152,引き寄せる
鏡の中の魔法使いが、ゆっくりと手をあげる。そして、宣告した。
「生贄の聖女を、断罪せよ」
その声は小さかった。届いたのは、フェルノと周囲の数人だけ。
それでも、フェルノは震撼した。
猜疑心の塊だった過去の意識が蘇り、一瞬で、この上階に居合わせた全員が敵に見えた。文官長も、王も、司祭も、神官二人も、王妃も、アストラルさえも。
アノンが腕を組んで、鏡の前に進み出る。背後の鏡の中で、黒い闇が再び渦を巻いていく。役目を終えたとばかりに、闇は逆回転し鏡面へと戻った。
「フェルノ、変わったよね。まさか、僕のことを本当に待っているとは思わなかったよ」
アノンの人を小ばかにするような態度と表情が、フェルノの怒気に抵触する。
「アノン、君が私を騙すか! ここにきて、この異世界に飛ばされてまでも!」
荒げた声は、空間全体に響く。
階下の人々にも、進み出たアノンの姿が見え、何事かとざわめきが起こり、居合わせた人々の視線が、フェルノとアノンにそそがれた。
「忘れたの、フェルノ。僕は前科持ちだよ。橋の上でのことを忘れたなんて言わせないよ」
アノンがフェルノの前に歩み寄る。二人はにらみ合い、揶揄する目と怒りの目を交差させる。
「フェルノと僕が聖女なら、僕たち二人がどんな役目を負うか分かるだろう」
「私が寄せて、アノンが屠る、それしかないだろう」
「そうだね。じゃあ、どうやって魔神を寄せる?」
「私の体質なら向こうから寄ってくる。今までずっとそうだったじゃないか」
「それが違うんだよ、フェルノ。今のフェルノなら、弱いんだ。魔神を引き寄せるにはね」
「どういうことだ」
「フェルノの体質が作用するには、森の奥の遺跡は遠い」
「そこまでは私の体質も届かないということか」
「御名答。だからさ、その遠い遺跡まで、フェルノの体質が届くようにしなくちゃいけないだろ」
フェルノの表情が徐々に冷えていく。裏切られた怒りで高ぶった緊張がほぐれゆく。
フェルノの変化を感じ取り、余裕の表情を浮かべながらも、アノンの肚にきいんと緊張が染みわたる。
「私を生贄にすると、私を断罪すると……、そう言うか、アノン」
「僕さ。ここにきて、やっと理解したんだ。なんで、僕たちにフェルノの暗殺が命じられたかってさ」
フェルノは目が座った。
「へえ……、その密命にも意味があったんだ」
フェルノは、片手で額から後ろに髪をかき上げた。
アノンはこれからだと奥歯を噛む。
嫌な汗が伝う感覚を覚えながら口角をあげ、揶揄するよな声音で話し続ける。
「森と環の国は距離がある。遺跡はさらにその奥だ。フェルノの体質の影響を彼方まで飛ばすにはどうしたらいいか。
さっき、神託を告げる者が囁いただろう。フェルノの耳には届いたはずだ」
「ああ、聞こえたね。生贄の私を断罪しろと……」
「断罪して聖堂に晒す。そうして、魔物を呼び寄せるんだよ」
「私の命をかけろと言うか」
「うん」
太々しい構えをとりつつも、アノンは恐怖していた。
直にフェルノと対峙したことなどなかった。彼は強く、ぶつかれば無傷じゃすまない。はなからアノンは分かっていた。警戒心が高く、猜疑心も強い者の寝首はかけない。フェルノの暗殺なんて、最初から不可能だった。
屋敷の中で、ごく稀に隙がないかと伺い見たこともあった。そのたびに、余裕の笑顔を向けられた。
暗殺なんて興味ないふりをしながらも、あれをどうやって暗殺しろというんだふざけるな、と憤りながら塔の階段を登ったこともある。暗殺を望むなら、なぜあれだけ強くしたと矛盾する上部に呆れたこともアノンは思い出していた。
そんな中でも、フェルノは生きることへの執着がある。生きることに重きを置いているから、周囲を信用しきらないで、誤魔化し、笑い、演じている。アノンだって、それぐらい分かっていた。
「ふうん。では、三人を代表してアノンが私に手を下しに来たというか」
冷徹な視線でアノンを威圧する。
信じた結果がこれかとフェルノは高らかと笑いたかった。
助けを求めることも、信頼することも、生まれて初めて自ら行った。その結果に怒りを通り越し、闘争心に着火しかけていた。
「てっきり、こちらの世界へ飛ばされて、表面的な密命なんて意味がなくなったと思っていたよ」
「環の国に渡ってくるまで、僕も同じように思ってた。
フェルノを暗殺なんて不可能だもの。暗殺なんて、意味がない表面的なことをどうして僕らに要求したのか。今まで、さっぱり分からなかった。
だけど、昨日ね。アストラルが森の民を訪ねてきたんだ。本当はリオンを訪ねてきたんだけど、彼はまだ森の民が住んでいる地にいるから不在でね。代わりに僕が話を聞いた。
そこで、やっと理解できたんだ。やっぱり、あの密命は意味があったって。暗殺もね。やっぱり、こちらに飛んできた時のためにあったんだよ。
フェルノをリオンが守り、僕をライオットが守る。
来るべき日、つまりは魔神が復活する当日にフェルノを断罪するために、それまで守れと言うことなんだ。僕は魔神を倒すだけの魔力を保有し、フェルノが魔神を寄せる。
その最も、魔神を寄せる体質を際立たせる行為が、処刑なんだ。
つまり、フェルノの暗殺は、元々日にちが決まっていたんだ。
暗殺日は今日! 魔神が復活する日だったんだよ」
たんたんと話し続けるアノンに、フェルノはじっと耳を傾ける。
「魔法使いでさえない、ただの女の子が私を殺そうというのか」
冷徹な無表情のフェルノは、その声音さえ凍てついていた。
「悪いね、フェルノ。
フェルノの敵は、僕だけじゃない。もう気づいているだろう。
フェルノを陥れたのは、僕だけじゃない!」
アノンは両手を広げた。
「僕も、
アストラルも、
人間の国も、
魔物の国も、
環の国の人々も、
みんな、フェルノの敵なんだよ。
世界はフェルノに死を望んでいるんだ」
ぴきっとフェルノの自意識が弾け飛んだ。
「私を陥れるか、アノン」
「僕が一人だと思うなよ」
フェルノの手が伸びる。アノンの顎をぐっとつかみ上げた。
「私を陥れるか、魔法使い」
その時、フェルノの両腕がつかまれた。アノンの顎にかけた手も剥がれる。アノンからも引き離される。
フェルノの目に、上階の空間が目に飛び込む。鏡はよけられ、大きな窓から陽光が差し込んでいた。
怒りに視野が狭くなり、周囲の動きに気づいていなかった。
アノンは顎をさすりながら、目元を歪める。
フェルノは両脇を掴んだ者を見つめた。屈強な男二人が、がっしりと腕を掴んでいた。鏡を運んできた男二人だと気づく。
「イルバー、デザイア。フェルノを離すな。フェルノを斬首するなら今だ、アストラル」
アノンの背後にアストラルが立つ。手には長剣が握られていた。
ざわっと全身に鳥肌が立った瞬間、あたたかな陽光が差し込んでいた窓が真っ暗になった。雲一つない砂漠に闇が降りるなど、理由は一つしかなかった。
窓が大きな音を立てて割れると、外部から影の魔物が飛び込んできた。




