始まる前:路地裏・終わった後:食堂
昼。安藤正は一仕事終えて、ノートPCの蓋を閉じる。刑事といえどもデスクワークは多い。特に最近は、書かなければならない報告書も多ければ、調べなければならない資料も多いものだから、ずっとPC前にカンヅメの日々である。
ふう、と息を吐きながら眉間を揉んでみるが、やはり、目の疲れは致し方が無い。年も年だし、そろそろ老眼鏡を導入すべきだろうか、と最近考え始めているが……わざわざ老眼鏡を買いに行くのも億劫で、未だに裸眼で生活しているが。
「……本当に悪魔に『永遠の若さ』を貰うのも悪くないのかもな」
苦笑しながら思い出すのは、数か月前……『悪魔のデスゲーム』へ潜入するために悪魔を呼び出した、あの時のことである。
安藤はあの日の夜、噂のあった路地裏で、『悪魔を呼び出す儀式』なるものを行っていた。
蝋燭にライターで火を灯し、『悪魔よ願いを叶えたまえ』と書いた紙片を蝋燭の火で炙って燃やす。
尚、この紙片を手に入れるのに少々苦労したのだが、それはそれだ。『苦労した甲斐があるといいが』と祈るような心地で、安藤は紙片を燃やし終え……燃え尽きる直前のその紙片から指を放すと、ふわり、と舞い上がった紙片は、空中で儚く燃え尽きて消える。
……そして。
「おやおや。また悪魔を呼ぶ人間が居るとはな」
目の前に居たのは、悪魔であった。
悪魔は一目見ただけで人間ではない何者かだと分かった。何せ、地面から少々浮いている。スリーピースのスーツを着込んでいるように見えるのだが、よくよく見るとジャケットやズボンの裾は時々揺らぎ、薄れたり渦巻いたりしている。まるで闇を無理矢理形にしているような、そんな印象を受けた。
そして何よりも特徴的なのはやはり、顔だろう。
確かにそこに、顔がある。だが、認識できない。よくよく見てみようとすると、闇の中にぽっかりと2つ、目玉の位置するあたりに光るものが見えるような、そんな顔が見えてきてしまうのだ。更にその頭から生え出る角のようなものもまた、明らかに人間のものではない。
……だが、そんな悪魔を前にして、安藤は思わず微笑んでいた。
「何がおかしい?」
悪魔は微笑んだ安藤を訝しんだのだろう。快と不快のどちらかといえば不快に近付いた雰囲気を感じ取りつつも、安藤は堂々と釈明する。
「いや……苦労した甲斐があった、と安堵していただけさ。本物の悪魔が来てくれてよかった」
そう。ここまで安藤は随分と苦労させられてきた。だからこそ、今、ここにこうして悪魔が居ることに安堵している。
……ようやく、『悪魔のデスゲーム』の尻尾を掴むことができそうなのだ。笑みを漏らさずにはいられない。
「苦労、か。まあ、人間が悪魔を呼び出す儀式など、調べ回らねば見つからないだろうな」
「ああ。やっとの思いで情報を掴んで、なんとか儀式にこぎつけた、というわけさ。実に苦労させられたよ。……特に、儀式に使う紙がな」
「……紙?」
安藤は、特に苦労した部分を振り返る。
周囲からの冷たい視線や生暖かい視線に耐えながら、なんとか掴み取った『儀式用の紙』。それは……。
「ああ。デカフェリストレットダブルエスプレッソエクストラモカシロップアーモンドミルクエクストラチョコチップエクストラホイップクリームエクストラチョコレートソースダークモカチップクリームフラペチーノのレシートだ」
……やたらと長い注文によって得られる、やたらと長いレシートであったのだ。
「……え?」
「これを覚えるのにどんなに苦労したことか。しかも注文したらしたで中々聞き取ってもらえなくてな」
「え?え?」
が、安藤の話を聞いても悪魔は喜んだり笑ったり同意したりするでもなく……ただ、戸惑っている様子であった。
「……ん?悪魔はデカフェリストレットダブルエスプレッソエクストラモカシロップアーモンドミルクエクストラチョコチップエクストラホイップクリームエクストラチョコレートソースダークモカチップクリームフラペチーノのレシートに『悪魔よ願いを叶えたまえ』と薄墨の筆ペンで書いて燃やすと現れるのではなかったのか?」
まさか、と思って聞いてみると、悪魔は非常に、そう、悪魔が非常に気まずそうな顔で、項垂れた!
「い、いや……紙は何でもいいのだが」
「なんと……」
……暫し、両者の間になんとも気まずい空気が流れた。
安藤が手に入れた情報はあくまでも体験談だったので、『可能な限り再現して可能性を高めよう』としていたのだ。結果として、安藤は慣れないスタバで慣れない注文をする羽目になり、大変な苦労をしていたのだが!
「……ペンも、何でもよかったのだが……あ、でも油性のボールペンはよくない。あれを燃やすとなんか嫌な臭いがする」
「そ、そうか……あ、ちなみに文言は?『たまえ』が駄目なら『給え』でもう一度挑戦しようと思っていたんだが」
「表記揺れは可としている。また、別の言語であってもまあ、我が読めれば可としている。ラテン語、エスペラント語、英語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、中国語、ロシア語、アラビア語、スウェーデン語くらいなら読めるぞ。フィンランド語とスワヒリ語は自信が無いが頑張ればまあ、なんとか……」
「そ、そうか。博学なんだな……」
「いや、それほどでも……」
……そのまま安藤も悪魔も、黙っていた。
なんとも気まずい時間が流れていった。
「ま、まあ……苦労を掛けたようだが、その甲斐はあった、と思って貰おうか。人間よ、お前は悪魔に願いを叶えさせるための挑戦権を得ることができるのだからな」
が、いつまでも気まずいままでいてはならない、と悪魔が気持ちを奮い立たせてくれたらしい。安藤は『助かった』と思いつつ、ひとまず頷いておいた。
「して、人間。お前は一体何を望む?己の命を懸けてでも叶えたい願いとは、何だ?」
「そうだな、まあ、永遠の若さでも頼もうか」
安藤が予め用意しておいた答えを笑いながら告げれば、悪魔は訝しむような表情を浮かべた。
「ほう?……お前のような人間が望むには、少々不自然な望みだが」
「そうかな?まあ、私くらいの齢になると、体の衰えを明確に感じ始めるものでね。まだまだ仕事をしていたいし、若さが手に入るならありがたいと思っているよ」
安藤は、『タダで貰えるなら本当に貰いたいものだが』とも思いつつ、真っ直ぐ悪魔を見つめ返す。
だが。
「……本当の願いは何だ?何の目的があって、悪魔を呼び出した?」
悪魔はやはり、安藤の裏に勘づいたらしい。ぞわり、とするような気配と底冷えするような冷気とを発しながら、ずるり、とその姿を変える。
……悪魔は今や、身長2mを越え、3mにも近づくかというほどになっていた。形を持った闇のような顔が、上から、覆い被さるように安藤を見下ろしてくる。
成程。確かにこれは、悪魔だ。
人間を甚振り、残虐に殺す……そういう存在なのだろう。
だが安藤は怯まない。
『永遠の若さ』を申し出る程度には齢を重ねた安藤は、重ねた齢の分だけの胆力をもまた、培ってきている。この程度の脅しに怯えるようでは、警察官は務まらない。
「悪魔のデスゲームに参加したい」
安藤は真正面からそう言って、悪魔を堂々と見上げたのだった。
「……ほう」
暫くそのままだったが、悪魔は1つ声を漏らすと、しゅるる、と縮んで元の大きさに戻る。『これはお許しが出たということかな』と、安藤は内心でほっとしていた。流石に、ここで志半ばのまま殺されるような目には遭いたくなかったので。
「成程な……面白い。お前のような人間を見るのは2人目だが……目的は異なるようだな。まあいい。お前のように高潔な魂を持つ人間が『悪魔のデスゲーム』でどのように歪むのか、大いに興味をそそられる」
安藤は『2人目?』と少々訝しみつつも、ひとまず悪魔の興味をひくことができた点についてはよしとすることにした。
そして。
「ならばお前を参加者として認めよう。……参加するがいい。『悪魔のデスゲーム』に」
悪魔はそう言って、にやりと笑った。
「精々、足掻いてみせてくれ」
……そうして気づけば、目の前から悪魔は消えていた。代わりに、安藤の手の中には日時だけ書かれた小さな札が握られていたのだ。
そして……後はそのまま、札の日時になった瞬間に安藤の意識は途切れ、例のデスゲーム会場に居た、という訳である。
「今思い返せば、あの時点であの悪魔は既に食堂のスタッフとしての適性があったように思えるなあ……」
……今や、『キューティーラブリーエンジェル建設社員食堂』のスタッフと化している、あの悪魔。初めて見た時には中々恐ろしいものだとも思ったが、レシートのくだりで気まずそうにしていたあの様子を思い返してみると、やはり、奴はなるべくして食堂のスタッフになっているように思えてならない。
そう。食堂だ。
「おっと、もういい時間だな。よし」
安藤はうきうきと、ホワイトボードの自分の名前の横に『昼食休憩』と書き記すと、いつも自分の警察手帳の間に挟んである青灰色の羽を取り出し、ふり、ふり、と振る。
そして。
「いらっしゃいませ!お好きな席へ……あっ!土屋さん!こんにちは!」
ふわり、とした浮遊感の直後、がやがやと喧騒に目を開ければもう、キューティーラブリーエンジェル建設社員食堂の入り口に立っていて、そして、湊芽衣子さんことミナの笑顔に出迎えられているのである。
「こんにちは。カウンター席は空いているかな」
「はい!まだ空いているはずですよ。どうぞどうぞ!」
……そうして、安藤改め『土屋』は、うきうきといつものカウンター席へ向かうのだ。
そう!最近の土屋の楽しみは、昼休憩の際にここへ来て、安くて美味しいランチメニューを楽しむことなのである!
そうして土屋は、『今日の日替わり、ラブリー盛りで』と注文し、無事に日替わりランチ……今日は『マグロの漬け丼定食』であったらしいそれにありつくことができたのであった。
「……おお、今日も美味いなあ」
一口、漬け丼を口に運んだ土屋は、思わず笑顔になってしまう。
ルビーのようにも見えるような透き通った赤身には、特製タレのサッパリとしながらもコクのある、甘辛い味がしっかり染みている。また、タレに漬けたことによって余分な水分が抜けた身はネットリと濃厚で、旨味もより一層増しているように感じられる。
これは美味い。土屋は笑顔で漬け丼定食を食べ進めていく。付け合わせになっているキャベツの漬物も中々いい。ショウガが効いたさっぱりとした味わいは、濃厚なマグロにもよく合うのだ。
……いつも、ここの社食の食事は美味い。先週は『肉!肉がまだ終わらない!食って消費しろ週間!』が開催されていたし、その前のいつだったかには、『牛乳を消費しろ!』というような日が続いていた。なんとも個性豊かな社員食堂である。
ひとまず空腹が落ち着いてきたところで、土屋はカウンターの向こう側……厨房の方を眺める。
土屋がいつもカウンター席に好んで座るのは、1人で利用することが多いからでもあり……この厨房の眺めを気に入っているからでもある。
……厨房の中では、ミナの先輩であるらしい天使や他数名の天使や天使じゃないの、そしてミナと……主催の悪魔もまた、元気に働いていた。
主催の悪魔は、もうすっかり食堂のスタッフと化している。悪魔が天使の社食で働いていていいのだろうか、という気もしないでもないのだが、何せここの天使達は非常に大らかだ。悪魔が居ようが人間が居ようが構わないらしい。
そして、そんな天使達の中に居ると、どうも、悪魔は毒気を抜かれてしまうようである。
「……この方がいいんだろうな」
今も、『美味かった!ごちそーさん!』と天使から厨房へ声が掛けられれば、主催の悪魔は幾分、嬉しそうな顔をしているように見える。
人間の魂より、マグロの漬け丼の方が美味いのかどうかは分からない。悪魔は魂を食わねば生きていけないということなら、漬け丼で生きていけというのはあまりに酷だろうということも分かっている。
だが……おやつ程度に人間の魂を嗜んでいた様子の悪魔であるから、こうして、厨房で忙しそうに働いている様子を見ていると、土屋としては、なんとなく嬉しいのだ。
デスゲームの未来の被害者のみならず、主催者までもが救われたというのなら、こんなに喜ばしいことは無い。
「あら、土屋さん来てたのね」
少しすると、隣の席に蛇原瞳ことビーナスがやってきて座った。ビーナスとはよく昼休憩の時間が被るので、食事に同席したりされたりすることも多い。一方、ヒバナは現場に出ているのであまり会えないのだが、会えるとぶっきらぼうながら挨拶してくれるので、土屋はそれも嬉しく思っている。
「今日は……あ、漬け丼なんだ。ふふふ、おいしそー」
「ああ。今日のも美味いよ」
ビーナスが『私も日替わり。キューティー盛りで!』と注文しているのを微笑ましく見守りつつ、土屋は『彼女も随分とのびやかになったものだ』と嬉しく思う。……ビーナスとヒバナが少しずつ健全で幸せな様子に変わっていくのを見るのが、最近の土屋の楽しみの1つだ。
「はい、お待たせしました!漬け丼キューティー盛り定食です!」
やがて、ビーナスの分の定食が運ばれてくると、ビーナスは歓声を上げて手を合わせ、『いただきまーす』と嬉しそうに食べ始めた。
「うふふふ、美味しいー!マグロ釣って来てくれたバカ君に感謝しなきゃね!」
「ああ、このマグロは樺島君がとってきたのか。成程なあ」
どうやら食堂の食材は、度々天使達が持ってくるものによって賄われているらしい。土屋の脳裏には、『とったどー!』と嬉しそうにマグロを担ぐ樺島剛の姿が思い浮かぶ。
が。
「ええ。そうなのよ。5mぐらいあるマグロでねー。ここでは定期的に誰かが釣ってきて、マグロパーティーしてたんですって。今年からは社員食堂で調理してもらう、ってことで、皆張り切っちゃったみたいで……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。……5m?マグロが?」
何やら聞き捨てならないことを聞いた気がして、土屋は思わず聞き返す。だが、ビーナスは無慈悲であった。
「ええ。そう。5mよ。5m。目玉マグロっていうんですって。人間の常識じゃ考えられないタイプのマグロよ」
5m。マグロが、5m。
人間の身長を遥かに超え……ついでに、主催の悪魔が伸びた時の大きさよりも更に大きいくらいの、マグロ。そんなものが実在するとは!確かに人間の常識では考えられない!そしてそもそも、天使に常識などあるのだろうか!
「目玉……?メバチマグロではなく?目玉マグロ、とは……?」
「あー、目玉がものすごく大きいの。で、特に赤身の部分がなんか視力回復にいいらしいわよ。これを2月か3月毎に誰かが釣ってきて、その度に皆で食べてるから、事務所の天使達、結構いい齢なのに細かい文字とか普通に読めてるのかもねー。私も昨日から眼精疲労とか全然無くって」
……土屋はビーナスの話を聞きつつ、カウンターの向こうで『よーし!ツナの仕込み始めるぞー!』と言いながら1m四方程度のマグロの肉らしいものを抱えてきた天使の姿を見て、益々、思うのだ。
ああ、ここは不思議なところだなあ、と……。
ついでに……もしかすると、『永遠の若さ』は悪魔になど願わなくても手に入ってしまうのかもしれない、とも思った。そう。天使の社員食堂でランチを食べていれば……。
尚、翌日の昼のメニューは『マグロの尻尾カツ定食』であった。マグロの尻尾の方の肉をサクッと揚げた代物だったのだが、生食するには硬く口に残って厄介な筋の部分が火を通したことによってトロリと濃厚なコラーゲン組織へと変貌を遂げ、なんとも後引く美味さであった。
そして更に翌日は、『目玉マグロを油煮にしてツナにしたぜ!ツナに醤油かけた奴、みんな好きだろ!好きなだけ食え!丼!』であった。ツナという概念を覆すかのような、ごろごろと大きなマグロの油煮が乗った丼は、シンプルながら非常に美味かった。
土屋はそれらを美味しく味わいながら、『老眼鏡を買うのはまだもう少し先でいいな……』と思うのだった。
おお、キューティーラブリーエンジェル建設、ああ、キューティーラブリーエンジェル建設……。
秋ぐらいに出すと言っていた書籍の詳細の発表ですが、年明け以降になります。遅れていて申し訳ない。
詳しくは活動報告をご覧ください。




