金星の記憶
蛇原瞳がデスゲームに参加することを決めたのは、あまりにも賭け金が安かったからだ。
自分1人の命など、安いものだ。
瞳は多くの大人に囲まれた幼少期を過ごした。
『お嬢』と呼ばれ、随分と可愛がられた。忙しい父に代わって、他の人が瞳を動物園や水族館に連れていってくれたし、勉強を教えてくれた。
優秀な通知表を持ち帰れば、彼らが大いに褒め称えてくれた。ご褒美に、遊園地に連れて行ってもらったこともよく覚えている。
……そしてその裏で、時々、彼らが血に汚れながら大きなゴミ袋を運んでいるのを何度か、見ていた。
時折、家の片隅からどたばたと何かが暴れるような音が聞こえてくることもあったし、その音の中に、人の悲鳴が混ざって聞こえることも、時々、あった。
……そうして瞳は、高校生になる頃には、自分の家がどういう家かをはっきりと認識していた。
ヤクザの娘に生まれたのだと、はっきり、認識していたのだ。
瞳はそこそこに優秀で、そこそこに普通な高校生だった。当たり前に勉強し、当たり前に授業を受け、考査では常に上位4分の1程度には入っていた。
大学を決める時も、『まあ、潰しが効くでしょ』ということで商学部を志望することにした。
……家のことは、特に考えなかった。家のために商業を学ぼうとは、思わなかった。ただ、『普通の』高校生らしく、自己の進路を決定した。
高校に入学した頃には、瞳は既に自分の家がどういう家なのかを理解していた。
それを割り切って自分もヤクザになれればよかったのだろうが、そうするには瞳はあまりにも普通の高校生だった。
かといって、普通の高校生が家を出て1人、生きていくことも難しかった。
昼間、学校に居る時と、夜、家に居る時。それぞれに1人ずつ、別の自分が居るかのようだった。学校ではヤクザの倫理観で過ごすことは許されない。それでいて、家ではヤクザの倫理観で居なければならない。
そうして次第に乖離していく2人の自分を見て『不器用ね』と嘲笑う3人目の自分がいよいよ何もかもどうでもよくなったのは、高校2年の夏だった。
瞳はその夜、組の若衆に声を掛け、『海行きたい。車出して』と言いつけた。
昼間、高校生を演じている瞳ではなく、夜間、『蛇原組』の組長の娘としての瞳には、既に『自分より下』の大人が何人も居たのだ。
彼らは『お嬢の頼みなら』と快く車を動かし、後部座席に瞳を乗せて、夜の市街を走り出した。
都会と言うほどに栄えておらず、ド田舎というには建物が多すぎる、そんなありきたりな街並みを、スモークが掛けられた窓越しに眺めて、瞳はただ、ぼんやりしていた。
道路脇に並ぶ街灯は、少し可愛い形をしている。ここの街路樹はクスノキ。ここを真っ直ぐ行ったら、花屋さん。
昼間の瞳が知っていることを1つ1つぼんやりと眺めて見送って、瞳は見知らぬ街へと運ばれていく。
……海に行きたい、なんて、始めはただの思い付きだった。『気づまりだから、気分転換でも』と思っただけのことだった。
だが、車が走って、どんどん知らない場所へと向かっていくのをぼんやりと感じている内に、『ああ、海。いいじゃない』と、次第に意識が固まってくる。さながら、濁った水の中、滓が沈殿していくように。
海に入ってそのまま沈んでしまえば、自分は1人でも2人でも3人でもなく、ただ、0になって終わりだと。
だが、そんなぼんやりとした思考が突然ぶつりと途切れる。
というのも、甲高いブレーキ音が響き、直後、どん、と何かぶつかったような衝撃が車に加わったからである。
流石にぼんやりとしていられなくなった瞳は、スモークのかかった窓を、うぃん、と下ろして外の様子を見る。その頃には既に、血の気の多い若衆が車から出て怒声を上げていたが……。
……そこで瞳が見つけたのは、瞳と同い年くらいに見える少年の姿だった。
中途半端にブリーチのかかった髪に、あまり似合っていないピアス。道路に転がっているバイクは、彼のものだろう。
まあ、つまり、瞳が乗っているこの車と接触事故を起こした相手、ということである。
少年の顔には、恐怖の色が見て取れた。それはそうだ。本物のヤクザが彼を取り囲んでいる。
彼の反応は、『普通』の反応だ。これが『普通』だ。瞳はそれをよく知っている。
今は夜だから、瞳は、蛇原会の組長の娘で、倫理など投げ捨てていなければならない存在である。だが、瞳はやはり、知っているのだ。『普通』がこうなのだ、ということを。
そして自分は『普通じゃない』のだということも。
若衆が少年を怒鳴りつけながら、いよいよ、手が出る。少年は一発、思い切り殴られてくぐもった呻き声を上げた。
さらに、蹲った彼を蹴りつける者が現れ、『お嬢が乗ってる車によくも』と、車に積んである工具を取り出し始める者が現れる。
「ねえ」
……そこへ瞳が窓から身を乗り出して声を掛ければ、若衆は皆、お行儀よく行動を止め、瞳の方を見た。
瞳のことを『お嬢』と呼んで大切にしてくれる彼らもまた、『普通じゃない』。普通は、人をこういう風に傷つけられない。躊躇する。躊躇しない彼らは、普通じゃない。
「そいつ、積んで」
瞳は笑って、そう言った。
「折角だし、私の子飼いにするわ」
瞳もまた、普通じゃない。
……普通じゃない中で、それでも、普通であろうとしたかった。
そうして瞳は結局、その晩は海に行かないことにした。
事故を起こした少年は車のトランクルームに積み込まれかけたが、瞳が『そっちじゃなくて、後部座席』とぴしゃりと言えば、若衆は戸惑いつつも、瞳の言うとおりにした。……警戒はしているらしく、若衆の内の1人もまた、瞳と少年の間に座って少年を睨んでいたが。
……少年はやはり、怯えていた。怯えながらも、虚勢は張ろうとしていた。瞳はその様子を見ながら、彼のことを色々と聞いた。
彼の名前は飛澤翔也。年齢は、瞳の1つ下。高校1年生。
高校1年の夏からグレてんの?早いね、と瞳が笑えば、翔也は『うるせえ』と小さく言って、それから、隣に居るヤクザの存在を思い出したらしく、身を縮めていた。
……バカだな、と瞳は思った。普通に生きていれば、ヤクザに捕まることなんてなかっただろうに。
髪を脱色して、似合わないピアスのために穴を開けて、どこかへ行きたいわけでもないのにバイクに乗る。
そんなバカなことをしなければ、翔也は『普通』に生きていられただろうに。
瞳とは、違って。
「あんたさ、私の子飼いになるから」
「は……?」
「それとも、あそこでボコされて死んでた方がよかった?うちの若いの、普通に人、殺すけど」
瞳が翔也にそう言ってやれば、翔也はやっぱり、怯えを表情に見せていた。
「ま、そういうことだから。死ななかっただけマシだと思ってよね」
わざわざ『普通』を捨てた愚かな少年には、少し怖い目に遭って貰おう。瞳はにっこり笑った。
それで……瞳の気が済んだら、適当に逃がしてやればいい。端からそのつもりだ。ちょっと脅かせば、この少年はまだ、元の場所に戻れないこともないだろうから。
蛇原家に翔也を連れて帰って、3日。
翔也は蛇原組の連中に、ここがどういう場所なのかをたっぷりと教えられていた。時には暴力を振るわれることもあっただろうし、陰惨な場面を目にすることもあっただろう。
だが翔也は守られていた。何故ならば、『お嬢の子飼い』だからだ。
……瞳がこのように人を扱うのは、初めてのことだった。だから組の皆は、期待しているのだ。今まで積極的にヤクザらしくあろうとはしなかった瞳が、ようやく『前向き』になったか、と。
まあ、そんな事情はさておき、3日も経ってそろそろ懲りただろう、と思った瞳は、翔也を帰してやることにした。
したのだが。
「戻りたくねえ。お嬢。俺をここに置いてくれ」
翔也は、瞳の前で土下座して、そう頼み込んできたのであった。
……瞳は、ぽかん、としながら、『なんでまた』と、どこか遠く、ぼんやりと思った。
それから翔也の話を少しばかり、聞いた。
戻りたくない、というのは、家の環境が悪いから、ということらしい。
まあ、家庭の環境があまり良くない、ということはまあ、聞く前から概ね想像がついていたところではある。だがそれにしても、ヤクザの家に厄介になるのとどちらがマシなのかと考えると、瞳にはどうも、結論が出せなかった。
……だが、そんな瞳を前に、翔也はやはり、折れなかった。
ヤクザの車と事故ってビビッていたはずの少年が、あまりにも折れないものだから……瞳は結局、『わかったわよ』とため息を吐くしか無かった。
そうしてどうしたことか、翔也は本当に、瞳の子飼いになってしまったのである。
何が正しいのかなんて、分からない。翔也にとっては、今の瞳の返答が、人生の分水嶺だったことは間違いない。そして後で、瞳のこの返答を、恨む日がくるのかも。
……だから瞳は、覚悟を決めた。
……その日以来、瞳は2人でも3人でもなく、1人になった。
物事が昼と夜で分かれているのではなく、ただ、全て連続して、一続きのものとして、受け止められるようになった。
自分はヤクザという社会のゴミの家に生まれたクズだと、認識して昼を生きるようになったのである。そしてそのツケを、いつか必ず払うことになるのだ、と。
ある者が見れば、『瞳、明るくなったよね』と言った。またある者は、『お嬢もすっかり賢くなって』と言った。
瞳はそれらに笑顔で返しながら、ただ、何もかもが地続きの世界を生きていた。
瞳の明るさは、自棄と自嘲でできていた。瞳の賢さは、諦念と憎悪でできていた。
それを知らない者達は、瞳がようやく1人の人間になったことを、心から喜んでくれたのである。
……そんな中、ただ1人。
翔也だけは、瞳を見て、ふと、『お嬢、疲れてねえか』と、言った。
瞳は、それに何と返したのだったか。
一方の翔也は、なんと、勉強していた。
……組に入る、と愚かな選択をしてしまった翔也であったが……組のことを色々と学ぶと同時に、高校の勉強もしていた。
翔也は高校は中退していた。高校を中退して……それから家で色々あって、そんな日にバイクで走り回っていたところで瞳の車とぶつかったらしい。馬鹿なことである。
そしてそんな翔也は……瞳が大学受験の勉強を進めるのを見て、何故か……何故か!『俺も、ちょっとはできるようになっといた方がいいかもしれねえと思って』などと言って、勉強をするようになったのである!
ということで、自分の勉強の合間に翔也に勉強を教えてやるのが瞳の日常になった。
……翔也は、控えめに言ってもバカだった。高校中退以前に、彼が通っていた高校は瞳が通っていた高校とは天と地ほどの差があったのだ。
なんと翔也は……分数の割り算が、できなかったのである!
が、そんな翔也は、九九を暗記するところからスタートし、小学生向けのさんすうドリルを繰り返し、漢字の書き取りを続け……分数の割り算はできるようになったし、新聞のテレビ欄と4コマ漫画以外の欄も、読むようになったようだ。
その内、連立方程式を覚え、三角形の内角を計算するようになり、英単語を少しずつ覚え……瞳が大学に入学する頃には、翔也は、少なくとも義務教育までの内容は、すっかりできるようになっていた。
……一応、瞳は聞いた。『いや、あんた、何やってんの?』と。ヤクザに入ってお勉強してる奴がどこにいんのよ、と。
実際、翔也はその頃には既に、色々と碌でもないことを手伝わされていた。もう、足抜けできないところまできていたのだ。まあ、翔也が足抜けできない理由は他にもあったが……。
……だからこそ、瞳には分からなかった。何故、外に出られない者が勉強などするのか、と。
すると翔也は、『お嬢が勉強してたから』と言った。
瞳は、きょとん、として、首を傾げて、たっぷり5秒ほど考えて……『いや、意味わかんないんだけど』とまた首を傾げた。
翔也は何やら渋い顔をしていたのだが……ぼそぼそとぶっきらぼうに喋り、『お嬢だって子飼いがバカは嫌なんだろ』と言った。
……どうやら。
翔也は……なんともバカなことに、そして、妙に可愛らしいことに……『賢い人の子飼いで居るのだから、それに見合うくらいには勉強しなければ』と思ったらしいのだ!
そんな話を聞いてしまったら、流石の瞳も少々、堪えた。
……私は、そう思ってもらえるような人間ではないんだけど、と。
法を嘲笑って、人を踏み躙って生きているヤクザの娘には、そんな風に大切に思ってもらえるような価値は無い。
勉強している瞳も、人殺しに車を運転させて町へ買い物へ出かける瞳も、翔也をこんな世界に連れてきてしまった瞳も、全て地続きの一繋がりだ。
言い訳の余地は、どこにも無い。
それからも、翔也は勉強を続けていた。どうやら、高卒レベルまでは勉強したいらしい。熱心なことである。
その勉強を教えてやるために、瞳は相変わらず、翔也と一緒に勉強していることになった。それが毎日の日課だった。
瞳が大学3年になったある日、翔也は高卒認定を受け、そして、難なく通った。翔也が自慢げにしていたのを、瞳は笑顔で褒め称えてやった。
……そして瞳自身も、翔也につられるように勉強をしていたため、妙に優秀な大学生であった。
特に意味も無く商業科目を学び、簿記の資格を取り、事務は一通りできるようになって……。
……そうして、とりあえず、意味も無く、ただ潰しが効くようになっていく瞳に、翔也が聞いてきたのだ。『お嬢、やっぱり大学卒業後は組の経理やんのか』と。それから、『それ、嫌じゃねえのかよ』とも。
そこで瞳はようやく、自分が勉強していたことの意味が、分かった気がした。
瞳は大学卒業後、就職した。当然のように、自分の家に。
……ヤクザにも、事務仕事はある。二重につける帳簿を管理し、金勘定してやるのが瞳の仕事になった。
そうして瞳は笑顔で働き……働きながら、自分の家の不正の記録を、少しずつ、集めていった。
瞳はこのために勉強していたのだろう、と思った。こうして蛇原組を内部から破壊するために、瞳はここに居るのだ、と。
勿論、告発などしたら、瞳もただでは済まないだろう。娘であっても、ヤクザは裏切者を許さない。それは、瞳にも分かっている。そして、それは覚悟の上だ。
ただ……翔也のことだけは、気がかりだった。
ある日、他の組との抗争があって、火災を発生させてしまう事故があった。
そこで人が何人か死に……そこに駆け付けた翔也が、酷く取り乱す様子を、瞳はぼんやりと見ていた。
やっぱりこいつだけは、なんとか助けられないかな、と。
自分が巻き込んで、ここまで連れてきてしまった。だから……最初の想定通り、翔也だけは、元の社会に返してやれないだろうか、と。瞳はそう、思うようになる。
だが考えてみても、翔也だけ見逃してもらう方法は、見つからなかった。
その頃には蛇原組も厳しい状況にあり、それ故に、皆がぴりぴりしていた。毎日、じわじわと壁が迫ってくるような閉塞感。そんな中で、誰か1人だけでも外に出すことなど、できるはずも無かった。
『なんで、人って生まれた瞬間から運命が決まってるのかしらね』と。そう翔也に零したことがあったが。
……瞳は閉塞感に満ちた日々の中で、強く願うようになる。
運命を、変えるための願いを。
……そうして瞳は悪魔のデスゲームに参加した。
元より、自分の命など安いものだった。それ1つ賭ければ願いが叶うかもしれない、などという好条件であったから、瞳に躊躇いは無かった。
唯一躊躇うことがあったとすれば……翔也も一緒に参加すると言い出したことである。
翔也を巻き込むのでなければ、もっと躊躇わなかった。だが、翔也も参加するのであれば……こいつを心中させるわけには、いかないから。
だから瞳は、生きなければならなかった。生きて、願いを叶えなければ。
そして、何もかも都合よく……運命から外れて、生きることが、できたなら。
パン、と銃声が響く。
……銃で人を撃ったのは、初めてだった。
目の前で崩れ落ちるミナを見つめて、瞳は『ああ、やっぱり私は所詮こっち側の人間だった』と深く思う。
……翔也は、死んだ。だから瞳は、生きなければならない。生きて……殺さなくてはならない。
そうして願いを叶えるのだ。せめて、自分が巻き込んでしまったアイツだけは。自分は、もうどうでもいいから。
と、そう思いながら、瞳は呆気なく死んだ。
首に痛みが走ったと思ったら、もう、首が千切れていたのである。
上手くやれなかったな、と瞳は目を閉じる。
……生きて殺して願いを叶えることはできなかったし、翔也を死なせないこともできなかったし……どうせ死ぬなら、心中すればよかった。
何もかも、上手くやれなかった。クズにはお似合いの末路だった。
瞳は自らを嘲笑いながら、意識を失う。そして、その意識はまた、元の場所へ還ってくる。
繰り返すのだ。後悔も、懺悔も、罪も。
……願いも。




