153,逃げろ
アノンはフェルノの眼前に意識して立っていた。相手の瞳に自分しか映らない距離を保ち、癇に障る表情と言葉を浴びせる。
怒りに囚われ、フェルノがアノンしか見えなくなることを望んでいた。
フェルノと向き合うことに恐怖を感じつつもそれを隠し通し、周囲の変化を悟らせないために、アノンはフェルノの意識を自分に向けさせていた。
フェルノとアノンがにらみ合い、アノンがフェルノに言葉を浴びせていた時、王や司祭、文官長、王妃たちは背後の扉から奥へと消えた。
鏡を持っていたイルバーとデザイアは、神官二人と入れ替わった。神官は鏡を奥へと音を立てずにそろそろと移動させていた。
上階に残ったのは、イルバーとデザイア、それにアストラルだけだった。
階下では人の移動が行われていた。左右の通路の扉を放ち、移動を促していた。武官長が区長たちを通路奥の待合室とした会議室へと進ませる。
アノンとフェルノが向き合っていても、とうとうと話すアノンの小さな声は階下には届かない。階下から見れば、フェルノが背を向け、アノンと話しているようにしか見えなかった。
上階で口喧嘩が行われているなど、階下では誰も想像していなかった。階下にいた計画を知るマートムとヴァニスだけ、後ろ髪惹かれる思いで通路へ続く扉をくぐった。
フェルノの知らないところで人々の避難が進む最中、アノンが叫んだ。
「イルバー、デザイア。フェルノを離すな。フェルノを斬首するなら今だ、アストラル」
命の危機を察知するフェルノは、魔力があれば全身から火を噴いていたことだろう。わずかだが、白金の髪からピリッと電流が走り、火花が散ったように見えた。
アストラルが無表情で、いつの間にか手にしていた長剣の柄に手を添える。鞘から引き抜かれ、きらりと陽光が白刃に反射した時、上階が暗くなる。
アノンが笑んだ。
その笑みを、歯を食いしばってフェルノが睨む。
ガラスが割れる高音が鳴り響いた。影の魔物が内部へと侵入した。黒々しい巨大な影が上階の天井を旋回した。
「イルバー、こっち」
暗がりのなかでアノンの声が響いた。
フェルノの片腕が解放される。
残った男が、フェルノに呼び掛けた。
「階段を降りますよ」
有無を言わさず、腕を引かれる。
何をと思い、抵抗しようとしたとこで、背に手が触れた。
振り向くと、アストラルがいた。
「アストラル?」
「フェルノ。魔物が動きました。今は、階下へ向かいましょう」
意味が分からないままに、女のフェルノは抵抗する余地もなく、二人の男と共に階下へ向かう。
影の魔物が侵入し、アノンは叫んだ。
「イルバー、こっち」
両腕を伸ばした。
弱くなった体は走れない。魔物から逃げる術さえなかった。
フェルノの横にいた、イルバーがアノンに向かって走り出す。
両腕を広げたアノンを、イルバーは軽々と抱き上げた。
「やったな」
「うん、上出来だ」
窓から入り込んだ魔物が王城内を泳ぐ。真っ黒い影は、まだ大人しい【闇黒 イリュージョン】であった。アノンが首周りに抱きつくと同時に、イルバーは階下に向かって走り出した。
「【闇黒 イリュージョン】で良かった。もし【薄闇 ゴーストブルー】だったら、応じきれなかったね」
安堵するアノンに言葉を返す余裕なく、イルバーは階段を駆け降りる。
フェルノは横にいる二人に押されながら、階段を下った。
その間も、ガラスが割れる音と建物がきしむ音が続く。飛び込んできたのは青黒い影の魔物だった。上階の床に叩きつけるように落ちてきた影はすぐにフェルノを見定めた。動きを一瞬止めて、後方にわずかに引く。
右階段をフェルノは駆け下りる。
左階段をアノンはイルバーに抱きかかえられて、下っていく。
青黒い影の魔物は、フェルノを追いかけ、右階段を這い進む。
アストラルとデザイアが背後の変化に気づく。
迫る影の魔物に追い立てられる。
「急ぎましょう」
デザイアの声に急かされる。
アストラルの腕が、一緒に駆け降りるフェルノの脇を抱いた。片手は階段の手すりとつかむ。腕に力を込められ、降り立った階段の手すりの端をアストラルの手を起点に、裏口の方向へ、ぐるっと回った。
デザイアも歯を食いしばって、転がるように階段を駆け下りていた。
三人の背後を青黒い影の魔物が表門に向かって勢いよく抜けて行く。フェルノはその影の尾が過ぎ去るさまを、見送った。
「イルバー、裏口へ進め。車を待機させている」
アストラルが叫ぶ。
フェルノが前を向くと、アノンを抱きかかえた男が階段を降りきったところだった。
開け放たれた裏門めがけて、全員が走る。
裏門の階段を駆け下りながら、空を見ると、影の魔物が飛んでいた。空がまだらに黒くなる。たなびく影が右に左に飛んでいく。
フェルノは、何が起こったか分からなかった。魔物が飛び込んでくるはずのない場に現れ、訳が分からない。力の及ばないフェルノは、アストラルに引っ張られていく。混乱のあまり、振りほどくような発想もわかなかった。
止まらず、全員が裏口の階段を駆け下りる。
初日、リオンとともに自動車から降りた道にはすでに車が止まっていた。運転席にはリュートがいる。アストラルが扉を自動車の扉を開けた。
「乗ってください。魔法が使える地点まで、お送りします」
困惑するフェルノが、アストラルと向き合う。
「ここは、魔物がこないはずじゃないのですか」
「通常なら。今はフェルノが魔物を呼ぶ力の方が強くなったのです」
「私の?」
「フェルノの危機感が高まったからです」
「危機感?」
「まずは、移動しましょう」
アストラルがフェルノを自動車へと押し込める。
つんのめるようにフェルノは後部座席にへたりこんだ。
階段を駆け下りるイルバーの首に抱きつきながら、アノンは周囲にただよう影の魔物たちを見て、歓喜に打ち震えた。
「成功したね。これで魔神が動いてくれたら、僕は本望だよ」
イルバーは無言で階下にたどり着く。反対側の階段からは、フェルノを連れたアストラルとデザイアが下り切り、手すりを掴んだアストラルがそこを起点に、もう片方の腕でフェルノを抱えるようにぐるりと回りこむ。
下り切ったデザイアも裏門へと向きを変える。
三人の後ろを、表門めがけて、青黒い影の魔物が這うように抜けていった。
走るイルバーにアノンが語る。
「ありがとう、イルバー。あとは、僕を自動車に乗せて、環の国の中心まで行けば、すべて僕がなんとかするから」
裏門の階段を降りきる。フェルノがアストラルに後部座席に押し込められてた。
「アノン様もどうぞ、急いで」
叫ぶアストラルの手前でイルバーが止まり、アノンを降ろした。
「じゃあ、行ってくるね」
アノンがにっと笑った。
「いつも我々のためにすまない。アノン」
イルバーの言葉を背に受けて、アノンはフェルノの背面に体をぶつけた。
アノンが身体をぶつけるように乗り込んできた。
「もっと寄ってよ、フェルノ」
邪魔と言わんばかりに、ぐいぐい迫る。
「一体、なんなんだ」
「だから言っただろ、昨日森の民のところにアストラルが来たんだって」
アストラルが後ろの扉をしめて、運転席の隣に乗り込むと、自動車はすぐさま走り出した。
イルバーとデザイアは並んで見送る。
後ろの席で、フェルノがアノンにくってかかった。
「これはどういうことなんだ、アノン」
「ちゃんと説明するよ」
迫るフェルノに、手のひらを向けたアノンが、へへっと嬉しそうに笑った。




