは胸に刻んでいた。最後尾から、全員の動向を把握しつつ、彼らを誰一人傷つけないというアノンの意思を尊重したいと思っていた。
まだ十六歳の少年が、今は少女になっても、そんな思いを抱いて旅をしている。ライオットはその意志を守りたいと思わずにはいられなかった。
長らく守る必要もない彼を守護せよという命に不満があった。弱いライオットはアノンを守るにふさわしくないと思っていた。
なのに、今、初めて、心からアノンの守る騎士でありたいと願っていた。アノンが守りたいと思うものを、一緒に守ることが、彼の矜持に沿い、ひいては彼を守ることにつながるだろうと信じた。
アノンが眺める滝を見上げている。
(だけど、今は、女の子なんだよなぁ……)
ほんの少しだけ、ライオットは困り顔になる。
「ライオット」
ブルースの単車からおりて、アノンを見つめていたライオットにラディが声をかけた。
「俺たちが、食事の準備までするから、お姫様の様子を頼むよ」
「あっ……、ああ」
我に返ったライオットは、返事をし、まだ滝を見上げているアノンに向かって歩き始めた。
その背を見送る男たちの幾人かが口角をあげた。手作業は続け、誰もが彼と彼女をそっとしつつも、それぞれの役割に興じた。
「アノン」
近づいたライオットは横に立ち、小さな声で名を呼んだ。
気づいて、振り向いたアノンが、笑みをこぼす。
「ライオット。今日は酔わなかったか」
「ブルースの運転がうまいから、何の問題もないよ」
「へえ、慣れたんだね。ゆっくり進まれたら、今頃立っていられなかったんじゃない」
(可愛げねえ……)
顔と言動が一致しない。アノンの減らず口にライオットは肩眉をゆがめた。やはりアノンはアノンである。
アノンはそんなライオットを流し見て、また崖の上を眺めた。
白い滝の筋が幾重にも、絹のように流れている。
「なあ、ライオット……」
「どうした」
じっと崖を見つめるアノンの頬が少し紅色しているように見える。単純なライオットは、景色に感動していると受け止めていた。
「あの崖さ」
ライオットはそよぐ風になびく髪を揺らす、アノンの横顔を見つめた。
「ふっ飛ばしたら、僕が強いって証明できると思う?」
刹那、ライオットは硬直した。絶句し、喉が締まる。
(この景色を見て、何を考えていたんだ!)
自然の造形美を簡単に破壊しようと考える浅はかさに悪寒が走った。最強の魔法使いは、麗しい景色を見ながら、何を考えていたんだと、全身は総毛だつ。
「ねえ、ライオット。どう思う?」
答えてくれないライオットに不満げに口をすぼめて、アノンは見上げてきた。
(状況と、表情と、言ってることがかみ合ってねえ!!)
内心、絶叫しているライオットは次の瞬間、本当に声を荒げていた。
「やめろ。自然は一度壊したら、二度と戻らないんだぞ!」
アノンは、ふうぅっと深々と息を吐く。
切なそうな表情を浮かべるが、意味が違うとライオットは頭を振った。
「ああ、そうだよね。どうやったら、僕が魔法使いだって示せるかなって思ったけど……。やっぱり、あの崖をぽっかり粉砕したら、ダメだよねえ」
その表情と発言のちぐはぐさに、ライオットは額に手をあてて、頭痛をこらえていた。




