32、異世界の森
ざわざわと風が鳴る。生き物の鼓動と声が反響しあう。せせらぎが耳に鮮明に届くと、ライオットの両眼がゆっくりと開いた。
目覚めたライオットは横向きに寝ていた。目の前にアノンが縮こまるように小さくなっている。
「アノン」
生きているのか、死んでいるのか。こわごわと肩に手を置く。ぬくもりがあり、小さな寝息が聞こえ、ほっとする。
体が痛かった。横になっている地は柔らかかったが、背後にゴツゴツした感触がある。まずは仰向けになろうと身をよじると、服がすれ、破れたかと焦る。
地面は枯れ葉が積もった揚土で、髪にも肩にも黒々しい土がついていた。
体を押し上げ、起き上がる。頭部や腕に付着した土を片手でほろう。
(どこだよ、ここ)
見上げると、異様に高い木々が並んでいた。幹も人間が数人がかりで囲えるほどある。高いだけでなく、生い茂る葉もなかなかの大きさだ。
太い木の幹から伸びる枝も、また太い。
(なにもかも、でけぇ……)
巨木の森に投げ出されたとライオットは判断した。木々や土の匂いは、山を抱えた故郷の領地を彷彿とさせる。ただ大きさだけが異様に違う。
(異世界に本当に飛ばされたのか)
黙っていると、葉がすれる音、水が流れる音、何かの生き物の鳴き声が絶え間なく繰り返される。
(アノンはいる。じゃあ、フェルノとリオンはどこにいる)
片腕を動かす。片足を折ってみる。身体感覚は変わらなかった。
頭から枯れた葉の欠片がはらりと落ちた。毛先を手で梳くと、揚土にまぎれていた湿った木くずと枯れ葉が指を汚した。
指先を払いながら、周囲を眺める。人影など、欠片も感じられない自然が広がる。アノンと二人、心細く、ぽつんと残されていた。
(リオン、フェルノ。どこにいるんだよ)
風が吹き、葉がすれる。遠くから水が流れる音も届く。せせらぎがあるならありがたいとライオットは安堵する。水がなければ、生き残るのもつらい。
身の回りに視点を落す。土に張り出した木の根の狭間にはまっていると分かった。槍は足元に転がっていた。
アノンは隣で寝ており、その手がライオットの片袖をつまんでいた。魔力の光に包まれた時に袖を引かれた気がしたのは、そのせいだったのかと納得する。腕をもたげると、寝ているアノンの指先がするりと力なく抜けた。まだ寝ていそうだなとふみ、ライオットは立ち上がった。
背後にそびえる、木の根を伸ばす大樹の幹に触れる。
(……でけえ)
今まで見てきたどんな木よりも太い。フェルノ達と一緒に歩いた森を思いだしても、これほど太い木はなかった。
(異世界かよ)
ライオットは周辺を散策してみることにした。ひとまず、槍を拾い、木の根を支えに、斜面を下る。
そよぐ風にぶるっと身を震わし、アノンは目覚めた。うっすらと目をあけると、木肌が見える。頭部の感触は柔らかく、頭を少し傾けると、かさかさと音が鳴った。
身を押し上げるため、片手を地面につける。足を少し曲げて、膝をつき立とうとした時、違和感を覚えた。
(違う)
そのまま、数秒硬直する。
(何が、起こった)
片腕に力をこめて、地面を押した。
覚えのない胸の柔らかさが腕に触れる。膝を寄せて座り込めば、あるはずの感触もなかった。
(なにがあった)
両手を地面につけたまま、身動きが取れなくなる。
(なんで)
認めたくないと、意識は拒んだ。
体を寄せる。地面を凝視しても、心音が大きく聞こえるだけだった。
(なにがおこったんだ)
意識が凍りつき、体が硬直する。
「アノン。目が覚めたか」
背後からライオットの声がした。
「近くに誰かいないかと散策したんだけどさ。フェルノもリオンも見当たらないんだよ」
かけられた声にアノンは振り向けなかった。
(どうしよう)
なんと答えればいいのか分からない。この事態を説明するのか、黙っているのか。どうしたらいいのか、混乱し、ぐるぐると巡る思考が淀んだ。
座り込むアノンは、だぼっとした黒いローブを着ていて良かったと思った。
「アノン。どうした」
それでも、ライオットに顔を向けることができず、地面に視線を落とす。
(……言えない。言えない。ばれたくない)
身体感覚の違いに震えた。両腕を反対の手でさすれば、寄せた腕の内側にやわらかい感触がある。
奥歯をぐっと噛んだ。さらに首を落とした。
足元へ視線を流す。足から腰あたりまで見てから、脇に手を当て、ゆっくり臀部へとその手を這わす。
「……っつ」
両目が開らく。体の底が冷えた。ぞわっと鳥肌が立ち、焦りの汗が噴き出てきた。
手を腰に添え、地面に置いた手の甲を見つめて、アノンはじっと耐えるようにその場にうずくまったまま動けない。
(なんで、なんで……、なんで体が女の子になっているんだ……)
認められなくても、身に起こったことは如実にそこにある。揺れるアノンは自身の体の変化を、受け止められないまま、喉が閉められたかのように苦しくなった。
「どうした。アノン」
訝る声が届く。
(どうしよう。僕は、どうしたらいい……)
恐る恐る振り向く。
ライオットが不思議そうにこちらを見ていた。
見上げれば大樹がそびえている。
「大きい……」
呟いてたじろぎ、アノンは首元に手を寄せた。声色も変わっている。声変わり前の鈴をふるような、なめらかな声音だった。
(どうしよう、声も違う!)
焦りと不安がよぎった時、地面が揺れた。思わずアノンは、幹に両手につけて体を支えた。
「地震か」
ライオットが、背後で叫ぶ。
その後、強い風が背後から吹きすさび、アノンは大樹に体を押し当て耐えた。歯を食いしばって、声を出すことだけは避けていた。
風が止む。吹いてきた方向へと顔を向ける。
ライオットの背が見えて、彼が腰を落とし槍を構えた。
大樹の幹の間から、何かがぶっ飛んできた。それは地面にぶつかり、横倒しになる。拍子に空を舞ったのは人間だった。
ライオットとアノンが、木の葉のように舞う人間を見た瞬間、地鳴りのような咆哮が耳をつんざいた。
ライオットは人間が飛んできた方角を見据え、槍を構えた。
アノンはポケットから取り出したナイフで空間を切る。亜空間に手を突っ込み、絨毯を引っ張り出しながら魔力を込めて、空へと投げ出すと同時に走り出した。
地面が振動を繰り返しながら、何かが徐々に近づいてきていることを実感させた。
(巨大な魔物か)
ライオットは身を低くして、槍を背後に回した。正面からくると構える。
アノンが放った絨毯は空を舞った人間の下に入り込み、地面に落ちるすれすれで包み込んだ。勢いのまま叩きつけられるよりはマシだろうと、アノンは投げ出された人間に向かい走り寄った。
絨毯に倒れこんでいたのは大柄な男だった。
(……リオン?)
短い黒い髪がゆれる。うっすらと片目が開かれる。その瞳は黒かった。
(リオンじゃない)
着ているのも見慣れない衣装だった。アノンやライオットが身につける衣類より動きやすさが重視されていそうであった。
背を打った男は横に身をよじり、咳き込んだ。アノンは向けられた背に手を添える。
首元から、指先で背骨を辿りながら回復させる魔法をかける。痛みが和らぎ、傷がふさがれてゆき、表面には見えない地面に打った際の内出血も癒されていく。
回復しつつある男がアノンの方を見た。
「もう、大丈夫だよ」
しゃべれば、それはまさに女の子の声だった。アノンの目元が苦悩で歪む。声を聞く耳が痛い。
男の目が見開かれると同時に、咆哮が再び轟いた。
振り向いたアノンが目にしたのは、蜥蜴型の魔物【切断 ウロボロス】。大樹の間に大きな口を開けて現れた。




