第四十七話 エピローグ
間抜けな表情をした桜は青空の下で縁側に座っていた。
心地いい風が彼の髪を撫でた。
目の前では多くの人が賑わっている。その中には見知った顔も多い。
ピンクのエプロンを付けた礼香は、野菜や肉を入れた鍋を相手に格闘していた。頭には三角頭巾をかぶっており衛生面にも気を使っている。目が真っ赤なのは先ほどまで大量の玉ねぎを切っていたからだろう。
そんな彼女の隣で、黄色のエプロンをつけた千里は大きな土鍋の様子をじっと見ている。いつにもなく、真剣な表情だ。
もみじは先ほどまで礼香と同じように料理を作っていたのだが、今は小さい子の面倒を見ている。この場にはもみじの妹や礼香の妹、それにもみじの道場に通う何人かの子供たち、またそれに付きそう親たちもいた。
桜の親はいなかったが、千里やもみじの母親はこの場でいる。礼香の料理を手伝っているのも奥様方だ。
「思ったより、大きなイベントになったね」
桜の隣に恵が座った。
手に持っていたコーラを桜へと手渡して、二人そろって蓋を開ける。炭酸の抜ける心地よい音が響いた。
「俺達が企画したことに爺が便乗したんだ。子供会の催しに丁度いいって。その代わりに肉や野菜の大部分は用意してくれたんだよ。俺達もバーベキューにありつける。まあ、何だっていいよ」
桜が言う爺とは、別のテーブルで中年男性たちと網を囲んでビールと肉を食べている老人の事である。既に髪の毛はないが、白く永い髭が貫録のある小さな老人だ。
もみじの実の祖父であり、桜の師匠の一人だ。周りにいる大人たちも見覚えがあり、道場によく来る大人たちである。
「こんなにゆっくりとした日が流れるなんて信じられないね」
恵はきんきんに冷えたコーラを飲んだ。
「……そうだな。特に久しぶりに飲むこのコーラはとてもうまい」
桜は手に持ったコーラをしみじみと飲んだ。
あの世界では決して飲めなかったものだ。
久しぶりに体に染み渡る炭酸は、元の世界に足を付けていることを思い出す。
既に――あれから数日が経っていた。
あの門をくぐった後、桜がたどり着いたのは何もない教室だった。自分たちが元居た場所だ。机も椅子すらもない教室だった。
異世界に旅だった時とは違い、日は既に落ちている。
どうやらあの異世界と、元の世界の時間は似通っているようだ。
「帰った……のか?」
桜は教室で立ち尽くしていた。
「そうよ。でも、私のおしりを蹴飛ばした事は忘れていないからっ!」
教室にいたのは四人である。
その一人がもみじであり、腰に手を当てながら桜の鼻先に指先を突き付けた。
怒っているような口調であるが、表情自体は穏やかだった。これまでにぴんと張っていた緊張感がほどかれたようだ。
「本当に元の世界に帰ってきたんだね。信じられないよ。眩しいからとても目が痛いな」
恵は窓の外に見える街頭や明かりのついたマンションに感動していた。
異世界の明かりと言えば、ランプや蝋燭であり白熱電球などは存在しなかった。また太陽がないのでとても暗く、日中でも明かりを焚いているのが常であった。
それなのに、この世界はなんと明るいことか。町中に光があるので、慣れていない恵の目にとっては鋭い棘の様であるが、その痛みがまた心地よかった。
「うわ! メールいっぱい来ていますよ。電話もです!」
自分のスマホの明かりによって、顔が明るく照らされた千里はスマホを見て驚いていた。
桜もポケットに入っているスマホを見てみると、数多くの着信履歴とメール、それに青プリのメッセージが山ほどあった。
「くっくっ、あたしの時代が来たし!」
そんな中、一人だけ怪しく笑っている者がいた。
礼香である。
肩を震わせながら嬉しそうにしている。元の世界に戻ってきた喜びもあるだろうが、それにしては喜び方が異常である。
元の世界に帰ってきたとしても、行方不明者として扱われるしかない。ひと時は時の人かも知れないが、時代が来たとまでは桜は思えなかった。
「どうかしたのかな、礼香さんは?」
だから恵も首を捻って不思議そうにしていた。
「頭をはたけば治るんじゃないの?」
あきれ顔をしていたのはもみじだ。腕をぶんぶんと振り回している。桜ももみじの平手を味わったことがあるが、あれは中々に痛い。
「礼香さん、あたしの時代って、どういう事でしょうか?」
千里は素直に尋ねてみると、礼香はあくどい笑みを浮かべながら自信満々に胸を張っていた。
「考えてみればいいわ! あたし達はあの世界で散々な目にあったわ。けったいな儀式をさせられて、いつ襲われるか分からない恐怖に怯え、口に合わない食事を勧められて、汚い寮に押し付けられた! あたしはあんな恐ろしい世界から一刻も早く逃げ出したかったけど、一つだけいい事があったのよ」
「いつ襲われるか分からなかったのは、礼香が指輪を盗んだからでしょ? 自業自得じゃない」
ため息を吐きながら言ったもみじの言葉は、残念ながら礼香の耳には届いていなかった。
「で、いい事って何ですか?」
千里がわくわくとしながら言った。
「簡単じゃない。――魔術よ」
「魔術?」
桜は思わず聞き返してしまった。
「そうよ! あたしたちは魔術を使えるようになったわ。これを使えばテレビやラジオに引っ張りだこ、あたしはすぐに大金持ちよ! これは夢が広がるわ。異世界に行って、一番良かったことよ!」
「あ、本当ですね。それに気づくなんて礼香さん、凄いです!」
「そうでしょう。そうでしょう! あたしってこういう知恵だけは回るのよねー」
心から褒める千里と、それに気をよくする礼香だった。
能天気に笑っている二人に、残りの三人は深いため息をついた。桜、もみじ、恵は三人で顔を合わせると、もみじは桜に顎で合図し、恵は自分には荷が重たいと肩をすくめた。
仕方がないので桜は重たい口を開いた。
「これは一つの提案だけど――」
「何よ?」
「異世界であったことは――全て隠す、というのはどうだ?」
「何故よ? 信じられないわ。あたしたちは凄く貴重な事を経験したのよ。それを皆に公表すべきよ。隠すなんてありえないわ!」
信じられない、と礼香は頭から否定した。
そういう反応が来ると思っていた桜は驚きもせず、彼女を説得するのが面倒だ、と思っていたが、もみじと恵の目が厳しいので桜は言葉を続ける。
「……公表してどうなる?」
「皆に知ってもらうのよ。違う世界があるって!」
「で?」
「で、って皆知りたいでしょ? 魔術なんて夢のようなものがあるって知ったら、皆驚くじゃない」
「そうかもな。でも、その結果、どうなるか考えたのか?」
「えっ、あたしが人気者になるの! それ以外に何があるのよ?」
「魔術を知りたがっている人は数多くいるだろう?」
「そうよ!」
礼香は力強く言った。
「その中にマッドサイエンティストや大金持ち、どこかの国の軍部、そういったものに目を付けられる、ってことは考えなかったのか? その危険性について考えた事はないのか?」
桜は優しく礼香に説明をする。
桜が知る中で、地球上に魔術と言う現象は存在しない。あるのは幻想の世界だけだ。あの世界で学んだ多くの魔術は、使いようによっては大きな兵器となるだろう。
現代兵器の常識が通用しない魔術は、大きな力となることは間違いない。
危険な者達に目を付けられれば、魔術師はどんな目に会うだろうか。最悪の事を考えれば幾つも想像がつく。
脳波を調べたり、能力の限界を探られるだけならいい。
だが、きっとそれではないだろう。
危険な目にあうのは間違いない。
命を狙われることだってあるかもしれない。
「なら、全世界に向けて一斉に使い方を公表するわ。それでどう? 全ての情報が公開されれば、あたしは第一人者になるだけ。そうなれば普遍的な技術になるから、あたしだけが命を狙われることはないわ。使える皆が狙われることになる」
「他の人が魔術を覚えられるとでも?」
「覚えられないって言うの?」
「現に――俺は魔術を使えない」
桜は堂々と言った。
「えっ、そうなんですか?」
そう言ったのは礼香ではなく、千里であった。
非常に驚いた顔つきをしている。
「原因は簡単だ。俺はあいつらの言う儀式をしなかった。どれが魔術に必要なものかは分からないけど、一つもしなかったらこうなった。魔術を覚えようとしたけど、どうにも魔術を使う感覚が分からない」
きっと儀式を行わなければ、初歩の魔術を使うことさえ難しいのだろう。
だが、この世界の人々はきっと魔術を知ろうと躍起になる筈だ。しかしながら、それを自分たちは教えられない。魔術には特殊な道具を用いた“儀式”が必要だからだ。しかし、どれらもこの世界においては再現不可能なものばかりである。
それを知ろうとして、どんな光景に出会うだろうか。
例えば監禁。尋問や拷問。人体実験。人体の解剖。はたまた血族なら魔術が使えるかも、という想像から子を産まされるかも知れないし、親や兄弟、親戚が狙われるかも知れない。まるでモルモットのような扱いである。
もし魔術の事が解明できれば、他の者に手が渡らないように始末される恐れさえある。
魔術とは、そういう技術だ。
「……」
桜の話に礼香は一言も発することは出来なかった。
「かつて中世では魔女狩りが流行った。怪しげな力を持つ人を制裁する事だ。聞いたことぐらいはあるだろう? 人は異常な力を持つ者に対する反応は、過去の歴史が教えてくれる。礼香もその犠牲になる気か? いや、その前に礼香の家族が犠牲になりそうだな」
「……」
礼香は頭の中で様々な考えが浮かんでは消えていった。
魔術を使って金を稼ぐことしか考えていなかったが、その危険性について考えると震えが現れる。
大切な家族の事も思うと、お金の為に彼らを犠牲には出来なかった。
「分かったわよ! 誰にも言わなかったらいいんでしょ! 言わなかったら! あんた達と一緒にするわよ!」
「それは助かる――」
桜は素直にお礼を言った。
「あのー、桜さん、これから私たちはどうなるんでしょうか?」
桜と玲子の話が一段落したので、手を挙げた千里が興味本位で聞いた。
「大人たちに騒がれるだろうさ。ここに来てから随分と時間が経っている。スマホで日時を確認してみたけど、異世界にいる間に経った時間とそう違いはなかった。急に消えた俺達が帰ってくるんだ。普通に考えたら驚かれるさ」
「そうですか。それで私たちはどうしたらいいでしょうか?」
「さっきの礼香の話と一緒だよ。何も知らなかったことにする。異世界も、魔術も、な。記憶を丸々失っていたと言えばいい。幸いにもここにいるもみじと恵は、それなりに大きな家だ。そう悪い扱いにはならないだろう」
「なるほど! 分かりました」
何も知らなかった一環として、桜は五人が持っているスマホの中に入っている異世界のデータを全て消すことにした。
写真や動画はもちろん、部屋の中で会話した全てのデータも。
礼香は大切な思い出と最後まで消すのを縛っていたが、もみじが強引にスマホを奪って全部消していた。全てのデータを消した時、もみじは思い出したように桜へと尋ねる。
「そう言えば、あの指輪はどうしたの?」
もみじが気になったのはプライズだった。
あの世界にいた時、もみじが最後に見た桜の姿では左手の薬指に金と銀の指輪をつけていたが、今は付けていなかった。
「指輪なら、扉をくぐった時に消えたよ。理由は分からないけどな。だけど、ゾラ達には渡していないのは確かだ」
桜は不思議そうに頭をかいていた。
「そう。なら、いいわ。これから先、私たちのような犠牲者が生まれないという事だから」
もみじは納得したように頷いた。
桜達はそれから気を失ったことにして、翌朝、用務員に見つかってすぐに学校の先生たちに保護された。それから警察に呼ばれて、病院に連れていかれ健康状態を調べられた。また警察や周りの大人たちから事情を聞かれたが、五人は「知らない」との言い分で押し通した。
その日は家に帰ると、桜の家ではささやかだったが両親からはとても喜ばれ、ささやかなお祝いがあった。数週間ぶりに食べる母が作った料理はとても美味しかった。ただ気になったのは、両親の顔が以前よりも老けて見える事だった。
きっと自分がいなくなったことで苦労をかけたのだろうと思うと、申し訳ない気持ちに桜はなったが、自分が戻ってきたことで少しずつ元気を取り戻しているようなので気にしない事にした。
それから数日は学校に行くこともなく、五人は警察などに日夜事情を聞かれる事となった。
その際に五人は顔を合わせる事が多く、親を交えて先生たちとも今後について話をすることが多かった。主に学校についてだ。これは桜が親から聞いた事だが、クラスメイトの失踪事件は大きなニュースになっているらしく、現代の神隠し事件とも呼ばれているようだ。
帰ってきた桜達にもマスコミが押し寄せようとしていたらしいが、もみじの実家や恵の実家の力もあり、また未成年と言う事もあって実名を公表されることはなく、また直接マスコミにマイクを向けられることもなかった。
問題があるとすれば、桜達以外のクラスメイトの両親が事情を聴きに来たことだった。多数押し寄せた事もあった。
彼らはいずれもやつれた表情をしながら、「私の子どもについて何か知らないか?」と言ったことを聞いてくる。
きっと大切な息子や娘の情報が欲しいのだろう。些細な手がかりだけでもいい、と多くの親たちが言っていた。
あの世界に残ったクラスメイト達は、疲れ切った両親の顔を知っているのだろうか。どれだけ自分が愛されているか、大切に思われていたか、知っていたのだろうか、とも思いも生まれてくるが、桜はそんな親たちに何も言えなかった。
「全く記憶がないのです」
この言葉を聞くと、落胆したように彼らは去って行く。
中には胸倉をつかむ親もいたが、「申し訳ございません」と頭を下げると彼らは落胆したように去って行った。
それから数日が経ち、警察から呼び出されることもなくなったため、この世界に来てからの数日で仲良く“なった”とされる五人はカレーパーティーをすることになったのだ。学校は依然と変わらず休学中であり、大変な日々を乗り越えたという事を共に分かち合おう、という会だ。
それに大人たちが便乗し、こういうパーティーになっている。
桜達にとっては、激動の日が終わり、心休める時であった。
「でも、大変だったね」
恵は疲れきった様子で言った。
その言葉はこの数日だけではなく、異世界にいた時の事も含まれているのだろう。
「そうだな」
「一つ、桜に言っておくよ。君のおかげで僕は助かった。君がいなければ、きっと僕はここにいないかも知れないから」
恵の小さな声で言ったことは周りの大人たちには聞かれていない。
桜はそんな言葉を受けて目を点にしていた。そしてふん、と笑ってから桜は言った。
「何を言っているんだよ。俺のほうこそ、恵がいなければ帰ろうとも思わなかった。俺の方こそ助かっているよ」
「そうかい。でも、感謝しているのは本当なんだ」
「それは俺もだ。ついでに言えば、あの三人にも感謝はしているさ。一人だけじゃあ、きっと無理だった」
桜はそれぞれ働いているもみじ、千里、礼香の三人を見た。
彼女たちもいなければ、きっとこの場に自分はいなかっただろう。
もみじがいなければ、指輪が盗まれた時に名探偵を活かして屋敷を探索する、という選択肢はなかっただろう。あの時の彼女の一言がなければ、クラスメイト達と儀式を行って地下室にある真実も見つけられなかっただろう。
東雲がいなければ元の世界に行く方法を探す、という選択肢自体がなかったかもしれない。よくある話だと決めつけ、魔王を倒せば元の世界に帰れる、という妄想を信じたままだったのかも知れない。
千里がいなければ城内で迷って捕まっていたかも知れない。今思えば寮で指輪を使って変える事も出来たが、あの時は場所も条件の一つだと思っていた。
礼香がいなければそもそも指輪は手に入っていない。ゾラから奪う手立ても思いつかない。事前に指輪を盗むことを企めば、きっとゾラに見つかると思うから。
「……そうかも知れないね」
恵も温かい目で、三人を見つめていた。
二人はコーラを一口飲むと、どちらからでもなくお礼の意味も込めて拳をぶつけあった。
それは信頼と友好の証であった。この場には多くの大人たちがいるので多くを語れないからこそ、二人は行動で友情を確かめ合った。
「御飯が焚けました!」
そんな事をしていると、千里が額に汗をかきながら大きな声で言った。
「あたしの方もカレーが出来たわ!」
礼香もカレーが出来上がったみたいだ。
桜はそんな二人を見てから立ち上がって、大きな声で言った。
「よし! これを提案したのは俺だ! 最初にカレーを食うのは俺だぞ!」
「桜、もう高校生なんだからちょっとは落ち着きなさいよ」
大人げない桜に、遠くで小学生の相手をしているもみじはぼそりと呟いたのだった。
◆◆◆
その日の夜の事だった。
桜は自室にいた。シンプルな部屋だ。物が少ないのだ。本棚、勉強机だけが置かれ、押し入れの中に服などがしまってある。部屋の隅には漫画やかばんなどが置かれており、畳の上に布団をしいて眠るのだ。眠りなれた布団に横になると、懐かしい思いに浸り、すぐにでも目を瞑って眠りそうにもなる。
既に明かりは消している。
暗闇の中で桜は一人だった。
ふと起き上がると、桜は圧しれを開けて箪笥の奥底に隠していた――金と銀の指輪を取り出した。
あの時、もみじにこの指輪を聞かれた時になくなった、と言ったが、実はなくしていなかった。左手をポケットに入れて瞬時に指輪を外し、まるで使って無くなったかのように演出したのだ。
どうしてあの時にそんなことをしたのかは分からない。
一刻も早く指輪を外したかったのかも知れない。
もみじ達に隠した理由も、桜は口では説明できなかった。
桜はもう一度布団へと横になると、指輪を手で弄びながら、最後のゾラの言葉を思い出した
ずっと気になっていた事だからだ。
――知っているのですか? あなた達はその指輪の力でこの世界へとやってきました。だからその指輪を失えば。
そこから先の言葉は聞いていない。
だが、予想するのは簡単だった。
「――あなた達以外は帰れない、か」
桜は暗闇の中で呟いた。
自分も含めたクラスメイト達はこの指輪で異世界に行くことが出来たのだから、元の世界に帰るためにも必要である。それを奪ったのだから、あの世界にいるクラスメイトはきっと、永遠をあの世界で生きるのだろう。
例えば秋山は今あの可愛らしい女性の奴隷たちと幸せに異世界生活を送っているのだろう、と桜は考えている。彼らの為に首輪を外す方法を教えたのだ。もしかしたら奴隷解放で国としては問題が起こっているのかも知れないが、秋山が幸せならゾラ達の国の人の事なんてどうでもいいとさえ桜は思っていた。
もしこの指輪を使えば、気味の悪いほどの美貌を持った異世界人に囲まれながらあの世界で暮らしている彼らと簡単に会う事ができる。
しかし、不思議と桜は彼らをもう一度助ける気にはなれなかった。彼らを救う事を彼らの両親や親せき、友人などはそれを望んでいるとしても、桜の判断は変わらなかった。
彼らはあの世界に残ることを選んだのだ。
そして、儀式を続ける事を選んだ。
あの儀式について、詳しい事を桜は知らない。門の事を教えてくれた日記の主は、あの儀式については、おぞましいもの、としか書いておらず具体的な事は何一つ書かれていなかった。
続けたらどうなるかも桜は分からない。仲間の皆は儀式を途中で止めており、魔術を使う事は出来るが、残りの儀式を行う事ができないからだ。これから先、どんな悪影響が出るのかも桜には分からない。
だが、なんとなく、予想はついている。
もう一つの日記には、恐ろしい化け物が王城を囲む塀の先にいると言っていた。そして日記の持ち主はゾラ達に薦められるがままに全ての儀式を戸惑うことなく行っていた。そして日記の最後には同じような姿がガラスの外にいたとも書いてあった。
桜は思うのだ。
もうそんなまともな思考回路すらもないほど、あの持ち主が儀式に汚染されているとして、体が緑色になっていたことも考えると、答えは一つしかないのではないか、と。
もしかしてガラスの外にいたのは、ヴィランなどではなく窓ガラスに映った自分の姿だとしたら――
「いや、これ以上は考えても無駄だな」
桜は途中で思考を止めた。
彼らの行く末など気にしても仕方がない。指輪を使えば自分ではなくてもクラスメイト達を確かめる方法はあるが、どうしても桜にはその気になれないからだ。
もし指輪の事を警察に話した場合の行く末が、簡単に想像出来るからだ。
すぐに指輪は取り上げられるだろう。その途中で誰かがくすねるかもしれない。権力者が取り上げるかも知れない。あらゆる空間を超えるこの指輪の使い道は無限大であり、悪い方法を考えれば無数にできるだろう。欲しがる人は大勢いて、指輪を中心に争いが起きて、世界は混沌に落ちるかも知れない。
また、この指輪を使って、クラスメイトを助ける部隊が作られたとしても、うまく行くとは限らない。
例え銃などの近代兵器を持っていたとしても、彼らには魔術がある。また知能もある。銃が奪われれば逆に使われる可能性もあるし、ゾラの相手を眠らせる魔術は強力だ。他にも多くの魔術があり、少ない人数しか通れない門の性質上、そううまくはいかないだろう。
非常に美しい彼らの事だ。篭絡される者も多いだろう。
だからきっと、この指輪は誰の手にも渡さずに自分が封印するのが一番なのだろう、と思った。
指輪を“二度”も使った桜だからこそ、この危険性がよく分かり、二度と使いたくないとさえ思うのだ。
だから四人の仲間にも言わなかったのかも知れない。もし恵たちがこの指輪があることが分かれば、今後この指輪に頼る可能性がある。どうしてそれを避けたかった。この指輪は非常に便利で有能であるが、それ以上に危険な代物なのだ。
桜は決して指にはめず、望遠鏡のように金と銀の指輪を通して眺めた。
指輪の内側から見える向こうの暗闇が、歪んでいるように見えて、また煌びやかに輝いた光景があるかのように。
そこは世界の深淵であり、果てしない場所だ。空間の概念すらなく、時間が途絶えている。零であり、無限の存在領域。夢や空想、などでは計り知れない場所であり、人が知覚することはおろか、考えるにさえ至ることはできないだろう。
そこに存在するのは、一にして全てであり、全てであって一だ。
現れては消えていく泡に等しい球体物の集合体であり、その色は指輪と同じ色である金と銀の――
「――ふん、ばかばかしい」
桜は自分の見えたものがいかに浅薄皮相で、愚かなものだと思いながら指輪を握りしめた。
門を創造させていない指輪に、特殊な力などあるわけがない。
もう一度桜は指輪の中を通してみてみるが、先ほどの空間は見えない。あるのは電気の消えた照明だけだ。
きっと先ほどの光景は妄想だろう、と桜は思いこむようにした。クラスメイト達を見捨てたというストレスが与えたものだと。
そして、そんな妄想に至るこの指輪は決して他の者が見つけられない場所に処分しなければ、と桜はもう一度強く決意した。
【了】




