88,芽吹く自我
「アストラル。私は私に価値を見出したことなどないんだ。弟が立太子された時、私は思った。
どうせ邪魔なら、毒殺でもすればいいのに、と……」
アストラルが体を起こす。向かい合うように胡坐をかく。
「フェルノ。私はフェルノと話していると楽しいよ」
芯の通った声に迷いはない。
「アストラルの声はきれいだね。真っ直ぐで、良い声だ。その声を、その言葉を、芯から私は信じられない」
「私が信頼できないということかい」
フェルノは左右に首を振った。
「違うよ、アストラル。聞こえた声を、私が信じられないんだ。まさか、そんなわけがないと否定する。これは私の問題だ。私の内面に響く声と違いすぎて、疑ってしまう。
私の内なる声は私の存在を無価値と叫ぶ。
結局、私は私の内なる声に私を預けてしまう」
おどけるような表情の静かなフェルノ。
アストラルは神妙な顔つきで沈む。
「どんな声」
問う声もかすれていた。
フェルノの見開かれた灰褐色の瞳がゆれる。
「私は、孤児だ」
王族として生まれて、与えられる物はきちんと与えられた。それ相応の教育と物を与えられて、十分恵まれている。物にも気持ちが託されていたのかもしれない。そう思えば、完全に捨てられていたわけではなかった。
それでも、底は空っぽだった。いつだって誰もいないのだ。
リオンとライオットにアノンは、彼らの本心はどうあれ、常に命を狙う立場にいた。狙われている以上警戒しないではいられなかった。今でこそ、待とうと思えるのは、彼らの役割からフェルノを狙うことが消えたからだ。
「私は、危機感と隣り合わせで生かされてきた。私を邪魔に思うだけの理由はきちんとある。それは私のせいではなくても、私のせいになるんだ」
生まれ持った性質を咎められても、致し方ない。そうやって生まれてきたことが悪いと責められても、生まれてきてしまったものは、生きねばならない。
フェルノは、アストラルとどこまで話すか迷っていた。魔寄せの体質、魔神、魔法、魔王術の始祖、魔王城、預言者……。
三日後に迫る、魔神の復活。
彼らの信じていることと、フェルノが知っていることは違う。どこまで信頼し、どこまで情報を共有できるか、はかれない。
信じてもらえるとも思えなかった。
テントの中心に立てられた支柱を境に、アストラルとフェルノは向き合っている。
アストラルは、真一文字に口元を結び、瞬きもせず双眸を輝かせて、フェルノを凝視する。
その視線をフェルノは柔らかく受け止めていた。
男のフェルノは強かった。魔物など恐れるに足らず。強いから、陰険に挑発する雰囲気を漂わせ、疑うこともできた。心底の脆弱さを魔力と技量が補っていたにすぎない。
女のフェルノは弱い。環の国にいては、魔力も使えず、剣技もろくに披露できない。一歩外に出れば砂漠しかない世界では逃げる場所もない。一人では身を守れることもできない。環の国特有の魔物を寄せない空間だから、安心していられる。ひとえに一般人と同じ感覚だ。
弱いのに、人に囲まれている。求められ、受け入れられ、心配され、あたたかく迎え入れられる。
弱くなり、更に弱くなった。環の国や出会った人のせいで弱くなったのではなく、力で覆い隠していた底の底にあるフェルノの弱さを浮き彫りにしただけだ。
フェルノは、笑む。誤魔化すような薄ら笑いではなく、弱さをこらえた泣きそうな表情で。
「アストラルはこの世界が好き?」
「好きだよ」
唐突な問いにも、アストラルは真面目に答えた。フェルノの目元が和らぐ。
「この世界に夢は見る?」
「未来をってことかい、フェルノ」
「そうだね。残された遺物をすべて再現したいとか、砂漠の世界を緑に変えたいとか。なんでもいいよ」
「もちろん。私が生きているうちにできることは、一つでも多く、成したいよ」
フェルノは分かっていてたずねている。アストラルならこう答えるだろうと分かっていることを再確認するために、彼の口から聞きたかった。
初対面に近い相手のことを知った気にはなれない。
ただ、彼の芯が通った声が、高らかと迷いなく告げる声を聞きたかった。
街道に被害がでないようにテンペストと約束した時と同じだ。
自我はあっても芯はないフェルノだ。無価値観を常に内包し、育ってきた。与えられることをこなすことで、空っぽの自分を隠す笑みを浮かべて、誤魔化しながら生きてきた。
誰を騙すか。一番騙して生きてきたのは、自分自身だとフェルノは思う。
だからこそ、テンペストやアストラルのような、ちゃんと自分の守りたいものや大事にしたいものを分かっている者に惹かれるのかもしれない。
嫉妬し、やっかんでも、手に入らないと分かっている。今さらないものねだりをしても、見つかりやしない。
だから、あなたの大切なものを代わりに守る、と約束し、相手の懐に入れてもらいたいのかもしれない。
テンペストには、強さから約束した。
アストラルとは、弱さから約束する。
どちらも、相手に寄りかかるようなものだろう。
どちらも、自分の意志で約束を交わすのだから、その約束そのものが、フェルノの分身のようだ。
あなたの大切なものを守ると約束するから、その約束を持って、根っこのない倒れそうなフェルノを、しっかりとしたあなたの幹に寄り添わせてほしいとねだっているだけなのかもしれない。
約束は、フェルノ自身だ。フェルノが自分の意志で、紡ぐのだから。
「アストラル。君が守りたい世界は、私が守るよ」
メアもエレンもいる世界だ。トラッシュもいて。ここには、生きている人がいる。三百年前の過去とか、二百数十年前の祖先とか、そんなことはどうでもよかった。
今、ここに、いるのだ。約束をしているフェルノはここにいるのだ。
この小さな芽は、自我だ。『私はここに生きている』という芽吹きである。
旅立ったリオンは、きっと帰ってくる。
アノンとライオットがそろえば、きっと道は開ける。
異世界に飛ばされ、フェルノはほんの少し人を信じることができるようになった。
「では、私は……フェルノに何ができるだろう」
アストラルが上に視線を投げた。真面目に考えだし、思いつかずに身をひねり始めた。
ど真面目に考え始めた所作が面白く、フェルノはくすくすと笑った。
「いいよ、何もいらない。いつも通りでいいさ」
「そういうわけにはいかないよ。だって、その約束は、聖女だからじゃなくて、フェルノが私のためにしてくれた約束だろう」
「まあ、そうだね。アストラルが守りたいものを一緒に守らせてもらいたいだけだけど……」
「じゃあ、私だって、私がフェルノのために何ができるかって考えてもいいじゃないか」
「まあ、いいけど……」
フェルノには守りたいものはあまり思いつかない。
(私が約束してほしいことなんて何かあるだろうか)
フェルノも小首を傾げ考えてみるも、思いつかない。
「フェルノはしてほしくないこととか、もうこんなことは嫌だと思うこととかある?」
「してほしくないことねえ……」
今まで命を狙っている可能性を疑い、何もする気はないと分かっていても、アノンとライオットとリオンを信頼しきることができなかった。
そんな彼らを今は、心から信頼し、待ち望んでいる。
そんな彼らから、また命を狙われたらどうだろうとフェルノは想像する。
一度信頼した人を再び疑うことは、つらい。
「信頼している人に裏切られたり、信用している人を再び信用できなくなるのは、つらいなか……」
アストラルが笑んだ。
「フェルノ。ならば私はあなたの見方でいよう。真なるところで、私はあなたを決して裏切らない」




