水星の記憶
湊芽衣子には、生き返らせたい人が居る。
それが、悪魔のデスゲームに参加した動機だ。芽衣子は、人を生き返らせたくて人を殺すことにした。
芽衣子は元来、引っ込み思案な性格であった。
趣味はお料理、お菓子作り。好きなものはお花で、苦手なものはジェットコースター。
小学生の頃から、そんな『大人しく、手のかからない良い子』と評判の子供だった芽衣子は、中学生になり、高校生になっても、やはりその性格のままだった。
人前に出るのは苦手で、友達を作るのも苦手で、でも、誰かと一緒に居たい、と思うような。……そんな性格のまま、芽衣子は生きていた。
問題を起こすようなことは無かった。芽衣子は実にやりやすい生徒だっただろう。クラスのリーダーになるではなく、成績上位者に名を連ねるでもなかったが……ただ、穏やかな人柄で平和に生きようとしている芽衣子は教師達からの評判もよかった。
そしてそんな芽衣子は、友達を作りに自ら動くことはあまり無かったが、常に誰か、1人2人……芽衣子と同じような、大人しく物静かな性質の者が自然と集まってきて、概ね、友達ができた。
それはまるで、野原で迷子になった羊同士が身を寄せ合って、そっと草を食むかのように。大人しく、引っ込み思案な者というのは、案外そうやって群れを成すのである。
芽衣子はそんな日々に、不満を持たなかった。自分が『羊』である自覚はあったし、それ故に、無害で、無辜であろうという努力はしていた。ごく当たり前に規範を守り、ごく当たり前に道徳的に、模範的に、過ごしていた。
……時折、息苦しく思うことが、無いでもなかった。芽衣子は自らが羊である自覚こそあったが、大空を自由に舞う鳥を見て、或いは誰より早く駆ける馬を、強く猛々しい熊を見て、ほんの少し、自らを省みることはあったのだ。
大人しく、凡庸で、群れを成し、規律を守り、道徳的で、穏やかで……毎日、変わらず生きている。
そんな自分を、疎ましく思うことが全く無かったとは言えない。
だがそう思ったとしても、芽衣子は特に変わらなかった。変わる勇気は無かった。芽衣子はやはり、大人しく道徳的な、白い羊であった。
だが、そんな芽衣子の人生に転機が訪れる。
それは、芽衣子の大学入学のその日のことだ。芽衣子は入学式を終え、キャンパス内を歩いていて……その時には既に、芽衣子と同じ『羊』が何人か既に集まり、小さな群れとなっていたが……そこで芽衣子は、運命の出会いを果たす。
「お料理同好会!お料理同好会はいかがですかー!お料理同好会、『作って食べよ!』はいかがですかァーッ!」
……そこに居たのは、他の人達より頭一つ分は背の高い……やたらと筋骨隆々な、そして、声の大きい……そして笑顔が眩しい、謎の男であった。
そう。芽衣子の人生を大きく変えることになった『先輩』である。
先輩は、『お料理同好会!作って食べよ!入部お待ちしておりまぁあああす!』と叫びながらビラを配っていた。見た目と発される単語が、全くマッチしていなかった。一応、サークルのユニフォームなのであろうエプロンも、彼には小さすぎて合っていなかった。それ故に、異物感がとんでもなかった。
当然、羊である芽衣子達の群れは、そっと、その異物から離れるべく動く。芽衣子も、『わあ……』とびっくりしながら、そっと彼から離れていく。
……だが。
「そこのお嬢さん!見たところ、料理が好きそうな!目を!していますね!」
……彼の方が、動きが早かった。
やんわりと彼を避けようと動いていた羊の群れはアッサリと彼に追いつかれ、そして……芽衣子の目の前に、彼が居た。
またもや『わあ』とびっくりして、何も考えられなくなってしまった芽衣子の目の前に、そっ、とビラが差し出された。
「もしよかったら、お料理、やりませんか!うちの大学、家政学部あるから!調理室、貸してもらえてて!デカいオーブンありますよ!デカいパン焼けます!13号のケーキだって焼けますよ!」
芽衣子が『あわわわわわ』とやっている間にも、彼はにこにこてかてか、満面の笑みでビラを差し出し続けていた。尚、13号のケーキ、というものの存在を芽衣子は知らない。それはそうである。人間は普通に生きている分には、直径39㎝のケーキになど出会わないのである!
「是非一緒にお料理しましょう!見学、来てください!」
……そして芽衣子は、混乱のままにビラを受け取ってしまった。『つくってたべよ!』と、どこぞの何かのロゴをもじったようなデザインの、妙に可愛らしいビラであった。少なくとも、目の前の筋骨隆々ピタピタエプロンの男には、あまりに似つかわしくないビラであった。
芽衣子が只々固まっている間に、目の前の男はまた、にこっ!と笑うと……『お料理同好会!お料理同好会、作って食べよ!です!いかがですかァーッ!』と声を上げつつ、また、新入生の多いキャンパスの大通りをずんずん歩いて去っていくのだった。
そんな背中をぽかんとして見送った芽衣子は……改めて、自分が受け取ってしまったビラを見る。
カラーペーパーに白黒印刷の、よくあるサークル新歓用のビラであるそれは、妙に可愛らしくて、妙に目を引くのだ。
特に……『作って食べて、幸せになろう!作って食べさせて、幸せにしよう!』という一文が、妙に芽衣子の頭に残った。
……くす、と笑って、芽衣子はビラを丁寧に折りたたみ、買ったばかりの鞄の中に、そっとしまった。
そして、芽衣子含む羊の群れは、『すごい人だったね』『大きかったね』『お料理同好会っていうよりは、運動部っぽかったよね』などと、ひそひそと大人しく罪のない話をしながら通りを歩いていく。
……その間も、芽衣子の頭の中には、『デカいパン!デカいケーキ!いかがですか!』と笑う彼の姿が、こびりついていたのだが……。
……結局、芽衣子はお料理同好会『作って食べよ』に入部することになった。
というのも、芽衣子は元々家政学部だからである。そして、家政学部の一調理室を利用させてもらっているお料理同好会は、芽衣子にとって、かなり見学しやすいサークルだったのである。
その日、『折角だし、何かサークルに入ろうかな……』と思っていた芽衣子は、授業のガイダンスを終えて教室を出たその廊下で、『ふわ』と漂ってきた香ばしい香りに、ちょっとだけ幸せな気分になった。
これは、焼き立てパンの香りだ。芽衣子はこの香りが大好きである。『焼き立てパンの香りは全人類を幸せにする!』と信じて疑わない。
……芽衣子はその素晴らしい香りにつられて廊下を進み、階段を1つ上がり……そして、そこで、出会ってしまったのである。
「お料理同好会!作って食べよ!今なら焼き立てパンの試食ができますよ!いかがですかァーッ!」
……サイズが小さいエプロンを窮屈そうに、しかしきちんと着用した、筋骨隆々、他の人より頭1つ分とびぬけた……それでいて妙に礼儀正しくきちんとしている、その人を。
「お料理同好会……あっ!そこのお嬢さん!ビラ、渡しましたよね!もしかして見学に来てくれたんですか!」
「え、あ、はい……」
……丁度、その時芽衣子は羊の群れに居なかった。芽衣子はパンの香りに釣られてふらふらやってきてしまった、迷い羊だったのである!
思えば、1人で行動するなど、芽衣子にとって珍しいことだった。だが、そうしてしまうくらい、パンの香りは魅力的で……。
「ならこっちへどうぞ!パンの試食やってて……ほら!」
……そして、調理室の近くの、小さな講義室。そこで、焼き立てのパンがほこほこしているところへと、芽衣子は連れていかれてしまい。
「お好きなパン、どうぞ!まだまだ焼いてますんで!」
そしてパンを選ばされてしまい。
「ここで食べていきますか!?お茶ありますよ!あ!おーい!こっちのお嬢さんにお茶お願いしまーす!」
いつのまにか着席させられており。
「どうぞ。美味しくできてるといいんですが……」
そわそわしている大男の前で、芽衣子は、パンを食べることになっており……。
……小さなブールを、もふ、と齧って……芽衣子は嬉しくなった。
だって、美味しかったのだ。とっても。
バターと小麦の甘い香りがふんわり漂って、外側はこんがり、中はふわふわで……人を、幸せにする味だった。
「よかった!美味しかったみたいですね!」
そして、にこにこしてしまった芽衣子を見て、目の前の大男はほっとしたように、幸せそうに笑った。
……それを見た芽衣子は、実に芽衣子らしくないことに、その場で言ってしまったのだ。
「あの、入部したいです!」
さて。こうして芽衣子は、お料理同好会『作って食べよ』に所属することになっていた。
……筋骨隆々の大男の印象ばかりが強かったこのサークルだったが、まあ、彼以外はごくごく普通の人達だった。家政学部の先輩方も多かったので、何かと助けてもらえることも多かった。芽衣子のような『羊』らしい人もそれなりにおり、居心地は良かった。
そこで芽衣子は、例の大男……『先輩』のことを、まじまじと観察することになる。
先輩は、芽衣子の2歳年上の男であった。背が高く、やたらと筋骨隆々であり、よく笑い、よく食べ、よく歌い、時折奇行に走り……周りの皆を笑顔にする。そんな人であった。
彼は料理を趣味にしており、ずっとお料理同好会に所属しているらしかった。尚、専攻は理工学である。『学びたいことと好きなことはまた別だな!』とよく笑っていた通り、学業は学業できちんと修めていたし、それはそれとして、ずっと料理はしていたらしい。
……彼が作る料理は、美味しかった。彼が作ったものを食べて、芽衣子は幸せになった。芽衣子が幸せそうにしているのを、彼もまた、幸せそうに見ていた。
毎日が、楽しかった。
そうしている内に、芽衣子はほんの少し……ほんの少しだけ、明るく、逞しくなった。
何せ、先輩に引きずられてしまうのだ。明るく朗らかでどこまでも善良なこの大男は、芽衣子に間違いなく影響を与えていた。
芽衣子は自分自身が少しずつ、殻を破っていくような……まるで、自分の中に落ちていた種が芽吹いて、にょき、と伸びていくような、そんな感覚を味わっていた。
新鮮な感覚だった。長らくずっと、ただ大人しい羊であったのに……明るく朗らかな暴れ馬と一緒に居たら、『ほんのちょっぴり暴れることもあるかもしれない羊』くらいには、なってしまった。
知らないことを沢山知った。食べたことのない物をたくさん食べた。そうして芽衣子は、今までの人生からは想像もつかないくらい……笑い、楽しんで、幸福に生きていた。
そしてそんな幸福な日々で、やはり先輩は太陽のような存在だった。
優しく明るく大らかな先輩は、引っ込み思案で人前に出るのが少し苦手な芽衣子にとって……憧れだったのだ。
だからこそ、彼が卒業してしまう時には大泣きした。芽衣子が泣くのを、彼は少し困ったように、でも嬉しそうに宥めてくれた。
『またすぐに会えるさ!』と。
……その以前から彼は、『卒業したら小料理屋を開く!』と豪語していて、そして実際、芽衣子が大学3年になった今年、見事に有言実行……無事に小料理屋を開き始めてしまったのであった。
そして。
『芽衣子さん。もしよかったら、うちでアルバイトをやらないか?』と。
……彼からそんな誘いが届いた時、芽衣子は一も二も無く、それに飛びついたのである。
憧れの、大好きな先輩とまた一緒に料理がしたくて。
……そしてそんな日々が、いとも呆気なく終わる。
轟轟と炎を上げて燃え盛る小料理屋を茫然と見上げて、芽衣子は只々、立ち竦んでいた。
消防車か何か、サイレンが聞こえる。警察が野次馬を誘導する声も。
だが、動けない。芽衣子はただ動けないまま……燃え落ちていく小料理屋に飛び込んでそこに居るはずの『先輩』を助けにいくこともできず、その場から逃げ出すこともできず……何もできないまま、ただ、炎を見つめていた。
そんな芽衣子の耳に、密やかながら鋭い声が聞こえてきたのは、正に悪魔の囁きだったのかもしれない。
路地裏から聞こえてくる声は、不思議と芽衣子の耳に届き、はっきりと、その意味を結ぶ。
そこで芽衣子は、『蛇原会』という暴力団のせいで、この火災が起きたことを。知った。
……そして同時に、芽衣子は、己をも焼き滅ぼさんとするほどの怒りを、初めて、知った。
人を殺してもいいとさえ、思ったのだ。
大人しかったはずの羊が。
……だから芽衣子はデスゲームに身を投じ、そして、人を殺したのだ。
人を殺した。
今、ビーナスと名乗った女性は、他ならぬ芽衣子の手によって、首を切断されて、死んだ。
……実感は、無かった。芽衣子はただ、不思議な人形の首を引き千切っただけだ。だから、手に残る感触も、そう強くない綿の布を破り裂いただけの、それだけのものでしかない。
だが、芽衣子自身が流した血が、芽衣子の目の前で無残にも千切れた首が、そこから溢れ出る血液が……芽衣子に少しだけ、実感をもたらす。
復讐を達成した喜びは、あまり無かった。あまりにも残酷な光景を前にして、ただ、『ああ、私は人を殺したんだ』と思う。
先輩の笑顔が、思い出せない。『先輩を殺した奴を殺したから先輩はきっと喜んでくれる』などとは、初めから思っていなかったけれど……それでも、何か、自分の中で整理がつくのではないか、と、そうは、期待していたのに。
……だが、自分で決めたことだ。復讐してやるのだと決めて、ここへ来たのだ。
人を殺す奴なんて、死んだっていい。その命で、魂で……先輩を取り戻した方が、いい。芽衣子の信念は、揺らいでいない。
今更、『人なんて殺さなければよかった』などとは、思いたくなかった。
……だから芽衣子は少しだけ、安心したのだ。
ぱん、と銃声が響いてすぐ、自分の体に穴が開いたことに。
床に倒れて、芽衣子は思う。
人を殺す奴なんて、死んだっていい。その命で、魂で……誰かが救われるなら、その方が、いい。
芽衣子だって、同じことだ。芽衣子が死んで……それで、たまか、陽か、樺島か……誰かの願いが叶うなら、きっと、その方がいいのだ。
だって芽衣子は、人を殺した。そうすべきだ、と思って、自分の手で、人を殺したのだから。だからそんな自分が死ぬというのなら……それはそれで、いい気がしたのだ。
群れからはぐれた羊は、狼に食われて死んでしまう。死にたくないなら、群れから……大人しく、模範的な集団から、はぐれなければよかったのだ。
でも、芽衣子は、はぐれてしまったから。
……はぐれたことを、後悔なんて、していないから。だから、はぐれた末の運命は、受け入れる。
生まれて初めて暴れた羊は、こうして死んだ。
目を閉じた芽衣子は、最期に小さく呟いた。
せんぱい、と。
……そうしていよいよ意識が消えるその時、夕陽を浴びた麦わらのような色の柔らかい光が、ちら、と見えた気がした。
……途切れた意識がまた元の場所へ還るのに、そう時間はかからない。そしてその時、芽衣子はこのことを、もう覚えていないのだ。
そして芽衣子はまたきっと、はぐれて、迷い、それでも進む。
その胸には確かに、温かな記憶が、憧れが、傷痕が……あの人への思いが、残っているから。
オーバーラップ文庫より書籍発売中です。
詳しくは活動報告をご覧ください。




