救済の時
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慈悲深き者の一撃という短剣がある。瀕死の重傷を負って痛みにあえぐ戦士から苦しみを取り除き、安楽を与えるために用いられる剣だ。
リーズの祖父は、情け深く勇敢な戦士だったらしい。伯父夫婦の家に遊びに行くたび、リーズは祖父の遺品であるミゼリコルディアに心を惹かれた。祖父はきっとこの短剣で多くを愛し、多くを救ったのだろう。
聖職者だった父は、リーズに神の愛と慈悲の心を説いた。神の恵みに感謝し、迷える者を導き、力を正しく使って常に善行をなし、他者のために自らを擲てる人になりなさい、と。リーズが解釈した慈悲のありようは、ミゼリコルディアそのものだった。
母は物心ついた時にはすでに亡くなっていたが、そのぶん父から無償の愛を注がれていたので寂しくはなかった。伯父夫婦もよくしてくれた。リーズはとても幸せだった。
けれどリーズは父を殺した。それも二回。七歳の時だった。聖職者だった父のもとに、とても強力な穢霊が襲ってきた。多分、前に父が祓い損ねて逃がしてしまい、その時父が負わせた深手から父に恨みを持っていたのだと思う。穢霊は父に瀕死の重傷を負わせ、駆けつけたリーズによって祓われた。
子供の目から見ても、父は助からなかった。自分に父を越える祓いの才能があったことなど、その時リーズは初めて知ったが、今はそんなことはどうでもよかった。
ごぽごぽと口元から血を溢れさせ、目の焦点すら定まらないままけいれんを繰り返す父を見て、リーズの頭にとっさに浮んだのはミゼリコルディアだった。だからリーズは迷わずに、飾ってあった銀の燭台でとどめをさした。子供の細腕でも簡単に殺せてしまえた。父は最期に微笑んで、「ありがとう」と口元だけを動かした。窓から差し込む夕陽がとても眩しかった。
けれど気づいた時には、同じ日の朝だった。変な夢でも見たのだ、と思ったリーズはいつもと変わらない日を過ごした。そして夕方になり、また父を殺した。三度目の奇跡は起こらなかった。
リーズが父を殺めたことを、伯父はなかったことにした。一人の神父が穢霊に襲われたことで命を落とし、そして彼の娘が穢霊を祓った。そういうことになった。真実を話したところで、誰も信じなかっただろう。そして伯父は惨劇が起きた父の教会を、深い悲しみを持って閉鎖した。
リーズが持つ祓いの才能は、祓聖庁の興味を引いた。祓聖庁が言う神の慈悲と、リーズが思う神の慈悲はなんだか違う気がしたが、わざわざ訂正はしなかった。伯父から事前に注意を受けたからだ。
信仰に嘘をつくのはいけないことだと思ったが、少し主語をぼかして曖昧な言い方をするだけで人はリーズの話を都合のいいように解釈してくれる。それはリーズが嘘をついたことにはならない。だから、はっきり理解されたいと思う人が現れるか、自分の想いを正確に理解してもらいたいと思う日が来るまで、リーズはそういう話し方をしようと決めた。
そしてリーズは多くを愛し、多くを救った。それが罪だと糾弾され、信仰を否定されても、リーズは後悔しなかった。
幾度も身をもって死を味わい、自分の正しさを理解した。だって、死にたくても死ねないというのは、あんなに苦しいことなのだから。
一切の苦痛も恐怖もなく、安らかに眠りたいと思う人の願いを叶えてきたのは、間違いなどではなかったのだ。幼いころから信念を曲げずに神の愛を説いて人を救済に導いていたことが報われたようで、ただただ嬉しかった。
ある日突然、牢の様子がおかしくなった。看守達はリーズを指し、「どうして誰もいないのにこの独房は閉まってるんだ?」と言った。牢を開けた看守の一人が、リーズをまじまじと見つめた。「おい待て、何かもやのようなものがあるぞ! 穢霊か、それともただの亡霊か!?」怯えた様子の看守が剣を振り回した。
刃はリーズを裂いたが、その程度の傷はどうということはない。むしろ拘束衣がぼろぼろになり、少し動きやすくなった。突然打たれた下手な芝居はわけがわからなかったが、「ひぃぃ、手ごたえがある!」彼らなりに自分を逃がそうとしてくれているのかな、と思った。その厚意に甘え、リーズは脱獄を果たした。誰一人としてリーズを見咎めなかった。
おかしいと気づいたのは、王都を彷徨いだしてすぐのことだ。独房暮らしで身なりも整っていない、老婆のような髪の少女がはだしでふらふら歩いているのに、通行人は誰も気に留めない。うまく歩けずによろめいてぶつかっても、嫌な顔一つしないで行ってしまうのだ。まるで透明人間にでもなったかのようだった。
伯父夫婦のもとにいっても、祓聖庁の知人のもとにいっても、誰もリーズに気づかなかった。残っていたはずのリーズの私物もどこにもなかった。使用人達が「誰の物でもない女の子用の物がたくさんあったの。気味が悪いから捨ててしまったわ」と会話しているのを耳にしたが、それがリーズの物だったのかもしれない。誰もがリーズのことを知らない体で話していた。
一日中彷徨い歩いて、自分が世界中の誰からも見えなくなってしまい、忘れられてしまったのではないか、と仮説を立てた。仕方ないので、父と暮らした廃教会に戻ることにした。今は誰もいないが、伯父の指示であそこのものはほとんど手つかずだ。秘密の地下霊廟には父の貯金も隠してある。当面の生活には困らないだろう。
とぼとぼと歩いていると、強い穢霊の気配がして――――クロヴィスに再会した。たまに独房にやってくる、『死神』と呼ばれる魔法使いだ。
クロヴィスにはリーズが見えていた。クロヴィスだけが、リーズの存在を認めてくれた。けれどリーズの名前と姿は紐づけられないようで、リーズはとっさに偽名を名乗った。そして、リーズ・ラピスはサンドリヨンになった。
透明人間になったサンドリヨンは、手探りで生活をはじめた。【万物の葬送者】として、領域の外側を通じて自分の身に何が起こったかも把握した。
サンドリヨン自身に変化はなく、きちんと実体を伴っているが、クロヴィス以外の人間には姿が視えず声も届かない。
サンドリヨンのいる場所に向けて目を凝らすと、他人からは白いもやのようなものがあるように見えるらしい。
サンドリヨンが触れた物も他人からは視えなくなる。ただし大きすぎる物は触れた一部しか消せず、また素肌で直接触れなければ消えることはない。
洗礼記録などのサンドリヨンの存在を示す公的かつ物理的な証拠は失われているようだが、以前のサンドリヨンの私物などは所有者不明のものとして扱われつつも残っている。このあたりの線引きは少々曖昧なようだったが。
クロヴィスがリーズのことをわずかでも覚えていて、サンドリヨンを認識できるのは、きっと彼が楔だからだ。事情をクロヴィスに説明すると、彼に今以上の負荷がかかりそうだったので、クロヴィスには何も話さなかった。
【万物の葬送者】である以上、たとえ概念的なものであっても死ぬことは許されない。【万物の葬送者】は、人の形をした“死”の代理人だからだ。生命がある限り、世界から“死”が失われることはない。
世界からリーズ・ラピスが消えてしまっても、クロヴィスが知覚できる限りその存在は証明できる。たとえ悪魔が起こした歪みのせいで、彼の中でリーズの名とサンドリヨンの姿が結びつかなくても、認識できるだけで十分だ。
リーズが消え去るより前に、【万物の葬送者】はクロヴィスを自分すら殺せる者だと定義してしまっていた。あらゆる命を葬送するだけの自分より、『死神』クロヴィスのほうが上位存在である、と。だから、クロヴィスが楔に選ばれた。それは加護とも呼べるし、呪いとも呼べるだろう。
サンドリヨンを殺せるのはクロヴィスだけだ。けれどクロヴィスが死ねば、サンドリヨンは存在の証明を失う。サンドリヨンを生かしているクロヴィスは、誰にだって殺せない。
サンドリヨンとクロヴィス、この二人だけがお互いを認識できたとしても、それは世界的には存在を失っていることと同意義だ。世界に対して存在を証明するには、第三者に働きかけなければいけない。今、クロヴィスはサンドリヨンと世界を繋ぐ役割を果たしていた。
だから、悪魔でさえも今のクロヴィスに手出しはできない。観測者という悪魔によって歪められたこの世界で、【万物の葬送者】を従えるクロヴィスは何が起ころうと絶対に死なない。『死神』でなければ、サンドリヨンの命は奪えない。
――――結局のところ。
生きとし生けるすべてのものが逃れられない“死”という運命そのものを相手にした時点で、勝敗は決まっているのだ。
*
階下から激しい音がする。クロヴィスが剪定鋏達と戦っているのだろう。その健闘に報いるためにも、この狂った世界を終わらせなければ。
世界がここまで歪むことを許したのは、シビルの善悪や是非を決める権利など自分にはないから、とサンドリヨンが身を引いたせいだ。その結果、シビルは自らの死を覆すという罪を犯した。その過ちは看過してはならないし、シビル達に神の教えを示さなければならない。それがサンドリヨンの責任だ。
「其は愛。あまねく生命を包み込むもの。万物が賜りし至上の救済」
謡うように祈りを紡ぐサンドリヨンの、星空のような瞳から光が消える。ジャッドが世界を歪ませるより早く、サンドリヨンを中心に冷たく白い霧が発生して部屋中を包み込んだ。
「神は自ら救わない。故に祈りを捧げよ、迷える子らよ」
不可視の白い霧に包まれ、一人、また一人と自然に膝をつく。忍び寄る死の気配にはジャッドですら抗いきれなかった。
サンドリヨンの背後に、棺桶の形をした石碑が現れる。虚空に座すその異様な棺桶の蓋が、ゆっくりと開いた。
「ならば第四の摂理、【万物の葬送者】の名において赦そう――慈悲深き神の腕に抱かれて、永遠の眠りにつくことを」
棺桶から伸びる、無数の大きな黒い腕。棺桶と黒い腕をこの場で認識できたのは、サンドリヨンを除けばジャッドだけだろう。けれど余計なことはさせない。抵抗は、白い霧の前にすべて阻まれる。
ジャッドは目を見開き、がたがたと震えている。何か叫ぼうにも、声にもならないようだった。
嗚呼、それはいけない。だって死は、迎える最期の瞬間は、穏やかでなければいけないのだから。
黒い腕がアドリアンとシビルを掴む。ジャッド以外の三人も同様にして捕えられ、五人はそのままくずおれた。苦痛すら感じる間もなく、一瞬で。安らかな顔だった。
「……ッ、シ、シビル……!」
「ジャッドさん、でしたっけ。大丈夫、怖くなどありませんよ」
ジャッドは動かなくなったシビルに向けて、必死にかすれた声を振り絞る。
多分、彼にとって彼女は、何か特別な存在だったのだと思う。彼女のために観測者という種族のありようを捻じ曲げ、世界を狂わせたのだから。見方が変われば、種族や世界の壁を越えた純愛と言えたのかもしれない。けれどそれは、“死”にとってはどうでもいいことだった。
「あなたが観測者としての使命を放棄し、この世界に降り立って干渉を始めた時点で、“死”があなたをこの世界の生命だと定義できる条件は満たしています。ですからわたしは、あなたのことも救いましょう」
「なッ……なにを、言って……!」
「だってあなたは、人間と同じ次元に立ちましたから。領域外から人を観察ているだけならいざ知らず、世界を改竄しておいて自分だけは安全圏にいようだなんて……あまりに都合のよすぎる話だとは思いませんか?」
ジャッドの本来の使命は、この世界のこの時代がどんな未来を辿るのかを観察することだったはずだ。観測者は、そのために別の次元からあらゆる世界を見下ろしているのだから。
そのありようは、誰に対しても平等でなければ務まらない。けれどジャッドはシビルに肩入れしすぎた。幾度も直接的に力を貸し、世界が辿る未来を自らの思う形に捻じ曲げた。世界を歪めると言っても、書き換えられる因果には限度がある――――たとえば、ジャッドはサンドリヨンを殺せないし、シビルを不死の存在にはできない。
「あなたはシビルさんの前に姿を現し、己の存在を誇示しましたね。ただシビルさんを守りたいだけなら、その必要はなかったはずです。……共に生きたかったのでしょう、シビルさんと。その願い、わたしが叶えてさしあげますね」
「待っ――」
陰ながら愛し合っていた恋人達が、寄り添って死ねますよう。不死の悪魔と人間の令嬢、恋に落ちたふたりは死によって永遠となる。悪魔は恋のために令嬢に尽くし、種族さえ捨てた。その想いは報われてしかるべきだろう。
それが彼らにとっての救いになればいいと、サンドリヨンは微笑んだ。伸びた黒い腕がジャッドを掴む。ジャッドはそのまま動かなくなった。
悪魔によって狂わされていた世界が、ゆっくりと崩壊していく。まるですべての虚飾を剥がし、生まれ変わっていくかのように。
「クロヴィスさん。願わくば、まっとうな世界でも――」
崩れゆく世界の中で、サンドリヨンは正午を告げる鐘の音を聴いた。
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