130,早朝の火柱
魔神【凶劇 ディアスポラ】は数年前から脈動を開始していた。
意識が覚醒し、身体感覚も蘇りつつある魔神は、たどたどしく四肢を動かし始めた。手足を動かせど壁にぶつかる。しなりのある黒々しい筋が重なり、魔神を包む殻となっていた。閉じ込められた狭い空間に、伸ばしても引っ張っても動きを抑え込まれた。
いつの頃からか、全身が動かせるようになる。体躯を曲げると、絡まる筋の一部がぶちんと切れた。体躯を捩るごとに、殻を形成する筋が減る。隙間ができると、魔神は自身の一部を外へと伸ばした。
細い緑の糸は触手のように這い出て行った。空間を這いずりまわり、入り込める隙間を見つけては、先へ先へと伸長する。
緑の糸が外気に触れた。ふわんとした感触が逆流し、本体までも痺れた。さらさらと流れる空気の感触を味わいながら、魔神は殻のなかでじっとしていた。
そんな大気の揺れをゆるゆると感じいっている時に異質な魔力が侵入してきた。それはさわさわとくすぐるように体内を撫でる。くすぐったくて、魔神はもだえた。たどってくる感触のなつかしさに、ぽろんと核が分裂した。生まれたての核がその侵入者に吸い寄せられた。
体内に侵入したなにかは、誕生したばかりの魔物の核を攫っていく。肉体から離れた核は石のように固くなる。それは魔神の一部であって、一部ではなくなった。
自分以外の何者かが触れてきた感触に魔神はさらにもだえた。動くたびに副次的に、黒々しい縛りが切られていく。生じた隙間から緑の糸を放出した。
魔神はすっかり目覚めた。ごろりごろりと回転すれば、黒い筋は減っていく。減っても減っても、黒い筋は何重にも魔神を取り囲んでいたため、すべては失われることはない。しかし、それは徐々に減り、いずれはすべて消えてなくなることを予想させた。
転機は唐突に生じた。
魔神を取り巻いていた黒い筋が、一気に弾け飛ぶ。
殻の内側で、目一杯増殖した糸の塊が落ちて、ゴワゴワと蠢いた。
緑の塊は自由になったことにすぐには気づかなかった。ごろごろと揺れてから、のそっと前進する。ゆっくりと塊は左右に振れながら、身体の隅々まで動くことを確認していく。
その動きがピタリと止まるなり、周囲に散らしていた緑の糸が集約する。
文字盤が置かれた部屋の隅にはびこっていた緑のコケのような糸の先端も一気に壁と床の隙間に吸い込まれるように消えていった。
真っ白い異空間の中で、魔神は元の姿を取り戻す。緑の糸は収斂する。しゅるしゅると勢いよくまとまるなり、それは魔神の尾となった。
魔神の尾を包み込む毛が糸の元である。長い尾は数本のあり、ふるふるとゆれる。尾の動きに合わせて、柔らかい毛がなびいた。
濃緑の尾から色味が徐々にくすんでいき、胴辺りから茶に変わり、頭部にかけて焦げ茶色に切り替わっていく。背には白い楕円のまだら模様が散っていた。
真っ白い異空間の中で、巨大な四足獣が頭部をもたげた。
数本の尾を振り上げる。毛が尾に巻き付くと、それは鞭のようにしなった。鞭となった尾を数本、四方に叩きつける。時と共に劣化していた白い空間は一振りで崩れ始めた。
四足獣の姿をした魔神は上方を見上げてから、低い姿勢をとる。
後ろ足のばねを使い、飛び上がると、ひび割れた白い異空間は砕け散った。
遺跡の上にあった突起型の出入り口の内側から石が割れる音が響く。
続いて、積み上げられた石が砕け散る轟音とともに、魔神は世界に飛び出した。
遺跡は上部から斜めに崩れ去る。濃紺の空に明るい星がぽつりぽつりと光る。月はなく、彼方の空から徐々に赤らんできていた。
魔神は半壊した遺跡の外壁に前足をのせた。
頭部の鼻先をたからかと空に向ける。吠えることもなく、静かに空を見つめていた。外気に触れて、毛がなびく。数本の尾が伸びた。浮遊した尾が、久しぶりの大気に触れて波打った。
魔神は穏やかに両前足を崩れた遺跡にのせ、天に向かって背を逸らせる。首を曲げて、森全体を見渡す。穏やかな双眸をもって、潤んだ瞳で世界を見つめた。
森の民は、最上部に設置したテントにて、住民全員がひしめき合って寝入っていた。男たちは、短時間でも睡眠をとるために、交代で見張りをこなす。
リオンとライオットは見張りを森の民に任せて、男たちが交代のたびに出入りするテントの奥で寝せてもらっていた。二人は出入りする人々の物音で起きることはなかった。
星と月が瞬くだけで、魔物が出現しない夜中は静かだった。魔神復活の兆しもないまま、空の端が赤く染まり、太陽が顔を出す。
その時、どおんと轟音が鳴った。
リオンとライオットの両目がかっと開く。体を横にし、素早く身を起こした。
悠長な挨拶は抜きだった。ライオットは横に置いている槍を握った。
リオンは立ち上がり、二刀を腰に携えた。手製の弓も肩にかける。
周囲の男たちも立ち上がっていた。すでに寝ている者はいない。先ほどの音で、誰もが瞬時に覚醒していた。
出入り口に近い者から、外に出て行く。最奥にいたリオンとライオットは最後に外へ出る。
外では、隊ごとに分かれた男たちが、イルバーの父と話しては、配置につくために動き出していた。数隊が単車に乗り込み、森へと飛んでいく。
誰一人慌てる者がいない。動きはしなやかで、事前に決められていた動きをなぞっているようだった。
遠くに見える別テントで寝ている者もわらわらと外に出てきていた。
「さっきの音はなんなんだ。魔神が現れたわけじゃないんだな」
「音は遠かった。森に仕掛けた罠にかかった魔物でも……」
今度はカッと稲光が走り、居住区の色味を消しさる。つかの間、空間は真っ白になり、程なく色を取り戻す。続いて雷鳴が轟く。リオンとライオットが横を向くと、大樹の森にて火柱が立っていた。
「何だ、あれは!!」
「魔力の炎だ。アノンが仕掛けたな」
「あいつ、どんだけ魔力を注いでんだぁ」
ライオットは頭に手を乗せて、目をみはる。
炎が上がった地点は居住区から遠い。火柱は他の樹木に延焼するすることもなく、その場でごうごうと燃えていた。魔力で作られた幻覚のような炎からは、煙も出ていない。ただ、魔物を燃やす意図だけに特化した炎だった。アノン特有の美意識で、魔物以外を燃やさない炎を仕掛けていたのだろう。
「さすが、アノン。器用だな」
そこまで精巧な炎を作り出せないリオンは感嘆した。同じ炎を使っても、騎士と高位の魔法使いでは、精度が違う。
「急ぎましょう」
イルバーの父の冷静な声が響く。
昨日かけた罠に、すでに二体の魔物が引っかかった。一日に二度も魔物がかかることも珍しい。しかも早朝、間を置かず、だ。
森の民たちは、それだけで、非常時であると認識した。
アノンが残してくれた罠を仕掛けるための鎖と自らの技術で、守りを固める。無駄になったとしても、最大限の警戒を行っていた。
魔物たちの動きは、明らかにいつもと違った。




