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1.七夕の宵

「もうし、お願い申しあげます」


 戸の外から呼びかける声がした。

 もう日が落ちてだいぶ経つ。このような刻限に、この炭焼き小屋に訪れる客があろうとは。

 不審に思いつつも、源三郎は腰をあげ、小屋の入口へと向かう。


 引き戸を開けると、女がひとり、ぽつねんと立っているのが目に入った。

 満天にひろがる天の川、皓々と照り映える半月。小屋の外は思いのほかに明るかった。

 月と星とに照らされて、女の容姿は、夜闇の中にあってもかなりはっきりと見分けることができる。


 見知らぬ女だ。見知らぬ、美しい女だ。

 里の者ではないだろう。このような女、一度会えば忘れるはずもない。


「いったい……?」


 そなたは何者だ。どのような用事でこんな山奥に。

 そう問うよりも先に、女が答えた。


「源三郎さま、お情けをいただきたいのです」

「……む?」


 情けとは何だろう。

 意味が分からず、源三郎は首をかしげる。


「今宵は夏祭り。里のひとたちはみな、祭に来るものだと思っておりました。けれども源三郎さまはいらっしゃらない。ですから、こうして訪ねて参ったのです」


 祭――そう言われてようやく、今宵が七夕であったことを、源三郎は思い出した。


 源三郎は普段、山の中で炭を焼き、薬草を集めて暮らしている。

 里に降りるのは、十分な量の炭と薬が出来上がったとき、もしくは、里に急な病人が出て医師が必要になったときくらいなものだ。

 二年前、浪々の果てにこの地に流れ着いて以来、ずっとそのような暮らしを続けてきた。特に里人を避けているつもりはないが、よそ者であることも手伝って、このあたりの慣わしにはどうも鈍い。

 とは言え、二年も近くで暮していれば、ある程度のことはおのずと知るようになっていた。

 七夕の宵、里の者たちは井戸を清め、星に祈る。ばかりではない。若い男女はこれをよい機会にと、契りを交わすこともあると聞く。


(なるほど、情けとはそういうことか)


 ようやく女の言わんとするところが飲み込めた。

 飲み込めたはいいが、なぜそれを望んでいるのかが、相変らず源三郎にはわからない。


「その……だな、そなたと会うのは初めてだと思うのだが」

「いいえ!」


 女は激しく首を振った。

 だが、一瞬の間を置いて、思い直したようにつけ足した。


「あ……たしかに、こうして差し向かいでお話しするのは初めてかもしれませぬ。ですが、私は源三郎さまのことをようく存じあげております。りりしきお姿はもとより、若竹のごとく直きご気性も、ちいさき者への目配りを忘れない、温かきお心も。叶うことならば、おそばに置いていただきたくて」


 勢いよくそう言い切ると、女はすがるような目で源三郎を見上げた。


「その……私を、源三郎さまの、嫁にしていただきたいのです」


 あっけにとられて、源三郎は女をまじまじと見つめ返す。


「……人違い、ではないのか?」

「いいえ、人違いなどではございませぬ」

「とは言ってもだな、私のほうにはまるで心当たりがないのだ。申し訳ないが」


 そうなのだ。

 この女に、源三郎はまったく見覚えがなかった。


 里に暮らす人々の数は決して多くはない。この二年の間に、たいていの者とは一度ならず顔を合わせているはずだ。今さら見知らぬ者がいるとは思えない。

 そもそも、これほどの器量の女、顔を合わせたことがあるならば、いかに朴念仁の源三郎といえど、そうそう忘れるものではないはずだ。


 そう、この女は並外れて美しい。

 つややかな黒髪、色白のきめ細やかな肌。

 土にまみれ、日の光に晒されて田畑を耕す者のそれではない。屋敷の奥深くに籠り、日を避け風を避け、大切に育まれてきた娘のみが持ち得る、やわらかくも美しい肌だ。

 鮮やかな染付のなされた衣は、絹と見た。たやすくあがなえるものではない。

 身なりだけではない。そのかんばせもまた、際立っている。

 小ぶりだが形の整った口元、やわらかに弧を描く眉。

 大きくぱっちりとした瞳はやや左右に離れぎみで、そのせいで絶世の美女と呼ぶにはいささか均整を欠いている。だが黒目がちできらきらと輝く瞳は生気にあふれており、そのわずかなつりあいの悪さすらも、かえって蠱惑的に思える。


「そなたほどの女性(にょしょう)、一度見れば忘れるはずはないと思うのだが」

「あ……」


 女は恥ずかしそうに――あるいは困ったように――顔を伏せ、消え入るような声で言った。


「源三郎さまが覚えておられないのは当然のことなのです。ですが私がお慕いしているのはまぎれもなくあなたさま。私は源三郎さまのことをよくよく存じ上げております」


 そのようなことがあるものだろうか。

 不審に思いながらも、源三郎は不思議と悪い気はしなかった。


「ともかく、中に入るといい」


 そう声をかけると、女は顔を上げ、喜色に満ちた声で言った。


「入れていただけるのですか?」

「このような刻限に、若い娘を山中に捨て置くわけにもいくまい。一晩泊っていくがいい」

「はい!」


 元気よく答えると同時に、花のかんばせに幼子のような曇りない笑みがひろがる。


(なんと……)


 かわいらしい女であることか。

 思わず源三郎は心中で感嘆の声をあげた。


 とはいえ、いかにもあやしい女ではあるには違いない。

 容姿といい、身なりといい、里の者であるはずはない。さりとて、旅をしてきたようにも見えない。


(もしかすると、もののけの類なのだろうか)


 むしろそう考えたほうが自然なくらいだ。


(まあ、狐狸(こり)妖怪に憑かれたとて、惜しい身ではないが)


 おのれには守るべきものも叶えるべき願いもない。

 ただ漫然と日々を過ごすこの身には、もののけをおそれる理由など、もとよりありはしない。ならば、このあやしくもかわいらしい女に憑かれるのもまた一興。


 源三郎はつと右手を伸ばし、そっと女の手をつかむ。

 はっとした表情で見上げる女に無言でうなずくと、その手を引いて戸の内側に女を招き入れた。


 つかんだ女の手は、ひんやりと冷たかった。



 ********************



 その夜はそのまま、女は源三郎の小屋で過ごした。


 「情けを」と請われはしたが、源三郎は女を抱きはしなかった。口では誘う言葉を述べながらも、どこか女はぎこちなく、無理をしているように思えたからだ。よく知りもしない女に無体をはたらくなど、源三郎の望むところではなかった。


 女は「さらさ」と名乗った。

 次の日も、その次の日も、さらさは源三郎の小屋で過ごした。

 帰らずともよいのか、と尋ねると、お邪魔でなければここに居させてください、と答える。

 好きにすればいいと返すと、さらさはそのまま居ついてしまった。


 最初の夜こそ枕を交わしはしなかったものの、気づけば源三郎はさらさと褥をともにするようになっていた。

 源三郎とて木石ではない。美しくかわいらしい女が心安げに身を委ねてくれば、情も欲も湧くというもの。


 こうしてふたりは夫婦となり、ともに暮らすようになった。


 さらさは小まめによく気づき、家の中のさまざまな仕事を引き受けようとする。が、どうしようもなく不器用で、失敗ばかりやらかしていた。

 かまどに火を入れようとして、生木に火をつけ、小屋の中を煙でいっぱいにする。飯を炊こうとすれば水の加減を間違えて、どろどろの粥を炊き上げる。掃除をしようとしたときには、どういうわけだか箒の柄をへし折ったし、繕いものに手を出すと、必ずと言っていいほど指先に血の玉をこしらえている。

 しくじりを繰り返すたび、さらさはしゅんとして源三郎に詫びる。


「気にするな。無理をせずともよい」


 そう言って慰めると、さらさはとたんに元気になり、別の仕事に手を出して、またぞろへまをやらかすのだった。


(なんともまあ、不器用なことだ)


 それでも邪険にしようとか、追い出そうとは思わなかった。仕事こそできなかったが、さらさはいかにも愛くるしく、その上、その言葉には深い教養が感じられるのだ。

 古い和歌や漢籍に通じているらしく、源三郎の何気ない言葉にも当意即妙の答えを返してくる。

 実のところ、そういった会話こそ、源三郎が長く飢えていたものだった。


 源三郎は元をただせば侍であった。

 西国のさる藩で代々藩医をつとめる家系に生を享け、幼い頃は家業を継ぐべく勉学に励んでいた。だが元服して間もなく、跡目相続をめぐるお家騒動によって藩は改易、仕えるべき家を失った源三郎は浪人となった。


 新たな仕官先を求めるか、あるいは侍として身を立てることを諦めて商いのひとつも覚えるか。

 落ち着き先を探して十年ちかく、源三郎は各地をさまよった。だが身の振り方の定まらぬまま歳月が過ぎゆき、二年前の早春、ようようこの地にたどりついた。

 寺の和尚に救われて今の住まいを得てからは、炭を焼き、薬草を集め、たまに里の者に治療を施して暮らしている。


 今の暮らしは意外なほど源三郎に合っている。

 ただ、いささか物足りなくはあった。

 里の者たちは書を読んだり、物語に興じたりはしない。そういった会話ができる相手はせいぜい寺の和尚くらいだが、この和尚、僧籍に身を置いているにも関わらず、やたらと好色で、艶めいた話をことさらに好む。たまにならばそれも悪くはないが、毎度のこととあってはどうにも辟易とさせられる。

 そんな様子であったから、さらさと交わす会話は、源三郎にとって、この上もなく楽しいものとなっていた。


 それにしても、さらさはいったい何者なのだろう。

 初めて出会った晩、狐狸妖怪の類ではないかと疑った。今、その疑いはむしろ確信に変わりつつある。


 さらさはとかく不思議な女だ。


 炭焼き小屋での行き届かない暮らしの中でも、さらさの美貌はいささかの陰りも見せない。髪は相変わらずつややかで、肌は荒れもせず、日に焼けもせず、最初に会った時と同じように、白くなめらかなままである。

 飯はほとんど食べない。勧めれば少しは口にすることもあるが、それも魚か卵などに限られていて、米の飯には手をつけようとしないのだ。米が減らないのは助かるが、それでよく命を繋げるものだと不思議でしょうがない。


 そしてもうひとつ。

 さらさが来て以来、驚くほどに鼠が減った。

 以前は鼠に貯えをかじられたりと、何かといやな思いを味わわされたものだが、近頃はそういったことがめっきり減っている。

 猫やいたちが住み着いた気配はない。住み着いたのは、さらさだけだ。


(やはりさらさは、ひとではない何かなのだろうか)


 人間のもとに嫁いでくる、ひとならざる妻の話。古くから繰り返し好んで語られている物語だ。

 現実に起こり得るものだとは思っていなかった。だがさらさを見ていると、そういった物語が不思議なほどしっくりくる。


(だが、だとしたら、さらさはいったいどのようなものなのだろう)


 物語の中で人間のところにやってくるものは、以前その人間に助けられたことがあったとか、そういった縁があるようだ。だが、源三郎はさらさの正体が何であるか、さっぱり見当がつかなかった。


 動物に恩を売るような真似をしたことがないからではない。むしろ逆だ。

 源三郎は動物が好きだ。傷ついた動物を見かけるとそのまま見過ごすことができず、つい助けてしまうようなことが、何度もあった。

 そう、恩返しをしてくれそうなものの心当たりが多すぎて、どれと絞り込むことができないのである。


 傷を負った狐を癒したことがあったし、飢えた子狸にえさを与えたこともある。子どもにいじめられていた蛙を買い取って逃がしてやったこともあれば、鉈で斬られそうになった蛇を救ったこともある。鶴から矢を引き抜いてやったこともあれば、羽根の生えそろわない幼い雁を犬からかばったこともある。

 その他にも犬だの猫だの鼠だの、さまざまな生き物を助けてきたような気がする。


(どれだ。どれがさらさの正体なのか――)


 考えたとてわかるはずもない。だが、直接さらさに尋ねるのははばかられた。

 さらさはたしかに不思議な女ではあるが、だからといってもののけだと決めつけていいはずはない。

 それに、正体を暴かれたもののけの妻は、たいてい泣きながら夫の元を去っていくではないか。

 源三郎はさらさを失いたくはない。

 さらさは源三郎にも、ほかの人間にも特に危害を加えたわけではない。むしろ、味気なかった日々の暮らしを、輝かしいものへと変えてくれている。


 こうして、源三郎と不思議な嫁との日々は続いていった。

 夏が終わり、秋が訪れ、やがて季節は冬に移ろうとしていた。


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