第44話 アルアージェ建国記念祭〜友鳴きの空〜
鼻先から吹き出した呼気が冷たい空気に触れて白く濁る。
パドックを歩いた時はそこまででもなかったが、さすがに上空は気候変化に耐性がある飛竜でも寒い。
あるいは人がひしめいていたパドックは群衆の熱気で気温が上がっていたのだろうか。
離陸ゲートが設置された浮島へ向かう最中、翼をはためかせながら本日飛ぶ予定の空を観察する。
復帰初戦の空模様は残念ながら快晴ではなかった。
冬空に蔓延る鈍色の雲は、昨夜の内に蓄えていた雨を吐き出した影響か、だいぶ薄っぺらになっている。
平べったく伸びた雲の向こう側に透け出す赤は、覆い隠された夕日の色だろうか。
雪や雨が降りそうな気配はない。
空模様の確認をしていると視界の端に、近付いてきた浮島の様子が飛び込んできた。
一面の枯れ草色。春先のレース時、瑞々しい新緑と小さな花が揺れていたのとは様変わりしている。
次の春を待ち侘びて眠る、短く枯れた芝生を巻き上げて着地する。
昨夜の雨露が残る芝は冷たい。
脚先から這い上る冷気に大きく身震いをすると、背後から首と頭の境を撫でられた。
布を介さない素肌のあたたかな感触と温度。舵取りと繊細な魔力操作のために、あえて手袋を着けていない手だ。
「飛竜でも日暮の空はちっとばかし寒いよな」
そういう人間たちこそ冬の上空は寒いんじゃないか。
そんなことを考えながら鞍上のシークエスに大丈夫という意思表示で、手のひらへと軽く頭を押し付ける。
首をのけぞらせてシークエスの手のひらをぐいぐい押していると、浮島の中心に聳え立つ、階段のように積み重なったゲートを見上げるかたちになった。
大外枠である一番てっぺん……の、一枠下。そこが今日のジブンの入るゲートだ。
全16頭の中の15番。ここまで外枠なのはレースで飛ぶようになってから初めてじゃないか?
周囲には既に到着していた他の競飛竜達がゲート入りの順番を待っている。
パドックでは一部テンションが上がった飛竜もいたが———ミュゼを見つけて思わずはしゃいだジブンも含め———スタート前のこの段階においては、どの飛竜もある程度落ち着いている。
16頭中13頭は歳上の古竜と呼ばれる飛竜達。
若竜と呼ばれる3歳飛竜はジブンを含め3頭しかいない。
一頭はアルアージェ・ベーリーなる3歳牡竜限定のG1を勝った牡竜。
そしてもう一頭が、あのカイセイルメイだ。
カイセイルメイ。雪のように真っ白な鱗の競飛竜。
彼女の枠順は11番。ジブンより内側だが、全体で見るとやや外枠寄りか。
真っ白な鱗は目立つ。
パドックに出てすぐ、先に周回の輪に加わっていたのを見つけたが、向こうはジブンの存在に気付いていなかった。
遠目に見た姿は相変わらず小さかった。けれどあの飛竜はジブンが飛ぶことの叶わなかった牝竜三冠の最後、ラジアータ賞を圧勝したと聞く。
彼女のことを考えると胸がざわついて落ち着かない気持ちにさせられた。
だからパドックではあまり視界に入れないように歩いていたし、ゲート入りを待つあいだもカイセイルメイの姿はあえて探さなかった。
そういえば怪我をしたケルクスの時もそうだったな。
あの時は悪夢から目を逸らしたくて、悪夢の片鱗である白い影を視界に入れたくなくて、唯一逃げ込めるゲートに早く入りたいと思っていた。
今だってレース場に来てから、ケルクスで最後に見上げた白い影が嫌でもチラついている。
勝ちを譲られた屈辱は生々しく記憶に刻まれ、悪夢として重なった人間時代最後の記憶も消えてはいない。
———だけど今は、あの時とは違う。
違う気持ちで飛べる。そう信じている。
育ての親のミュゼが、応援にかけつけてくれた。
ジブンを購入し、この場に連れて来た竜主のアオノ氏も観戦している。
トトー先生にアルルアちゃん、竜舎のみんなが見送ってくれた。
パドックでおかえり、がんばれと声をかけてくれた観客たち。
夢の中で出会った前世と前々世の彼らも……きっとジブンの中から見ていてくれる。
そして背中には、文字通り背中を任せるシークエス。
ケルクスの時のジブンが顧みなかった大事なものたち。
どれひとつとして欠ける事なく、この胸の中に在るのか、目を閉じて確かめる。
たくさんの人達の顔を思い浮かべる。
そして最後に、ミュゼの涙を想う。
ミュゼとシークエスのやりとりを想う。
あの日、夕日に焼けたレースで身を焦がした激しい焦燥は今はない。
この胸に今、宿っているのは大切なものを糧に燃える、小さなともしび。
吹けば消えるような、胸の奥の小さな火に誓う。
もう独りでは、飛ばない。
たくさんの人が支えてくれているこの翼で。
今のジブン達ができる最高の『競竜』をする。
———そして、この場にいる他の15頭全てに勝つんだ。
決意と共に入った久しぶりのゲートは、飛竜からするとやっぱり窮屈で、四方の壁が迫ってくるような閉塞感があった。
この狭い箱から早く飛び出したいと訴える飛竜の本能を払うように翼を軽く振るう。
足元からは他の飛竜の息遣い、金属製の檻を尻尾が叩く音が不規則に重なり、聞こえてくる。
雑音の中、聴覚器官を澄ます。
いま最後の飛竜がゲートに入り、扉が閉じた。
ゲート周辺を魔法で飛び交っていた誘導係の人達が、蜘蛛の子を散らすように離れていく。
四肢に力を込めた。後脚の爪が地面に食い込む。尻尾の先まで緊張が走る。
心臓がドクドクと早鐘を打つ。視界がゲート出口だけをフォーカスするようにぎゅっと狭まった。
いつだって行ける。
ジブンの気概に答えるように、シークエスの重心が前に動いた。
次いで、聴覚器官が痛くなるほどの静寂。
——————くる!
『ガシャンッ!!』
開けた世界へと飛び出す。地面を蹴り上げ、助走をつけて翼を広げ、空へ!
眼下で同じように飛び出した競飛竜を捉えながら、鞍上から指示された通りコースの内へ内へと進路を取る。
外枠だから竜群に包まれる心配はないが、代わりに他の飛竜より多く距離を飛ばなければいけない。
大きく息を吸い込んで翼を振るう。
大外の枠から飛び出したジブンは殆どの飛竜の上を取れている。眼下で隊列を作り始めたライバル達の様子を伺う。
先団を引っ張るのはゲートをぽんと飛び出した赤い飛竜だ。すぐ後ろに距離を開けず、差を広げさせないとばかりにぴったり一頭の飛竜が張り付いている。
更にもう1頭の飛竜が追って———いや、2頭目がきた。
『うわぁぁぁん……!』
大気を震わす力強い羽ばたき。
凄まじい魔力流を生み出しながら先団に急接近する飛竜がいる。
竜群の外を周って先団に食らいついたのは純白の飛竜、カイセイルメイだ。
先頭から4番手といった位置を確保している。
対してジブンは、ひしめきあいながら竜群を形跡する中団に上空から蓋をするように加わった。
目の前には13番の飛竜。その後ろにぴったりと張り付くポジションに収まる。
下を飛ぶ飛竜が上へ抜け出そうとするのを牽制しつつ、カイセイルメイや先団の動向を確認しやすい良い位置だ。
*****
『全頭枠入り完了しまして——————今年最後のG1アルアージェ建国記念祭、スタートしました!
まずまず揃ったスタートですが、二冠牝竜11番カイセイルメイ出遅れたか。
そして同じ冠名、先の五大大陸祭2着カイセイエーガは少し位置を下げました。
先頭争いは……行った!やはり行きましたマデロゥ!
5番ルベールダンも出していくが、1番マデロゥ譲らないか?
半竜身後ろにルトゥールレイン———おっと、ここでカヤトー騎手、カイセイルメイを押して押して4番手まで上がってきた!
2竜身あけてロボロ。
竜群の上を取って、先頭から6頭目の位置に今年アルアージェ・ベーリーを勝った13番リトルオーバジーン。
これが怪我からの復帰戦となるアオノハーレーはその後ろ——————』
*****
目の前で暗紫色の鱗に覆われた尾が揺れた。
視界いっぱいに映る、風を切って進む大きな体躯をした競飛竜。
身体の大きい飛竜を前に置くことで風避けを作りつつ、体力を温存できている。
こちとら休養明け久々のレース。調教は真面目にやってきたものの、本番でうまく飛べるか不安はあった。
シークエスの指示通り、冷静にポジションを取りに行けたことにひとまず安堵。
呼吸を整えて周辺状況を確認する。
竜舎や調教の際に漏れ聞こえた人間たちの話から察すると、このレースは今までのG1とは違うらしい。
人気の競飛竜に優先出走権があるんだと。人気ってことは、どの飛竜もレースでそれなりの功績を残しているんだろうな。G1を複数勝っているのも当然いるんだろう。
つまり、このレースに出ている競飛竜は今までジブンが競ってきた飛竜と比べてレベルが高い。
そんな猛者達相手に一個G1を勝ったとはいえ———しかもそれは譲られた勝利でしかない———ジブンが競えるのか。不安はある。
だけど先生は言ってくれた。
『お前ならそいつらにだって勝てる』って。
だからジブンが何をおいても警戒すべき相手は、カイセイルメイと、もう一頭だけだ。
カイセイルメイは今日もスタート直後にまくって先行勢に食らいついていった。
ケルクスの時よろしく馬鹿げたスタミナで早めに勝負をしかけるつもりなのだろう。
全体の流れはどうか。
最初のコーナーをカーブするのに合わせて竜群全体を見渡す。
まず追いかけている体感として。先頭の赤い飛竜はかなり飛ばしている。
だが遥か彼方までぶっちぎる大逃げにはなっていない。後ろとの距離はせいぜい2竜身くらいか。
これは2番手の飛竜、ひいては先行組の追いかけるスピードも、それなりに速いということ。
その影響で竜群全体のスピードはケルクスより速いだろう。
これだけ速いペースなら逃げる飛竜は途中でバテそうだな。
それについて行っている先行組も余力を残せるか怪しい。
プラス、ヒビア競竜場のコースは今まで飛んできたツェツェールとクロトーワ競竜場に比べて、一番最終直線が長い。
つまりジブンみたいな差しや追い込みを狙う飛竜が有利なんだと思う。
……普通ならね。
———でもお前は、普通じゃないだろう?
前方のやや低い位置を飛ぶ白い背中に、心の中で投げかける。
この身体になって、他竜と競い飛ぶのを繰り返すうちに確信したことがある。
飛竜の速さは生み出す魔力量に比例する。
だからそいつがどれだけ速く飛べるかは、一緒に飛べばなんとなく察しがつく。
中には競竜を理解していなかったり、真面目に飛ばず『素質』に対して結果が伴わない飛竜もいたが。
『生まれ持った才能』がどれほどなのかは、飛竜であるジブンの目にはしっかり視えている。
一番先をゆく赤い飛竜や、前後左右を飛ぶどの飛竜も生み出す魔力は強く速い。
このレースを飛ぶ飛竜はみな華々しい戦歴と、それに見合う実力を持つものばかりだということは全体を見渡した時に確信した。
しかし。その中にあってもなお比べものにならない魔力の流れ。
生まれ持ったスペックが一頭だけ明らかに違うのがカイセイルメイという飛竜だ。
空を揺らすほどの魔力を延々生み出し続ける心臓と、それを送り出せる翼を持って生まれた化け物。
化け物は生まれ持ったスペックで、この不利な状況すらねじ伏せるだろう。
対してジブンは、魔力流を調整して飛ぶ器用さと魔力量こそ鍛えられてきたものの、素のスペックだけで言えば平凡。カイセイルメイには遠く及ばない。
在るのは人間や競走馬の頃の記憶と知識。そうして編み出したロケット加速だけ。
勝てるのか、ジブンが。
その問いは常に心の中にある。
だからこそ願う。勝ちたい。過去をただ失敗した結果として終わらせたくない。こんなジブンを信じ支えてくれる人たちに応えたい。
何より過去をこえて、自分自身のために、勝ちたい。
———勝つんだ。
決意を固め、第3コーナーに入ろうかというところで、状況が動いた。
それまで竜群の中で埋伏する状況を選んでいたシークエスが、前を飛ぶ紫の競飛竜の影から抜け出すよう舵を切ったのだ。
応えて進路を外へと持ち出すと、竜鞭を使って合図を出してきた。
魔力充填の合図だ。
外に向けていた意識を己の内側、翼の中を流れる魔力に集中する。
意識の端っこで、骨折を治してくれた黒いマントの、優しくて哀しい目をしたお爺ちゃんを想う。
あの人が自分の前でしたように、魔力の流れを意識して変える。
翼から流れ出る魔力。絶えず流れる大きな川に手を加えて流れを分け、小さい支流を作り出すイメージ。その支流の一つを留める。
この新しい方法を編み出した事で、以前のロケット加速にあった弱点のひとつ、加速前の予備動作だった減速が格段に減った。
翼全体の魔力流を堰き止めていたのを、一部に限定したからだ。
大幅な減速がなくなったから傍目から見て「これから加速するぞ」ってわかる変化は少ないはず。
これが新しく編み出したロケット加速・改!
しかもシークエスがタイミングを測ったのだろう、予備動作の減速とコーナーでの減速がうまく重なったおかげでデメリットをほぼ帳消しにできた。
いいぞ、いける!
『———うわぁぁぁん!』
その時、前方の空で覚えのある魔力流が一際強くうねった。
見ればカイセイルメイがケルクスの時のように、徐々に加速していく。
するすると他竜を置き去りに先頭に迫る。
その加速に気を取られたのは騎手か、飛竜か。
先頭から3頭目の飛竜が引っ張られるようにペースを乱した。無理やりにカイセイルメイについて行こうとしている。
……だが無理だ。
遠目でもはっきり差が視える。
カイセイルメイの生み出す魔力流の強さ、羽ばたきの力強さと優雅さ。
対して追い縋ろうとしている飛竜の羽ばたきは、水面に落ちてもがく羽虫のようだ。
自分のペースを崩したあの飛竜は沈む。 ……いつかのジブンと同じように。
競りかけて負けた飛竜に目もくれず、カイセイルメイは瞬く間に逃げていた飛竜に並びかける。
先頭の赤い競飛竜には、迫る白い影から逃げられるだけの力が残っていない。
足掻くこともできず捉えられ、交わされた。
カイセイルメイが先頭に躍り出たのを見たシークエスが、今だとばかりに竜鞭を振り上げた。
16頭中15番目という大外枠からスタートしたことで竜群の上を取れた。おかげで道はできている。真っ直ぐ飛び出すのは容易だ。
緊張が走る。
ヒュンと短い風切り音。
次いで鱗の上で魔力が弾ける衝撃。
大きく息を吸って腹の奥底に力を込める。
堰き止めた流れを解き放つ。
身体を押し付けるような負荷。
大気が悲鳴を上げる。
どちらも食い破り———進む!!
ロケット加速・改には今までと違う点がもう一つある。
翼全体の負荷を減らすため、魔力の噴射箇所を絞ったことによって力が一点に集中し、放出する魔力量は減りつつも推進力が増したのだ。
これぞ省エネと機能向上の両立、思わぬ副産物だ!
『キイィィィィィンッ!!』
真横に広げた翼から空を裂く甲高い音が伸びる。
真っ直ぐ貫く速さで先団へと迫り……1頭、2頭、3頭、4頭……交わした! 残るはカイセイルメイのみ!
眼下に白い背中が近付く。ジブンの翼から生まれる魔力流の、耳を劈く高音が聞こえたのか。カイセイルメイの背に跨る騎手が振り仰いだ。
接近するこちらを確認すると浅黒い顔を顰め、竜鞭を振り上げる。
騎手の鼓舞に応えを返すように、カイセイルメイの翼が再度うなりをあげた。
『うわあぁぁあぁあぁん!!』
カイセイルメイの翼から生み出された馬鹿げた量の魔力流で空が揺れる。まだこんな力があるのか?!
ジブンの加速とカイセイルメイの加速。
じりじりと縮まりつつあった距離が止まった。こちらの加速が切れかけているせいだ。
追いつけない……! また引き離される!!
カイセイルメイのはるか先にゴールが小さく見える。直線はもう半ばを過ぎた。
もう一度加速しなければと脳裏に僅かだが焦りが生まれた。
そのタイミングを見計らって重ねるように。
これまで空を覆っていた鈍色の雲に、偶然切れ間が生まれた。
雲と雲の間隙を裂いて、夕陽が赤く長く差し込む。
あの日と同じ焼けるような赤い色。世界を塗りつぶす赤だ。
記憶の蓋ががたりと音を立てる。
懸命に理性で押さえこもうとするが、瞼の裏を灼く赤が、紐付けられた記憶を引き摺り出す。
ここで来るのか……今回のレースにおいてジブンが何をおいても警戒すべき飛竜二頭のうちの、もう片方。
魔力操作は精神状態に大きく左右される。
療養中、竜房の中で魔力操作特訓を繰り返しながら、今までのレースを客観的に振り返るうちに思い当たった。
動揺していたり精神状態が不安定だと、魔力操作の精度にムラが出る。集中できないからだ。
これが厄介で、集中したいのにできない状態で魔力操作をしようとすると、そうでない時に比べて格段に精神的疲労が増す。精神的疲労が増えると肉体にも悪影響を及ぼす。
落ち着いて飛んでいる時のロケット加速と、平静を保てなかった時のロケット加速では肉体への負荷も増すのではないだろうか……というのがジブンの立てた仮説だ。
そう考えるとそれ以前に飛んだレースと違い、ケラスースとケルクス後はやたら疲弊した理由にも納得がいく。
ケラスースでは想像の上を行くカイセイルメイの化け物ぷりに動揺し、ケルクスでは言わずもがな。
間違いなく敗因の一つだろう。
これこそ我が身に潜む敵、打倒しなければならないもう一頭の飛竜、おのれ自身だ。
理屈ではわかっているし、理解している。
あとは心を平静に保てばいい。言葉にするだけなら簡単だ。
———けれど抗おうとする心とは裏腹に、身体が敗北を覚えている。
重なる最悪のシチュエーション。そのトラウマに無意識に怯えているのか、頭の中に嫌な記憶が溢れて止まらない。
身体からの警鐘。ストレスになる状況から一刻も早く逃げ出せ。同じ事を繰り返すのをやめろと喧しい。
落ち着け。深呼吸だ。
状況は前とは違う。ジブンは勝つんだ。飛ぶんだ。だから———!
———ひたり。
真冬の冷たい空気に晒された竜鞭が左翼の付け根に当てられた。
背筋を震わせるその感覚と共に、鱗を通じてシークエスの声が聴こえた気がした。
『落ち着いて、冷静になれ』
スタート前。首筋に添えられたあたたかな手のひらの感覚が、警鐘を鳴らすために開かれた嫌な記憶の蓋をそっと抑える。
さっきまでごちゃついていた頭の中に、シークエスの声だけが響く。
『さあ、もう一度』
憑き物が落ちたように。
蘇りかけた記憶がジブンから切り離される。雑音が掻き消えた。
シークエスに導かれるまま、翼に巡る魔力を切り分け、隔てる。
心を鎮めて、ただひたすら魔力を操ることに集中する。
ゴール板が迫る。
……焦らなくていい。だってタイミングは鞍上が見てくれる。
そうだ。もう一度、今度こそ。
騎手と競飛竜の2人で!
———勝つために!!
風を切り裂いて振り下ろされた竜鞭が鱗を弾く。
シークエスの乾坤一擲。
肉体を突き抜けて届く一撃。
魂を震わす衝撃に吼えた。
翼に再び魔力という名の青白い火が灯る。
不思議なことに、翼がまた折れるかもしれないという恐怖はかけらもなかった。
だって騎手が言った。『もう一度』と。
ならばきっと、ジブンはできる。そう信じられる。
翼の中で押し留められた魔力が、勢いよく解き放たれる。
『……ィィィィイイインッ!!!』
翼から吹き出す魔力流の勢いが増すのと同時に、魔力流の吹き出す際の高音が出力を上げる。
身体が前へと押し出される。
向かい風を食い破り突き進め! 前へ! 前へ!! 前へ!!!
凄まじい圧に耐えながら、なんとか薄く開いた目で前だけを見据える。
逃げる白い飛竜の小さな影が再び眼下に迫る。
その先にゴールの板も迫っている。
深く息を吸う。
力を漲らせるために、翼を支えるために。
暴れ回る心臓に、縮み上がる肺腑の奥に血を巡らせろ!
白い尾の上を通り過ぎた……あと少し!
オーバーヒートしそうな頭の中で叫ぶ。
追いつけ!追いついて——————
——————貫け!!!
翼の中に留めた魔力を振り絞る。身体がぐっと前に進む。
上を飛ぶジブンの影がカイセイルメイを覆う。すぐ下にカイセイルメイがいる。
負けたくないという一心で、力の限り首を伸ばす。
全ての魔力を翼に乗せ空に叩きつける。どうか届けと祈って、下を見た。
一瞬にも満たないほんの刹那、こちらを見上げる金色の大きな瞳と目が合って。
交わした視線がずれる。誰もいない空が映る。
カイセイルメイから、クビ一つ抜け出たところにゴール板があった。
勝った。
あのカイセイルメイに。今度こそ、自分達の力で。
意識の埒外に弾き飛ばされていた世界が、戻ってくる。
「……っしゃぁっ!!」
背中でシークエスがらしくもなく、熱く噛み締めるような歓喜の声を上げた。
———ただ一度の様々な要素が上手く噛み合っただけの、レースかもしれない。
世界を守るだとか、壮大な敵との戦いだとか。
そんな大層なものとは比べるべくもない一つの国の、競竜場という限られた場所で行われる、たかが1レースの1勝利だけれど。
それでも確かに得たものがある。
誰かに譲られたわけではないジブンたちの力で勝ち取ったもの。カタチのない、けれど確かに掴み取った、なにか。
ジブンの内側に微睡んでいるだろう者達に語りかける。
———ありがとう。
君達が積み重ねてきた失敗と後悔と挫折の日々は、ぜんぶ何一つ無駄じゃなかった。今日のこの勝利は君達の遺したもののおかげだよ。
…………応えは、ない。当たり前か。
彼らは過去に生きた者たちで、今を生きてはいない。死者の声なんて死にかけでもしなけりゃ、そうそう届くものじゃないんだろう。
———それでもきっと。あの穏やかな風の吹く草原から見届けてくれたはずだと、信じて。
ありがとう。
最後にもう一度語りかけた。
「ハーレー、お前やっぱサイコーだわ! 偉い、偉いぞ!」
興奮で声を上擦らせながら、シークエスの手がわしゃわしゃと首筋を摩る。
ほんとだよ!もう集中力も使い切ってへろへろだ。
飛びながら翼の魔力調整もして、ロケット加速2回も使って……我ながらマルチタスク頑張ってる。偉すぎ。
今日のレースで仮説が確信に変わったわ。集中力って使い過ぎるとめちゃくちゃ疲れる。
ハーレーちゃんのMP……マジックポイントならぬメンタルポイントはもうゼロよー。飛竜はマジックポイントなら生きてるだけで生み出せるからね。
おらっ! もっと褒めろ! 褒めてメンタルポイント回復しろ! メンタルリセットしろ!
「うわ、なんでお前ゴールしたらおかしくなるんだよ」
撫で催促のために頭を左右に振るジブンに呆れ返るシークエス。
……牝竜心のわからん奴だな。いいもんね、早く地上に戻ってアルルアちゃん達にちやほやしてもらうもんね!
「あのっ、ディアーさん!」
「あ?」
地上を目指して高度を下げようとしたジブン達に、突然かけられた声。シークエスが胡乱げに身体を傾けた。
声は足元、2メートルほど下を飛ぶ白い飛竜の背中からだ。
「……おめでとうございます」
カイセイルメイ……と、その鞍上のダークエルフくんだった。
こちらを見上げるダークエルフくんの眉間には皺が寄り、目を眇めている理由は斜陽の眩しさだけではないはずだ。
「おう、ありがと。すっげぇ悔しそうなツラすんね」
オイばか、オマエそういうことは思っても黙っててやるモンでしょーが。
……ダークエルフくん、腹立つんだか恥ずかしいんだかわかんない顔になってるじゃん。
シークエスのノンデリ発言に怯むかと思ったダークエルフくんだったが、意外にもこちらを見上げたまま、話を切り上げるつもりはないらしい。
「そりゃあ悔しいですから……ってそうじゃなくて! ディアーさん、ちょっとお願いがあるんです」
「オレにお願い? なに? 金なら貸さないけど」
「違いますっ……その……」
言い淀んだダークエルフくんが落ち着かないそぶりで視線を泳がせる。どことなく恥ずかしそうだ。
こうやってじっくり観察すると、アルルアちゃんがきゃっきゃしてるだけあって彼もたいがい顔が良い。
近寄りがたい美形のシークエスとはまた違う、優しげな品のいい顔立ちだ。
そんな青年が少し垂れた目元をうっすら染めて、上目遣いに見上げる……絵になるなあ。
「となり、並んで飛んでもいいですか?」
「…………」
シークエスがぎこちなく固まったのが、胴に当たる足の感触でわかった。
なんともいえない沈黙。
これは。どういう空気なの?
「あーいや、悪いんだけどさ、オレそういう趣味は、無いんで……」
なんだよ。さっきまでずけずけ物を言っていたくせに急に歯切れが悪くなるじゃん。
シークエスに断られたダークエルフくんはといえば、一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、次いで言葉の意味を理解してサッと顔色を変えた。
「ちっ、ちちちがいますよッ!! 俺だってそんな趣味ない———ってだからそうじゃなくて、ルメイがッ」
大きな声を出したかと思えば、もごもごと口篭ったダークエルフくんの手が、跨るカイセイルメイの白い鱗を労るように撫でる。
「ルメイは……ずっとアオノハーレーを慕っていて。安心するからそばにいたいみたいなんです」
…………はえ?ジブン??
話題の矛先が急に向けられ驚くジブンをよそに、カイセイルメイの鞍上くんはひどく真剣な面持ちだった。
「また今後も同じレースを飛べるか———わからないじゃないですか。だからほんの少しの間だけでも一緒にいさせてやれたらって」
どういう意味だろう?彼の発言の意味がよく理解できないジブンと同じように、あるいはもっと別の意図を探っているのか。
首に取り付けられた舵を握るシークエスの指がグリップを思案するように、コツコツと弾いたのち。
「……ま、ハーレーは嫌がってないみたいだからいいけど」
「ありがとうございます!」
シークエスから舵で指示され、高度を落としてカイセイルメイと並ぶ。
横目で確認したカイセイルメイは、ダークエルフくんの言う通りどこか嬉しそうで、尻尾が小刻みに揺れている。
飛竜はもともと群れで暮らす生き物だから隣に飛竜がいると安心するのはわかる。
でもそれって群れの仲間同士の話なんだよな。
レースで顔合わせるだけの飛竜なんて他人ならぬ他竜。場合によっちゃ気の強い飛竜同士「誰だおめー!」「お前こそ誰にガン飛ばしてんだコラ!」みたいな諍いも起きるシビアな世界なのだ。
だから竜舎も生まれ故郷も違うジブンを、カイセイルメイがなぜ慕うのかがわからない。
頭の中は疑問符だらけだ。
ジブンとカイセイルメイの接点なんて2回のレースと———あとは初対面の時、いびり散らしてたあっちのボスが気に食わなくて間に割って入ったことくらい。
……まさかそれを覚えてんの?
あんな一度だけの出来事を覚えていて、今こうして隣で安心しきった顔で飛んでるのか?
……うん?
並んで飛ぶ。安心。隣。はて、どこか———で。
並んで飛ぶ夕日に照らされた白い鱗を見て、ケラスース賞での記憶が蘇る。
こんな穏やかな状況じゃなかった。ジブンもカイセイルメイも必死で飛んでいた。
だけどそう、何とか追いついて並んだ直線。交錯した視線。
あの時、失速したカイセイルメイの瞳の中に浮かんだ色は。
———え。
あれ?
もしかして……。
ジブンの中でばらばらだったパズルのピースが次々に嵌っていく。
え、でも、そんなこと、ある??
動揺しながら、確かめるように視線を横に向けると嬉しさを隠そうともしない無垢な金色とかち合った。
カイセイルメイは、ジブンがカイセイルメイを認識したことが嬉しくて仕方ないと言わんばかりに瞳を輝かせ。
『クルクルクルクルルルル……!』
上機嫌な友鳴きを繰り出してきた。
これ以上ない答えだ。
「いや、それはさすがにムリだろ」
家族や群れの飛竜間という、ごく親密な間柄でのみ使われる飛竜の鳴き声を聞いたシークエスが、思わずといった様子で突っ込む。
「ルー……」
ダークエルフくんはどこか憐れむような表情を浮かべて白い首筋を撫でている。
ケラスースでの、様々な光景が蘇る。
屈辱的だと思った。譲られたと、侮られたのか、哀れまれたのか、と。
もしかしてあれは全部、勘違い……だっ、た?
えっ、あっ。はずっ……。
『クル、クルルゥ……』
友鳴きを受けても、押し黙りリアクションを返せないジブンの様子に、カイセイルメイの呼びかける声が段々小さく、か細くなっていく。
目に見えて白い小さな飛竜はしょげていた。
長い首が垂れ下がり、並んで飛んでいたはずが少しずつ後ろに離れて行く———。
『……クル』
引き止めるように、自然と喉から音が出た。
「お?」
「あ!」
ケラスースの後やさぐれていたジブン。ケルクスでの暴走。
全部ジブンの勘違いでジブンはしなくてもいい劣等感に苛まれて自滅したってコト?!
……今、頭の中を駆け巡るのは焦燥ではなく混乱と羞恥心だ。
ジブン以外は誰も知らない、誰も知ることはない。そこだけは救いだけれど、いたたまれないことに変わりはない。穴があったら入りたいが空の上に隠れるとこなんてありゃしない。
ちくしょー! こうなりゃやけくそだ、喉を大きく震わせ、高らかに!
『クルルルッ!!』
『クルッ! クルルル、クルクルルル!』
やけっぱちの友鳴きだったが、カイセイルメイは元気を取り戻し、歌うように声を重ねてきた。
大きく羽ばたき、再び隣に並ぶ。
『クルルルル……』
『クルクルル……』
並んで飛びながら、歌う。
喜びを分かち合うように、互いを讃えるように。
ジブンとカイセイルメイの声が、茜色に染まる空に響いていた。
*****
目の前で繰り広げられるのは、白と青の飛竜二頭の激しい競り合い。
はるか上空を飛ぶ競飛竜達が、そこにいるかのように浮き出て目の前を飛ぶ映像を流す、最新の魔法道具。その光景に釘付けになりながら。
ミュゼは胸の前で組んだ両手を知らず知らず、強く握りしめていた。
うっすら透けた立体映像のテンテンが、歯を食いしばり必死の形相で白い飛竜を追っている。あと2マイル。ゴールは近い。
「しゃしぇえぇぇぇぇッッ!!!」
隣で縮こまるように競竜新聞を握り締め見守っていた見知らぬ老人が、歯のほとんど残らない口を開き叫んだ。
「そのままァァ! 残せ! 残せ!!」
カイセイルメイを応援する人が、負けじと怒鳴る。
わあわあと誰もが思い思いに声を張り上げる。
歓声に答えるかのように、翼が鈍ったと思われたテンテンが再度あの加速をしてみせた。
観客席が歓声と驚きでどよめく。
「ひっ!」
そんな中、思わず息を呑んだミュゼの脳裏には、ありありとケルクスの出来事が呼び起こされていた。
ケルクスが開催された、あの日。
ミュゼたちは、この日のためにとヤフィスが買った魔法道具映し鏡の、小さな画面を牧場の皆で、顔を寄せ合い覗き込んでいた。
パドックで元気がないのが気にかかった。
ゲートへ向かう時は落ち着いていたから一安心した。
そして、真っ白な飛竜との競り合いに負けたテンテンが、画面の外へと消えていった瞬間も見ていた。
———見ていることしか、できなかった。
(どうか、どうか無事にテンテンを帰してください。神さま、白の盟主さま……!)
指先が白むほど強く手を握り、祈るミュゼの心配を跳ね除けるかのように力強く。
青い競飛竜は、白い競飛竜をクビ差交わしてゴールした。
その瞬間、一際大きな歓声が、地響きのごとく会場を揺らした。
アオノハーレー奇跡の復活。
3歳牝竜による大接戦とワンツー。
歴史的な一戦を目撃できたことに、観客は勝ち負けを超えて歓喜していた。
真冬の寒さを上回る熱狂の中、ミュゼは周りを見回す。
隣でふがふがと不明瞭な発音でアオノハーレーを褒めちぎる老人の顔には、生気が満ち溢れていた。
父より年上の男が目をキラキラさせて、映像を食い入るように見つめている。
小柄な年若い女性は感極まったのか、目尻に浮かぶ涙を拭っていた。その手には青いリボンが結ばれた御守りが握り締められている。
おめでとう、と誰かが言った。
会場のどこからか拍手が起こり、次第に会場全体へと伝播していく。
勝ったもの、負けたもの。応援していた人、していなかった人。
みんながアオノハーレーを言祝いでいるのをみとめて、ミュゼはこの場に送り出してくれた父が伝えたかったことを理解した。
ミュゼのかわいい仔竜。
テンテンがこの世に生まれ落ちた日、ミュゼは父親や竜医と共に誕生の場面に立ち会っていた。
生まれてくるマリカミストの初子はミュゼに担当してもらうつもりだと言われていたから、ミュゼにとってテンテンは生まれる前から特別だった。
ドキドキしながら固唾を飲んで見守る中、無事この世界に生まれ落ちた、青い仔竜。
母親の体温を求めて蠢く、ちいさないのち。頼りない産声。
ミュゼが初めて世話をした特別な飛竜。
いつまでもミュゼが守らなくてはいけない、小さな可愛い仔竜だと思っていたのに。
飛竜の成長は早い。
彼らの飛ぶ速さと同じくらい、あっという間に大きくなって駆け抜けてしまう。
テンテンもそうだ。
あんなに小さかったのに、数ヶ月でミュゼの危機に駆けつけるくらい強くなり、そして遠くへ離れていってしまう。
瞼に焼きついて離れない、鮮烈な青い軌跡だけを残して。
仔竜が母竜と引き離されて、独り立ちするように、ミュゼもテンテンを手放さなければいけない時が来たのだ。
かわいいあの仔竜を、今度こそ一人前の飛竜として見送らなくては。
ミュゼの中の聞き分けのない子どもが、テンテンを手放したくないと泣いている。
ずっとミュゼのテンテンで居て欲しいと、怪我するところをもう二度と見たくないと、駄々をこねている。
———だめだよ。
わななく唇を噛み締めて、胸の内側で泣いている自分自身へと、言い聞かせる。
私はテンテンの、ハーレーの人間のお母さんだもの。私がハーレーを信じてあげなくちゃ。
頑張って、無事に帰っておいでと送り出してあげないと。いつ帰ってきても暖かく迎え入れられるように、どんと構えていられなくてどうするの。
アオノハーレーはいまやこれだけの人に愛されている。
誰もが知る名飛竜。
牧場の木陰で本を読み聞かせたミュゼだけの小さな仔竜は、もう思い出の中にしかいない。
ここにいるのは、この空を飛ぶのはアオノハーレー。
多くの人々に愛される、みんなの競飛竜。
「ミュゼ大丈夫かい?」
喧騒の中、ぼんやりしたまま微動だにしないミュゼを心配したのだろう。隣で応援していたヨーゼスおじさんが顔を覗き込んでいた。
父とよく似た優しい瞳と目が合って、思わず涙が込み上げてきた。
かつてライウス達からいじめを受けていた時にこらえた涙とは違う。
喜びと、安堵。そして大きな寂しさ。
きっと父が、そして亡くなった祖父もたくさん飲み込んできた涙だ。だからミュゼもこらえる。こらえて、笑う。
「ううん、わたしはもう大丈夫。このあと口取式だよね?ハーレーをお祝いしなくちゃ!」
「……そうだね、お祝いに間に合わなくなったら大変だ。少し急ごうか」
未練を断ち切ろうと辿々しく笑ったミュゼの頭を、ヨーゼスおじさんは何も言わずに撫でてくれた。
おじさんに手を引かれ、足早に出口へと向かう。
観客席の人混みを掻き分けながら進む途中で、ふと振り返り、空を見上げた。
涙でぼやけた茜色の空には、ハーレーの残した青い軌跡がまだ輝いていた。
それはまるで。
大災節の終わり、人々に新たな始まりを告げる彗星のように。
*****
「ああああっ!!! 悔しいぃぃ! くーやーしーいー!!」
華やかなドレスの下に隠された可憐な足が、可憐さとは程遠い荒々しさで貴賓室の床を何度も踏みつける。
幼子のように地団駄を踏んで悔しがるパンサールを前に、シフレシカは途方に暮れていた。
パンサールから気兼ねなく観戦しましょうと呼び出された競竜場内の貴賓室。
室内にはパンサールとシフレシカを除けば、護衛騎士のララディアと、いつぞやのパンサール付きの執事しかいない。
パンサールに挑発され、逃げ道を塞がれた形で参戦を余儀なくされたアルアージェ建国記念祭。
大接戦の末、シフレシカ所有のアオノハーレーが、パンサールの見出したカイセイルメイをクビ差捉えて勝利し、幕を下ろした。
アオノハーレー復活。世代最強と名高い飛竜の撃破。古竜との混合戦における三歳牝竜の勝利。
あらゆる不利な要素を打ち砕き、ゴールに飛び込んだ青い閃光を目の当たりにした時、さすがのシフレシカも思わずハーレーの名前を叫んだ。
だが貴族の闘いとは、おのが飛竜の勝利後も続く。
「もうアオノハーレーの顔なんて見たくもないわ!」
喜びも束の間、これだ。
手のひらに顔を埋めたままパンサールがうめくのに、慌てたのはシフレシカだ。
いち竜主としてアオノハーレーの勝利は大変喜ばしい。だがそれが懇意になった公爵家次期当主の不興を買ったとしたら。
真冬だというのに背中を嫌な汗が伝う。なんと声をかければ良いか判断に迷っていたシフレシカは、ふと視線を感じた。
見れば視線の主はパンサール付きの執事だ。
彼は大丈夫とばかりに軽いウィンクを返して、口元に人差し指を当てる。
沈黙を求められ、黙って見守るしかないシフレシカの前で。
俯いていたパンサールが顔を上げて貴賓室の大きな窓、その向こうを見た。
「……見たくない、って思うのに……今この瞬間からまたアオノハーレーとカイセイルメイが戦っているところを見たいとも、思うのよ」
誰にともなく呟くパンサールの目に、涙はなかった。むしろ恍惚としてすらいる横顔が、くるりとシフレシカに向けられる。
「ねえ、伯爵。競竜ってなんて最高なのかしら! 貴女もそう思わない?」
負けを悔しがっていた竜主と同一人物とは思えない、晴れやかな笑顔。
心の内でシフレシカは、なるほどと独りごちる。
勝ち負けだけでなく。彼女は心底競竜の魅力に取り憑かれているのだ。これは確かに『竜狂いの姫』だろう。
「……そうですね。私は常にあの飛竜を所有している利益について考えてきました。それこそが貴族の責務ですから。———けれどそういった思惑とは別に……いつの間にか、ただ一個人として応援していた。これが競竜というものなら……ええ、最高でしたよ」
シフレシカの答えに満足そうに頷いて、パンサールはドレスの裾を払い、姿勢を正す。
先程まで駄々を捏ねていた人物と同一とは思えない優雅な所作。
威厳に満ちた公爵家令嬢は、流れるようにたおやかな手を差し出した。
「次はわたくしのルメイが勝つわ」
精緻なレースの手袋におおわれたてのひらに込められているのは、勝者を讃える賛辞だけではない。
次こそはお前の飛竜を負かすという強い意志。
パンサールが差し出した繊手を見て、シフレシカは人形のように整った顔に笑みをのせた。
いつもの貴公子然として、乙女がつい見惚れてしまうたぐいのものではない。荒々しく獰猛さすら感じさせる笑みだった。
肉食獣のように白い歯を覗かせ、目の前の手を握る。
「お言葉ですが、次も勝つのは私のハーレーです」
*****
中皇競竜に在籍する競飛竜と、競飛竜を管理・育成する竜舎が集まる競竜都市トゥリームオ。
その一角に存在する小さな建物が、調教師トトー・ガガラドの事務所だ。
この小さな事務所内の清掃は、意外にも竜舎のトップであるトトーの仕事だ。
掃除のためにわざわざ使用人を雇うほど広い敷地ではないし、雇っている竜務員や助手達は管理する飛竜たちのために時間を使わせたい。
ならば一番長く事務所内に滞在する自分が率先してやればいい。ドワーフらしい理論的な思考からそう決めた。
仕事に関して几帳面なトトーは毎朝、出勤してすぐ掃除に取り掛かる。
今日も今日とて掃除の基本、高いところから低いところへを忠実に守り、棚に布巾を滑らせる。
玄関から入ってすぐ目に飛び込んでくる棚には、賞状や記念品と共に歴代の所属飛竜達の映し絵が飾られている。
まさにガガラド竜舎の顔ともいうべき場所。思いを馳せながら丁寧に埃を拭う。
棚の真ん中、一番目立つ場所に飾られた額縁の中に納められた映し絵。
額縁にはアオノハーレーが今年の春、ケラスースを優勝した時の様子が納められている。
笑顔で囲む関係者の中。中央に立つアオノハーレーは首を垂らし俯いている。
ガガラド竜舎初のG1勝利した記念すべきレース後の映し絵だ。
掃除の手を止めたトトーは布巾を棚の端に掛け、応接兼作業用の机に向かう。
机の上に広げた書類の中から一枚の映し絵を手に取り棚の前に戻ると、おもむろに額縁を手に取った。
裏返し、中の映し絵を取り出す。そして新しく持ってきた映し絵を代わりに入れる。
「……やっぱりこっちがいいね」
新たに額に納められた映し絵には、首にかけられた大きな花輪を食べようとしているアオノハーレーを囲む関係者達が写っている。
アオノハーレーが啄もうとしているのは、冬の只中では非常に貴重な花々を惜しげもなく編み込んで作った豪華な花輪飾り。
それはアルアージェ建国記念祭優勝を記念する、優勝飛竜だけが身につけることを許された祝いの花輪だ。
先日、無事終えることができたアルアージェ建国記念祭。
その口取式の一幕を切り取った映し絵は、栄えある大舞台の記念撮影にしてはどこか間が抜けていた。
もちろんきりっとした威厳のある映し絵も撮れている。
アルルアが大事に保管している新聞の一面に載った記事を、トトーは思い出す。
あれも良い映し絵だった……けれど。
「うん、これこそアオノハーレーとアタシたちだ」
アオノハーレーと取り巻く人々を切り抜き、記憶として残すならば、こちらこそが相応しい気がしたのだ。
映し絵の中のアオノハーレーは俯いていない。
首元の巨大な花輪をどうにかしてつつこうと首を捻って、おかしなかっこうになっている。
この国で最も知名度のあるレースに勝利したというのに、まったくもっていつも通りのハーレーだ。
そしてそんなアオノハーレーを見守る人々。
ハーレーが生まれ育った竜牧場の跡取りだという小さな少女と、竜主のアオノ伯爵は驚いている。
騎手のシークエスは呆れた様子だ。
トトーと竜務員のアルルアは慌てて止めようとしている。
誰もがアオノハーレーに注目していて、アオノハーレー含め誰もがみんな生き生きとしていた。
なんとも威厳に欠ける、けれど和やかな雰囲気の映し絵。
タイトルをつけるならば———『大団円』だろうか。
「……とはいえ、ハーレーの競竜生活はこれからも続くんだから大団円はまだちと早いかね」
大団円の結末を閉じ込めた額縁を棚の上に飾ると、トトーは満足げに微笑んだ。
そうして途中だった事務所掃除を再開することにした。
とりあえず第二章完です!
また一区切りついたところで私事ではございますが、仕事の都合で10月まで更新をお休みさせて頂きたいと思います。
お待たせして心苦しいのですがご理解頂けますと幸いです。
再会後は幾つか幕間を挟んだ後に第三章を予定していますので引き続きお付き合いいただけたらと思います。
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