31、目覚めた勇者は……
魔力の光が包み込み、世界は真っ白になった。四肢は浮きあがり、揺らぐ意識は白い世界に溶け込んだ。
自意識が消えて、身体感覚の境界線も薄くなる。眠りにつくようなまどろみが襲い、世界と自己に境界あっての自己なのだと悟りを開きそうになるような知覚を得れば、身体感覚が再構築され、自意識が再び盛り上がっていった。
フェルノの意識が真っ白な世界から肉体に返り咲く。身体感覚はまだ薄く、溶けて液体と化したかのように重かった。
指先をかたりと二本動かした。人差し指と中指だった。
薄く目を開ける。腕と足を意識すれば、わずかに動く。
手のひらで地面を撫でる。固く凹凸のないつるりとした感触がひんやりと伝わり、その悪寒は背筋を辿り、足先と脳天まで駆け上り、弾けた。
フェルノは、見知らぬ感触の場に横たわっていた。
(ここは、どこか……)
ひんやりとした感触を手のひらで確かめる。つるりとした手触りの合間にざらざらした指ざわりがあり、ぞわりとした。
首を動かす。頬が地面にすれた。
ぼんやりとしていた視界の焦点が定まってくる。地面は白く、そこには何か曲線が描かれているように見えた。
(ここは、床か)
その床に腕を立てた。頭をもたげる。
フェルノはそこで、動きを止めた。
身体感覚に違和感を覚える。
(これは、どういうことかな)
身をゆっくりと起こした。片手を床につけたまま、もう片方の手で、頬に触れる。顔の皮膚をなぞる。手触りは変わらない気がした。耳に触れる。毛先の長さを確かめた。髪の長さは変わっていない。
短いながら、頬に触れる白金の髪を耳にかけた。
(そういうことではないよね)
さすがのフェルノも、身体感覚の違和感を無視しようがなかった。柳眉を歪める。現状をどのようにとらえればいいかと惑う。
床に両手をついた。股に手首を寄せて、頭を少し垂れる。
あるべきものがなく、ないはずのものがある。
目を閉じた。肩が震えた。眉間にしわがよる。背が冷える。嫌な汗が湧き出てきた。
「フェルノ」
聞きなれた声が飛んできて、はっと顔をあげる。
体を起こそうとしているリオンが見えた。
「リオンか」
フェルノが声を発した瞬間、二人は硬直した。
(声が違う!)
普段の発声で体を抜けていく響きと全く違う。
身を起こしたリオンが後ろに倒れるように座り込む。驚愕の表情が浮かぶ。
「その声……、フレイ様……」
リオンのつぶやきに、フェルノは自身の喉に手を伸ばした。そこにもまたあるべきものがなく、なめらかな首筋があるばかりだった。
「声が、フレイか? そう聞こえるのか……」
フェルノの内側で響く声音は、いつも耳にしているフレイの声とも違う。
(自分が発声し聞く声と、他者が耳で聞く声は違うのか)
フェルノは前かがみに座っていた態勢を整える。背を伸ばし、リオンを見つめる。みるみる目を見開く彼の表情が哀れに見えた。そして、ちょっとした悪戯心がもたげる。
(フレイがリオンを呼ぶときはどんな感じだったろう)
フェルノは、記憶の中の妹姫を手繰り寄せる。庭先の茶席で彼女が見せる小さな仕草、声音、しゃべり方。思い出せる限り、深く思い出した。
目を閉じた。
妹姫を思い出し、彼女になり切るような感覚で、その身に妹姫の残像をフェルノは重ねてみる。
そしてゆっくりと目を開けた。
妹姫が恋する黒騎士が目の前にいる。
「リオン」
名を告げた瞬間、リオンが目を見開き、息を呑んで、その身を後ろに引いた。
目覚めたリオンの意識はすぐに覚醒した。
(フェルノは、アノン、ライオットは!)
一緒にいた者はどこにいるかと首を動かし周囲を見回した。
白くぼやける空間。床全体も白いが、何か曲線が描かれているようであった。室内だとは感づいたが、そこがどこかまでは分からなかった。
寝たまま首を動かすと、視界の端に白金の髪が揺れた。
(フェルノか)
自身の護衛対象を見つけた黒騎士は、身をもたげながら「フェルノ」と呼ぶ。
フェルノはすぐに反応し、リオンをみとめた。
リオンは違和感を覚えた。なにか違うと脳内で警鐘が鳴る。
「リオンか」
フェルノが名を呼んだ瞬間、リオンは硬直した。同時に、声を発したフェルノ自身も固まってしまう。
沈黙が落ちた。状況に意識が追っつかない。
体を起こす動作を続けながら、顔をもたげたリオンは仰天していた。
フェルノが発した声が、彼の妹姫の声と被る。
緊張した体は、目覚めたばかりで動きも鈍い。声に意識も持って行かれ、やっとの思いで、座り込んだ。
「その声……、フレイ様……」
上ずった声が漏れた。
フェルノは首元に手を添えて、考えるようなしぐさをする。
程なく目を開くと、髪色も瞳の色も同じフレイ姫を連想させるなまめかしい表情を浮かべた。
「リオン」
リオンは瞠目した。
喉元を噛みつかれたような錯覚の元、息が詰まり、震える体がのけぞった。
身が反り返ったことで、室内が視界に入る。
円形の室内。文様が施された白い床。壁沿いに人が立っていた。円形の室内の上方に、ぐるっと通路が設けられている。そこにも柵に手をかける人がいた。
今のやり取りを見られていたと知り、リオンの血の気が引いた。
上方の通路からはゆるい階段が伸びていた。その階段を、黒髪の男が足早に駆け降りてくる。カンカンと彼の足音だけが室内にこだまする。
フェルノも足音に気づき、振り向いた。床におり立った男はフェルノを凝視し、直進する。
男はフェルノの前に膝まづいた。彼はフェルノの手とり、恭しく掲げ上げ、頭を垂れた。
顔をあげたかと思うと、涼やかで物柔らかな微笑を浮かべる。そんな清潔感を漂わせる清涼な雰囲気の青年が言った。
「異世界より召喚されし、聖女様。どうか、環の国イドをお救い下さい」
のけぞるリオンの視線が周辺に向けられる。フェルノも彼の視界をなぞるように周囲を見回した。
(見たこともない丸い空間だ。天井も高い……)
ぼんやりと眺めるフェルノの背後から足音が響いてきた。カンカンと響く音に誘われ、振り向く。
上方の通路から、壁沿いに斜めに下る階段があった。そこを駆け降りる男がいる。彼は床におり立つと、フェルノを見た。
彼は息を切らしながらも嬉しそうに笑んだように見えた。まっすぐにこちらへと、歩んでくる。
(私?)
近づいてくる男はじっとフェルノから視線を外さない。
呆けたまま座り込むフェルノの前に、男は膝まづいた。
彼は床についたフェルノの手を握り、恭しく掲げ、頭をたれる。
(……?)
フェルノは彼の動作の意図が図りかねた。
顔をあげると、彼は涼やかで物柔らかな微笑をフェルノに向ける。
「異世界より召喚されし、聖女様。どうか、環の国イドをお救い下さい」
思わず、フェルノは笑んだ。反射だった。困った時には、笑んでしまうのは、ただの癖だ。
馴染んだ者なら、喰えない笑みととらえるところを、目の前の男は勘違いしたようだった。両眼が潤み、感動に打ち震える様を見せる。
フェルノは困惑した。しかし、それもまた顔にはうまく出ない。流麗な微笑はフェルノの戸惑いをきれいに覆い隠した。
(……困ったな)
身体感覚の違いからも、すでに察しはついている。
(異世界に飛ぶついでに、私は女性に変わってしまったようだね)
どうしてこうなったのか、知りようもないが、現状の自分の性別が変わってしまったことは確かだと認めざる得なかった。
リオンは頭を抱えた。明らかにありえない事実を、認めざる得なかった。
フェルノの発した声と現在の後姿。駆け寄った男が発した『聖女』という一言。
(フェルノは、女性になっているのか)
フェルノの傍にいて、脱力することも、苦笑することも、ため息を吐くことも多かった。しかしである、こんなえぐるような経験をしたことはなかった。
さすがと言えばいいのか、ましてやと表現すればいいのかも分からない。
異世界に飛ばされたフェルノはフレイ姫を連想させる容貌と姿と声に変わっていた。中身があのフェルノのままならば、嫌な予感しかしなかった。嚥下をもよおしそうになるほどの混乱の中で(なにがおこったんだ!)とリオンは懊悩する。




