85,夜空
「フェルノ様、どうぞ、こちらへ」
アストラルに声をかけられ、うつろな意識を現実に戻した時、目の前に彼の面が迫っていた。
彼の手にフェルノの手が包まれる。呆けていたフェルノは、なすがままだった。
浮かぶ裏門の白い階段を数段おりる。
アストラルの背後に隠れていた景色が露になる。
こぼれ落ちそうな煌めきを散りばめている夜空の天幕が、フェルノの視界へと飛び込んできた。
無垢な星空に美辞麗句も浮かばないまま、フェルノは息をのんでいた。
雲一つない砂漠の夜空は、淀みにむかって傾斜しかけてていたフェルノの心を、洗い流す。心底に凝り固まりつつあった不安を、一瞬で透いてしまった。
風が一吹き、二人の間を過ぎていき、フェルノは軽く身震いした。
アストラルがおりた階段をのぼる。フェルノが立つより一段低い位置で立ち止まった。彼がフェルノの手を離し、両手を伸ばす。その腕は、フェルノの両肩の上へ伸びてゆく。
フェルノは肩をすくめ、両目を閉じた。何もない間があく。
突如、肩にかかったのは柔らかな布地だった。
「フェルノ様」
名を呼ばれ、目をうっすらと開ける。
額もつきそうなほど近いアストラルの面があり、フェルノはとたんに恥ずかしくなった。閃いた意識はまるで初心な少女のようだった。弱くなっていると実感した。
アストラルはフェルノに一切触れていない。
ただ肩にかけた大きなストールの端をフェルノの首元で寄せているだけである。
フェルノはマントのようなストールで全身を包まれていた。
「これで、あたたかいですよ」
アストラルの手が離れゆくに合わせて、フェルノの手がストールを掴んだ。どこからこんなものがと振り返れば、侍従がもう一枚同じストールを持って立っていた。背後に手を伸ばしたアストラルに、彼が渡したとフェルノは理解した。
前を向けば、すぐそこにアストラルがいる。
「フェルノ様」
「はい」
「リオン様がいなくなり、ご不安を感じられても、誠心誠意私があなたをお助けします。お一人で抱え込み、悩まれないでください」
フェルノは両眼を見開いた。アストラルの行動はフェルノには理解しがたかった。これをだたのやさしさととらえていいものかはかりかねる。
心音が耳奥で響くさまを遠く聞いた。
アストラルはフェルノの横に立つ。ずり落ちそうになるストールを、フェルノは慌てて肩に寄せる。
「フェルノ様は星は見られますか」
「旅に出た時に少し」
「私は、小さい頃から見ていました。学園に通う前はトラッシュが遊び相手でして、武官長が出勤する際に一緒にやってくるのです。
ごくまれに彼が泊まることが許され、その時は一緒によく星を見て遊びました」
フェルノはアストラルの横顔を見つめる。
「小さなテントを張るのです。そこで、寝ながら星を眺めます。ランタンを灯し、望遠鏡で星を見るのです」
「ぼうえんきょう?」
またフェルノの知らない単語がでてきた。
「星を大きく見るためのものです。百聞は一見にしかずです。ご覧になりませんか」
アストラルの柔らかい問いに、フェルノは曖昧に笑む。
「私が子どものころ楽しんだテントも一緒にどうです?」
返事を待たずに、アストラルは背後の侍従に視線を送った。
(準備してたのかな……)
思い付きで、星を見ましょうと声をかけたわけではないと悟ったフェルノは嘆息した。
背後の侍従が大きな荷物を抱えて、階段をおりていった。芝生の上で、地面に何やら敷き始める。
「フェルノ様。手伝ってきます。階段を気をつけて降りてきてください」
アストラルはそう言うと、階段を駆け下りて、侍従の元へと駆け寄っていった。侍従と入れ替わると、代わりにテントを張り始める。
侍従が入れ替わり階段をのぼってくる。
フェルノはゆっくりと進む。侍従が立ち止まり、一礼して横をまた駆け上がっていった。階段を降りきり、芝生の上で作業を終えたアストラルが立ち上がって腰を伸ばしている。
「アストラル様、こちらはなんですか」
フェルノに気づき、アストラルは晴れやかな笑顔を向ける。
「子どもの頃、使っていたテントです。久しぶりに引っ張り出してみました」
「こちらの中から星空を眺めていたのですか」
「はい。もっと大きいと思っていましたけど、引っ張り出して、改めて見ますと小さいですね」
山のように頂点がピンと立った円錐形のテントである。
アストラルがしゃがみ込むのに合わせて、フェルノも膝を曲げた。
覗き込むと、棒が中心に一本立っている。それを支柱にして、大ぶりな布を支え、空間を作っていた。
「なかに入ってみましょう」
アストラルが靴をぬぎ、もぞもぞと入り込む。
「うわっ、狭いな」
フェルノもなかの敷布に手を添えた。
「アストラル様、狭いなら、私は……」
「そういう意味ではないです。子どもの頃の記憶と比べてです。大人二人は入れる仕様なので、どうぞ遠慮なく」
アストラルの言葉にフェルノは恐る恐るなかを覗き込んだ。
アストラルが胡坐をかいている。半分は開いており、確かに大人二人が座る程度の空間はあった。外から見るより、内側は広いようだ。
フェルノはかけてもらったストールをしっかりと握りながら、靴を脱ぎ、テントの中にもぐりこんだ。思ったより敷布は硬かった。
秘密の空間に紛れこんだような印象に胸が高鳴る。小さな空間に二人で向かい合うように座った。
「子どもの頃はもっと広いと思ったんです。今より背も小さかったですしね」
アストラルのが苦笑する。
「ここで、よくトラッシュと夜遊びしたんです。火をおこしたり、星を見たり、騒いだり、色々しました。喧嘩して支柱を蹴り倒し、泡食ったこともありますよ」
フェルノにはない経験だった。うらやましいを通り越し、過去の自分と比べて切なくなる。
侍従がテントの入り口から顔をのぞかせた。手にしていた円形のクッションを四個アストラルに手渡した。何やら二言ほど交わし、侍従はまた戻っていく。
アストラルはフェルノに二つクッションを差し出した。
受け取ったものの、どうしていいかわらず、フェルノは膝に置く。
「いつもこうやって寝そべって空を見たんですよ」
アストラルは、クッションを胸の下の置いて、うつ伏せになった。顔を出入り口に向けて、空を見上げる。
「寝ながら、星空を見るんです」
空を見上げる、アストラルの晴れやかな横顔。
裏腹にフェルノの心中は重い。




