海王星の記憶
辰美開斗は悪魔に『次に小説を応募するところで受賞したい』と願ってデスゲームに参加した。
だが、命を賭してでも叶えたい願いだったのかと問われれば、開斗自身も返答に窮しただろう。
孤独は人を詩人にするらしいが、開斗もその類だった。ただし、望まずしてそうなったことは間違いない。
辰美開斗の生涯は、実に恵まれたものだった。だが開斗はその恵みを生かせない程度に不器用で、そしてそれ故に孤独であった。
開斗はいわば、社長令息である。祖父が起業した会社の経営を行う父と、いわゆる『いいところのお嬢さん』である母との間に生まれて十九年。金銭面で不自由したことは一切無かった。
いわゆる『世間一般』とはかなり異なる暮らしをしてきた。尤も、それに気づいたのは小学校も高学年になってからだったが。
小学校の低学年の内は、然程気にしていなかった。自分が誰かと違うかどうかなど、幼い子供達は誰も気にしていなかった。
だが、中学年になり、高学年になる頃にはその違いが明確に分かるようになってくる。
クラスメイト達は、塾に通っていない子ばかりだった。
年末や年度末には親が開くパーティーに大人が沢山来るということも知らなかったし、誕生日の度にほとんど知らない大人から誕生日プレゼントが来ることも無いらしかった。
彼らが身に着けているものも、開斗とは大分違っていた。
開斗は何かのキャラクターが描かれたトレーナーを着ることは無かったし、サイズが合っていないジャンパーを着ることも無かった。後で知ったことだが、この辺りはやはり、開斗の母親の趣味だったらしい。開斗はいつだって仕立てのいい服を着ていて、それは少々小学生らしくなかった。着替えの度に時間がかかるので、開斗は体育の授業はあまり好きではなくなった。
……そうして開斗が自分とクラスメイト達の違いに気づく頃には、クラスメイト達も開斗だけが『違う』と気づいていたし、当然のように開斗は人の輪から弾き出されるようになっていった。
それでも開斗から動いて上手くクラスメイト達の中に馴染めるように動ければよかったのだろうが、開斗はそれができない程度には不器用で、臆病だった。
それでも幼い開斗は、自分がクラスメイト達の輪に入ることを諦めたわけでもなかった。開斗は専ら、休み時間も自分の机で読書をしているような小学生に育っていたが、自分の机の周りでクラスメイト達が楽し気に話す内容に、そわそわと耳を傾けてもいた。
そこで耳にした内容を家に持ち帰った開斗は、母に『最近流行りのゲームがあるらしい。クラスで皆が話題にしていた』と話したことがあった。如何にも、『そんな情報を仕入れてきましたよ』という程度の、世間話を装って。『僕もやってみたい』とは言えなかったから。……開斗は学校のみならず、家でも臆病だったので。
だがその時、母が眉を顰めて、『かわいそうね』と言ったことをよく覚えている。
ゲームをすると頭が悪くなるので、ゲームをやっている子達はかわいそうだ、親が何も知らないのだろう、というような理屈だったように思うが、その後のことはよく覚えていない。
ただ確かなことは、開斗はその後の生涯の全てにおいて、結局一度もゲームの類を持たないまま育ったということだ。
クラスメイト達との共通の話題を何一つ持たない開斗は、結局、小学校を卒業するまでずっとそのままだった。
休み時間には教室の中、一人、本を読み続けた。校庭から聞こえてくるはしゃぎ声や、教室の中に残っているませた女子達の囁き笑い合う声をどこか遠く聞きながら、一人、本のページを捲っていた。
本を読んでいる分には、母親は何も文句を言わなかった。父親は『外遊びした方がいいんじゃないか』と心配していたが、二人とも、そもそも開斗には外遊びを一緒にする友達が居ないのだとは知らなかった。
ついでに、開斗が『失くした』と言っていたノートや鉛筆が実際はクラスメイトの誰かに隠されてしまったのだということも、賢く大人びた開斗は自力でそれらを解決してしまったのだということも、その結果、よりクラスメイトから遠巻きにされているのだということも、知らないままだった。
そうして開斗は、流行りのテレビ番組も、有名なゲームも、そして友達付き合いも碌に知らないまま……世の中のほとんどの子供達が知っていることに触れないまま、『恵まれた』育ち方をした。
中学受験を経て環境が変わってからも臆病さはそのままだったが、臆病さは開斗を守る鎧として、少々尖った自尊心へと変化していた。エスカレーター式に高校へ進学する頃には、よりその傾向が強くなっていただろうか。気難しい、高圧的だ、というように周囲には感じられていたかもしれない。
それでも人並みに人付き合いはしなければ、と危機感を覚え、自分より大人しそうなクラスメイトに話しかけてみたりもしたので、小学生の頃よりは幾分、人間関係は改善された。そして当たり障りのない話題の選び方や、前向きに孤独と親しんでいるふりをするのが大分上手くなった。
……そしてやはり、開斗は図書室に通う文学青年へと成長していた。
何せ、小説は開斗の支えだった。開斗は自分が知らないことを、小説から多く知った。世間一般の感覚も、誰かの心の機微も。……そして何より、小説は開斗の孤独に寄り添ってくれた。
同時に、文字にして何かを表現するということ自体に惹かれていった。何せ、開斗は他者に自己を表現することなど、ほとんどできた試しがなかったので。
……小説はさておき、やがて開斗は人並み以上に勉強に打ち込み、結果、有名私大である京王義塾大学に合格した。他人に誇れる程度の学歴を手に入れられたことと、親の面子を潰さずに済んだことに安堵した。
それから、届いた合格祝いに一つ一つ、お礼の手紙を書いた。父は快活に笑いながら、『お前がいずれ会社を継いだらお付き合いすることになる方々だからな』と言っていた。
……ふと、息苦しいな、と、開斗は思った。
自分が知っている世界は狭く、そして、息苦しい。
やりたいことをやるわけでもなく、なりたいものになるわけでもなく……やることが決まっていて、なるものも決まっていて、そのために頑張っている。それが息苦しかった。
だから開斗は、小説を書き始めた。
大学進学にあたって授業で使うノートパソコンが買い与えられたので、開斗は早速、ワープロソフトを使って小説を書き始めた。
……楽しかった。
自分の言葉を探しては綴っていく経験は、開斗にとって唯一無二のものとなった。小説を書くことを通して、開斗はようやく、自分自身が何なのか分かってきたような、そんな気がした。
開斗は小説を書いてようやく、自分が案外臆病だということを自覚した。ある種、これは開斗にとって生まれて初めての自己開示だったのだ。
誰かに対するでもなく、ただ、自分が書いて自分が読むだけの小説を、開斗は夢中になって書き綴った。今までの人生において、誰かとの対話の中で手に入れているべきであった何かを、ようやく今、取り返すかのように。
……一方で、小説を書く自分と『これから自分がなるもの』との乖離はますます酷くなっていく。父の後を継いで会社を経営するのだと分かってはいても、現実味は無い。
臆病で、経験が足りず、能力だってきっと足りていない。それらを隠すようにプライドが高くなってしまって、到底、経営者になど相応しくない。
そしてそんな自分を知っているのは、自分と、自分が書いた小説だけ。
漫然とした閉塞感はやがて、漫然とした絶望へと変わっていった。
以上が、辰美開斗がデスゲームに参加した経緯である。
そう。つまるところ、開斗がデスゲームに参加するにあたって、何か、きっかけがあったわけではない。強いて言うならば、『悪魔のデスゲーム』の存在を知ったことがきっかけだっただろうか。
そして結局のところ、開斗が何故デスゲームに参加したのかと考えていけば……『小説の賞を取れれば自分は絶望せずに生きていけるのではないか』という不確かで不安定な希望よりも、ただの希死念慮の方が強かったのかもしれない。
……と、まあ、そんな具合にデスゲームへ参加した開斗であったので、参加当初から非常に緊張していた。元来が臆病な性格だ。それを覆い隠すように高圧的で攻撃的な言動をするようになったが、中身は大変に臆病なのだ。
そして、それ故に失敗した。紛うこと無き失敗だ。
開斗は自分が生き残るため、デスゲームの参加者の中の女性三人を見殺しにすることを発案した。だが……それはあまりに大きな失敗であったのだ。
もう少し周りを観察する余裕があれば、陽とたまが仲良さげにしている様子に気づいたかもしれない。もう少し人と接する経験があれば、同じ提案をするにしても賛同を得やすい言い方ができたかもしれないし、或いは反感を買わずに提案を引っ込めることができたかもしれない。
そしてそもそも、こんなに臆病でなかったなら、こんな提案はしなかっただろう。
……かくして開斗は、デスゲーム開始直後から孤立無援の危機的状況を、自ら作り出してしまったのである。
だというのに!
「だな!よし!じゃ、海斗!行くかぁ!」
……開斗がここまで怯え、緊張することになった原因であるその男……樺島剛、と冒頭から本名で名乗ったこのバカは、まだ開斗に笑いかけてきたのである!
挙句の果てに、『俺、海斗と仲良くなりたかったし!』などと言ってくる始末だ!意味が分からない!
そう。意味が分からない。開斗には、この樺島剛という男のことが、まるで理解できなかった。
どう見ても鋼鉄か何かで出来ているのであろう首輪を素手で引き千切った時点で、彼の異能はそういうものなんだろうと判断はできたが……それ以外のことがまるで理解できない!
開斗の名前を知っていたこともそうだ。『海王星だから、海で、海斗』などとそれらしい理由を付けていたが……あれは間違いなく、開斗の『辰美開斗』という本名を知っていたからこそだろう。
ということは、このバカ、見た目はバカだがきっとバカではない。『海斗と仲良くなりたかったし!』という言葉にも、間違いなく裏がある。
……というように、開斗は樺島を非常に強く警戒していたのである。
強い警戒と強い臆病心は、あやふやな殺意に変貌する。そうして開斗は『運命の天秤』の上で、人を殺す決断をした。
ぎぎぎ、と軋みながら自分の天秤皿が持ち上がり、樺島が乗った天秤皿が沈んでいく。『あちい!あちい!』と騒ぐ樺島も、もうじき熱湯に沈んでしまうのだろう。如何に怪力を手に入れられる異能があれども、熱湯に浸かって生き延びられるわけがない。樺島は死ぬ。開斗が、殺すのだ。
……そう。開斗は、人を殺すのだ。
嘘だろうが、それでも自分と仲良くなりたいと言って満面の笑みを浮かべていた相手を殺すのだ。
そう考えたら、血の気が失せた。なんて奴だ、と自分を非難する自分と、助かるためには仕方が無いだろう、と言い訳する自分とがせめぎ合う。
手足が震える。開斗は、『ああ、僕はデスゲームになんか向いてなかったな』と思った。
誰かを出し抜けるほどの能力は無い。誰かと協力して上手くやっていける性格でもない。そして、誰かを躊躇いなく殺せるほどの覚悟すら無い。……それでも人を殺す以上に上手いやり方なんて何も思いつかなかったから、人を殺すのだ。
殺人による極度の緊張と恐怖が、平衡感覚なんてとうに奪い去っていた。手足は震えて、まともに動かず、遂には自分だけ助かるつもりだったのに、天秤皿から落ちた。
自分はこんなにもどうしようもない人間なのだと、開斗は深く思い知った。
……それからのことは、記憶が曖昧だ。どうやってか、沈みゆく天秤皿の上に居たはずの樺島がこちらの天秤皿の上に居て、気づけば開斗は抱き上げられていて、そして……助かってしまった。
意味が分からない。意味が分からないが……気づけばその後、よく分からない話題を振られて意味が分からないままに会話を続け、そしてよくわからない内に……懐かれていた。
意味が分からない。開斗は樺島にとって、警戒すべき相手であるはずである。自分を殺そうとした相手に懐くなど、本当に、意味が分からない!
……だが、樺島は開斗が『僕はお前を殺そうとしたんだぞ』と教えてやっても『じゃあ、どっちも助かってよかったなあ』とよく分からない感想を漏らしてにこにこしていたし、挙句の果てには『お前、俺を殺そうとしてたなんて嘘だろ?俺には分かるぜ!バカだけど人を見る目は確かだ、って親方に褒められたし!』と堂々と胸を張り始めた。こいつ、人を見る目が無いらしい。開斗は天を仰いだ。
……終始が終始、そんな調子だったものだから、開斗はいよいよ、信じるしかなかったのである。
『このバカは裏も表も無く、只々眩いほどに明るいバカだ』と……。
それからも不思議な体験は続いた。
一度、自分が人を殺そうとした恐怖に晒されたからか、次に他者の死体を見た時には、自分でも驚くほどに落ち着いていた。
他の参加者に知られたら自分の危険が増すと分かっていた『リプレイ』の異能を、樺島には見せる気になった。陽とたまと一緒になって次のゲームに挑んだ時には……もう、樺島を完全に信用して動いていた。
不思議なことだ。開斗は今まで、こんなに誰かを信用したことなんてなかったのに。
だが不思議と、樺島を見ていると……なんだか、信じてもいいような気がしてしまうのだ。理性で物事を考えるならば実に愚かしいことだと分かるのだが、それでも。
……或いは、開斗は樺島のことを信じてみたかったのかもしれない。
そうだ。開斗は、生まれて初めて自分と小説以外に自己開示した相手を信じてみたかったのだ。
だから、悔いはない。
今、開斗は血を吐いて、冷たい床に倒れ伏している。恐らく、毒ガスか何かを吸ってしまった。それも、致命的なものを。
……これが樺島の謀略ではないとは言い切れないはずだし、今、泣き叫びながら走り去っていく樺島は、本当は泣いてなどいなくて、ただ開斗を嘲笑っているかもしれない。
だが開斗は、『ああ、あいつ泣いてるな』と思った。自然に、信じてしまっていた。
本当に樺島が『やり直し』をできるのかなんて分からないし、もし本当にできたとしても、『やり直し』の後、今ここに居る開斗はどうなっているのかも分からない。だが……それでもぼんやりと、漠然とした希望に包まれている。
悪魔は絶望した人間の魂を好んで食らうらしい。ならば、と開斗は霞む意識の中で思う。
『今の僕の魂は、さぞかし不味いことだろうな』と。
走り去っていく背中を見送って、開斗はどこまでも清々しい気分でいた。
開斗はようやく気付いたのだ。開斗が小説で賞を獲得したかったのは小説を認められたかったからで、そして、開斗にとって小説は、自分そのものだった。
……だから、開斗の願いは、このデスゲームで叶った。悪魔の力になど、頼らずとも。
ただ、もう一つ願いができてしまったから……それだけは、心残りかもしれない。
一回、あいつとゲームセンターとやらに行ってみたかった。あいつのおすすめのゲームを一緒にやってみたかった。
そして、あいつのために、小説を書いてみたかった。自分のためではなく、あいつのために。『次』こそは。
……そんなことを考える開斗の意識は、どんどん白く塗り潰されていく。毒ガスによる痛みも苦しみも、いつの間にか遠く薄れていく。
そうして、ふかふかふわふわ、柔らかくて温かい何かに包まれて、ふわり、と空を飛ぶような心地を味わい……そして何もかもが、ふつり、と途切れた。
……で、その直後に再開するわけだが、再開した時、開斗はきっと何も覚えてはいないのだ。
だがそれでも……きっと開斗は小説を書くだろう。他に類を見ない、眩く明るいバカの為に。
書籍情報が解禁しました。詳しくは作者Twitterまたは活動報告をご覧ください。
それからコミカライズします。




