第43話 開幕、アルアージェ建国記念祭
長らくお待たせして申し訳ありません。年度末と年度始めの忙しさがようやく落ち着きました。
一年を締め括るパヴロヴナ月。
人々の吐く息は白く、路地を吹き抜ける風は刺すような冷たさを帯びている。
しかし寒さが厳しさを増すのと反比例するように、アルアージェ皇国の首都ヒビアはここ数週間、一年でもっとも活気に満ち溢れていた。
都市のあちらこちらで色鮮やかな布製の飾りが揺れ、皇国旗がたなびく。
皇族の居城、白楼宮の周りでは魔法学院の生徒達による創作魔法の実演が行われ、城の上を魔法の花弁が舞い、細やかな光の雨がカーテンのように包む。
魔法によって白亜の城が幻想的に彩られる光景に、多くの観衆が空を見上げていた。
催しが行われているのは城周辺だけではない。大通りが交わる広場では市場が開かれ、大小の出店が軒を連ね、ここもまた多くの人で賑わっていた。
湯気を纏う料理や新鮮な食材。見慣れない異国の品に色とりどりの服飾品。
店先に並ぶ多種多様の商品を物珍しげに眺め、時には手に取って店主と交渉する通行人の中には、皇国では見かけない装いに身を包む者も少なくない。
パヴロヴナ月の間、開催されるアルアージェ建国を記念した祭りを一目見ようと、飛竜船に乗って別大陸からやって来た旅人たち。
立ち並ぶ出店の前では、道行く観光客を1人でも多く呼び込もうとする商人の威勢の良い声が響く。
昼も夜も華やかな催しごとが都市のいたるところで開かれていた。
祭りの賑やかな空気はヒビアの中心部から南、郊外に造られたヒビア競竜場にも及んでいた。
むしろ。今日に限って言えば、この地こそが皇都で一番人が集まり、冬の寒さを寄せ付けない熱気を放つ場所かも知れない。
今日はアルアージェ中皇競竜が開催する、一年で一番最後にして一番有名なレース『アルアージェ建国記念祭』の開催日なのだから。
そんなヒビア競竜場内には竜主や来賓のみが利用できるサロンが存在する。
身分によって立ち入ることができる部屋が異なり、竜主同士の交流やレース開催までの待機室として利用される場所だ。
アオノハーレーの竜主シフレシカ・デイル・アオノが滞在するのは、貴族のみが立ち入りを許されたサロンだった。
年若い伯爵家当主は歓談する他貴族の一団から少し距離を置いて、大型の魔法道具・映し鏡を、何をするでもなく眺めている。
映し鏡の鏡面にはちょうど本日開催の3レース目、2歳未勝利戦が映し出されていた。
「これはこれは、アオノ伯爵。ご機嫌麗しゅう」
映し鏡の前に佇むシフレシカの背に声がかかる。
薄くなった茶褐色の髪を後ろに撫で付け、樽のような腹を抱えた壮年の貴族が、丸々とした頬を笑みの形に吊り上げて近付いてくるところだった。
相手を確認したシフレシカは映し鏡から向き直ると、丁寧に一礼する。
「ヤジール伯爵、お久しぶりです」
「このレースにはアオノ家の飛竜は飛んでいなかったと思うのですが……気になる飛竜でもいましたかな?」
たるんだ顎肉の上に乗る短い髭を撫で、先程までシフレシカが眺めていた映し鏡をヤジール伯爵が見やる。
談話の邪魔にならないように、魔法道具から音声は届けられていない。無音の画面内で競り合う競飛竜達を横目で見たシフレシカは、薄っすらとした笑みを浮かべて肩をすくめる。
「この後の予定まで少し時間があるので息抜きです」
その言葉にヤジール伯爵は肉に埋もれそう目をわざとらしく見開くと、演技がかった仕草でため息を吐いた。
「アルアージェ建国記念祭の前にも予定がおありとは……領地に篭もりきりだった先代のバンデオール殿とは違って新しい伯爵殿は勤勉でいらっしゃる!傾きかけの———おっと失礼。苦しいお立場で家督を継がれ、こんな記念すべき日でも変わらず働き回らなければいけないとは。伯爵殿はまだまだお若いのに随分とご苦労されているようだ」
「ハハ、あくせく走り回っているおかげかごらんのように健康的に過ごせていますよ」
細っそりしたおとがいに指先を当てたシフレシカの目が、男の容姿を上から下までなぞる。そしてその視線の意味を相手が理解する前に先手を打った。
「……屋敷に篭りきりの父に比べて」
青二才と侮っていた隣領の新しい当主が、嫌味に全く動じないことに鼻白むヤジール伯爵に対し、シフレシカは笑みを崩さず続ける。
「それに、ここ最近はご縁ができて少しずつではありますが立て直せる目処が立ってきました」
「———それもこれも全ては幸運を運ぶアオノハーレーのおかげ、ですかな?」
和やかな口調に反してヤジール伯爵がシフレシカに向ける瞳には暗い感情がぎらついている。
隣領の傾いた家を継いだ若造が、自分の領地からアオノハーレーを見出した事が、幾重の意味でも気に食わないのは明白だった。
あえて気づかないふりで、シフレシカは金属製のヘアカフスで一つに纏めた長い銀髪の先を指先で弄ぶ。
「あの飛竜と巡り会えたことがきっかけであるのは間違いないです」
「竜主を始めて最初に買った飛竜がよもや我が国で最も注目されるレースに出られるとはなんともまぁ、羨ましい限り。しかも我が領地で購入された飛竜でしょう」
「その節はありがとうございました。お陰様で良い飛竜と巡り会えた」
この言葉だけはシフレシカの本心だ。
アオノハーレーを見そめたヤジール領訪問の時。シフレシカ達はヤジール領に立ち入る最低限の許可しか貰っていなかった。
宿泊する宿の確保も、竜牧場への取り継ぎも全てアオノ家が独自に行っている。もしヤジール伯爵から竜牧場を紹介されていたら、紹介のない竜牧場を訪ねるわけにもいかず、アオノハーレーは手に入らなかっただろう。
しかし、貴族が他の貴族の領地を訪ねているにも関わらず碌な持てなしもされないのは見下されている証拠でもあったのでこれは盛大な皮肉だ。
さすがのヤジール伯爵も渋面を作り、気まずげに顔を逸らす。
「いやいや、ワタクシ自ら直接領地を御案内できず申し訳なかった。当時は何かと忙しかったもので……しかしティルホウにあるもう一つの竜牧場ならばまだしも、あんな小さな竜牧場から傑出した飛竜が出るとはねぇ……ワタクシはもう何年も彼の地に出向いていないのでとっくに潰れているのかと思っていたのですが、わからんものですなぁ」
自領の竜牧場に対してかけるには、あまりに心無い発言だった。
表面上は顔色一つ変えず、シフレシカは「そうだったのですね」と適当な相槌をうつ。
ヤジール伯爵の領地は西側がアオノ伯爵領、東側はクロトーワ公爵領と接している。
飛竜の産地クロトーワ領と隣接しているため、ヤジール伯爵領内にもクロトーワ領ほどではないが飛竜の産地が存在する。
アオノハーレーが産まれ育った町、ティルホウもその一つ。だがクロトーワ領のように領主によって飛竜産業が手厚く支援されているかというとそうではない。
シフレシカは相手に悟られないよう慎重に瞳の形を笑みに見えるよう、鋭く細めたまま隣に立つ男を睨め付ける。
オブロイデ・デイル・ヤジール。
多くの人が思い描く、腐り切った貴族を体現したような男だとシフレシカは内心唾棄している。
貴族としての地位はアオノ家と同じ伯爵位だが、一度社交界から離れたアオノ家とは違い長年権力者に擦り寄り、己が権力に媚びる者を引き入れては私腹を肥やしている。
国を支える柱、そして民草を脅威から守るからこそ与えられた貴族の地位であるというのに、そういった貴族の責務には目もくれず自分の地位を守ることしか頭にない。
そして隣領のアオノ家が傾いていくのを見て、今が好機とばかりに禿鷹のごとくアオノの領地に手を出そうとしてきた忌々しい男だ。
貴族としての責務を果たすより目先の利益を優先する性格。
その最たる例が、17年前ティルホウを直撃した前回の大災節。
自身が所有する希少金属の鉱山を占拠した魔物を追い払うため、災厄獣の調査と間引きを疎かにした結果、ティルホウはあわや壊滅の危機に瀕した。
一頭の飛竜と一人の人間が、命を賭して災厄獣を足止めしたことで、最悪の事態は免れたのだが。
代償にホートリー竜牧場は竜舎や放牧地、当時の牧場主と逃げ遅れた繁殖牝竜数頭、初空前の幼竜全頭、そして一頭の若い牡竜を失う憂き目に合った。
亡き牧場主と知己の間柄だったもう一つの竜牧場の主が立て直しに手を差し伸べていなければ、廃業するしかない損失だったと聞く。
当然、この一件は大災節にて防衛指揮を任されるネルグローズ辺境伯の知るところとなり、厳しい追求を受けた。
ネルグローズ辺境伯はヤジール伯爵を名指しで弾劾し、皇王にヤジール伯爵家の爵位降格と領地縮小を求めたという。
しかしヤジール伯爵が所属する派閥の長、ツェツェール公爵が取りなして財産の一部没収に止まった経緯がある。
批判は領地内からも上がった。
これに対しては、ヤジール伯爵と結託して鉱山奪取に人員をさいたティルホウの冒険者ギルド長が流した「町を守る要でありながら魔物の侵入を阻止できなかったホートリー竜牧場にも落ち度がある」などといった根も葉もない噂を、人を雇って秘密裏に扇動している———。
密かに入手したティルホウの大災節に関する調査報告書を記憶から引き出したシフレシカは、滲みそうになった侮蔑を左目を覆う眼帯の下にそっと隠した。
「……白の盟主様はあまねくすべてを見ておられるのでしょう。だからこそ苦難を味わったかの竜牧場に才覚ある飛竜を遣わされた」
これも調査報告書を読んだシフレシカの偽らざる本心だ。
中皇競竜に飛竜を送り出すことも稀な小さな竜牧場から、輝く一等星のような飛竜が産まれたのは奇跡、あるいは贈り物という他ない。
だがヤジール伯爵はそれだけの意味では受け取らなかったらしい。
上っ面だけでも好意的に見せようとしていた努力を止めると、唇をめくりあげた陰湿な笑みに変える。
「おや、その言い分では貴公がアオノハーレーを手に入れたことも神のお導きと言わんばかりですな」
指摘にはもはや隠す気のない妬みが込められていた。
あからさまな敵意。
しかしシフレシカは彫刻のように整った容貌に動揺の色を乗せることなく、冷静に切って返す。
「ヤジール伯爵ほどの方であれば自領とはいえ、あのように小さな竜牧場など訪れないでしょう?潰れかけた竜牧場と傾きかけの伯爵家、きっとお似合いだと巡り合わせてくださったのですよ」
自身が放った嫌味をそのまま引用されたヤジール伯爵がぐっと言葉に詰まったのを見て、シフレシカはこの日一番の笑みを作ると優雅に退席の礼をする。
「申し訳ありませんが、この後パンサール様と約束があるので私はこれで失礼します」
背中に突き刺さるヤジール伯爵の嫉妬に塗れた視線。他の貴族の好奇の目。それらを掻い潜り、シフレシカは従者を伴ってサロンを後にする。
向かうのはパンサールが指定した貴賓室———ではなく貴族以外の竜主や竜牧場関係者が待機するサロンだ。
パンサールに謁見する予定があるのは事実だったが、今回招聘されたのはホートリー竜牧場の跡取り娘ミュゼ・ホートリーだった。シフレシカはその仲介に過ぎない。
競竜愛好家の竜姫は、どうやら直接アオノハーレーの仔竜時代、とりわけ初空の話を聴きたいらしい。
今回、アルアージェ建国記念祭にシフレシカがホートリー家の者を招待するとどこからか聞きつけて、面会を打診、いや、ねだってきた。
彼女の前で軽々しくアオノハーレーが初空を迎えた経緯を語ってしまったのはシフレシカだ。巻き込んでしまったホートリー家の者達には申し訳ない思いがある。
平民から見て雲の上の存在だろう公爵家令嬢に謁見など普通に生きていれば経験することはまずありえないのだから、上手くフォローしてやらねばならない。
頭の中で軽く今後の流れを整理したシフレシカは、思考を切り替えるために左目の眼帯を撫で、次にそれを覆う銀髪を乱暴にかきあげる。
その下から現れた表情は美貌と相俟って背筋が震えるような冷気をはらんでいた。
「暇つぶしと思っていたが予想外の釣果があったな」
「あれを成果といっていいの?難癖つけられたの間違いではなくて?」
斜め後ろに付き従う黒い金属甲冑の下から、ひそめてはいるが不機嫌そうな女の声がかけられる。
兜の下のふくれツラまで想像できるシフレシカは、わざとらしくまじめ腐った声を出した。
「ララ、人の目。それと例のものは?」
「聞こえるような声で喋ってないでしょ。……魔法研の預かりものなら持ってきたわ」
背後で護衛騎士のララディアがまとう鎧が、何かを確認するようにガチャガチャと擦れる。
皇立魔法研究室からハーレーの魔石を多く融通する謝礼として寄与されたものを確認したのだろう。
「丁度いい。ホートリー竜牧場の者達に会った時、一つ渡そう。仕掛けてくるなら本命は彼の方だが、あの性格だ……ホートリーにも嫌がらせの一つや二つしてきてもおかしくない。戦前の防御魔法はなるべく多く重ねろって言うだろ?」
「渡すのは構わないけれど……ねぇシフ、わざと蜂の巣を突くような真似をしなくてもよかったんじゃない?あんなに挑発したら危険だわ」
シフレシカの指示に先程までとは打って変わって心配を多分に含んだ声音が返る。シフレシカは歩調を緩めると、頭からつま先まで漆黒の鎧を纏った乳母姉妹の隣に並び、一層声をひそめた。
「さっきの会話を聞いていただろう、私がヤジールの領地で産まれた飛竜を買って結果を出したことがよほど悔しいらしい。あの様子では遅かれ早かれ何らかの行動をするのは目に見えてるよ。それならなるべく冷静さを欠いた状態で、こちらの用意したタイミングで動いてもらった方が都合が良い」
「そうかもしれないけれど……」
「ララ、私は父上と違って15年前の事を有耶無耶にしたくない。15年前、君が私の身代わりになったあの時のことを」
15年前と言われて、ララディアは指先まで覆う硬い金属の籠手を強く握り締める。
籠手の下の震えを抑えるように。
「……私のことはいいのよシフ。証拠も無い状況でバンデオール様の判断は正しいことだったわ。それに……今だって十分良くして頂いてるもの」
ララディアのどこか諦観に染まり切った言葉が尻すぼみになって消えるのを耳にして、シフレシカはこの日初めて取り繕うことなく感情を表に出した。
怒り。苛立ち。そして悲しみ。
「正しいものか……!証拠を集めようともせず、ただ波風を立てることを嫌っただけだ。そのせいで……私の友人は今も苦しんでいるのにッ」
荒ぶる感情を抑え込むため短く瞑目したシフレシカは、再度目を見開くと決意を込めた表情で前を見据える。
「……私も君もアオノ家も。全部が前に進むために、過去を清算しなくちゃいけない。私はこの機会をハーレーが運んでくれたと思っているんだよ」
*****
天井に嵌め込まれた採光窓から白い室内へと、冬の日差しが降る。真冬の室内においてその日向は硝子越しであってもほのかに暖かかった。
日だまりの中心には大理石で造られた純白の竜が三対六枚の翼を広げている。
陽光を浴びて白く発光するような竜の彫像は、前脚二本で身体の前に鎮座する円形の白いレリーフを掴み、長い尾の先がレリーフに沿うようにして身体の前に回っている。
レリーフには大きな正円の中に2つの小さな正円が上下に重なるように刻まれ、小さな13個の八芒星が二つの円の周りに散らばっていた。
描かれた模様は大円が世界を創造した神を表し、二つの小円は天と地に分かれた世界を、散らばる星々は戦女神ハーレイなどの創造神に仕える小神を表している。
この模様は月白教のシンボルであり、レリーフに寄り添う彫像は月白教が信仰する白の盟主を模ったものだった。
ここは祈りの場。
月白教の教えに従う者たちのために、競竜場内に設けられた祈祷場。
昼間ということもあってか室内には明かりが灯されておらず、天井と部屋の高い位置に取り付けられた明かり取りの窓から差し込む自然光だけで照らされている。そのせいか日中だというのに部屋の四隅は仄暗い。
胸元にしまっていた魔法道具・刻知計を取り出し、時刻を確認したエルフの少年ハルトルードは、控えていた薄暗がりから一歩踏み出した。
暗がりからひだまりの中へ進み出たことで、もう片方の手に握り締めた錫杖の先端で連なる輪がしゃらりと揺れ、魔導石がきらめく。
「御師様、アオノハーレーが出場するレースの時刻が迫っています」
呼ばれて、石像の前に跪き熱心に祈りを捧げていたダリウス・ロン・ナハディが、僅かな衣擦れの音とともに長身を起こした。
光を一切反射しない漆黒のローブを羽織った、痩せぎすの老人。その隣に並んだハルトルードは高い位置にある師の表情を窺おうと斜め上を見上げる。
「……そうだね、そろそろ行こうか」
いつも穏やかな師にしては珍しく、その表情も声音も硬い。
無理もないとハルトルードは思う。
アオノフラックス。
ダリウス・ロン・ナハディの人生を変えた飛竜は、数十年前のアルアージェ建国記念祭で翼を故障し、短い竜生を終えたと聞く。
その飛竜と見た目も出自も似た飛竜が、因縁深いアオノの名を冠して、因縁深いレースを飛ぶ。
心穏やかではいられまい。
「……大丈夫です。御師様がこれだけ熱心に祈りを捧げていらっしゃるのです、きっとアオノハーレーは無事に戻りますよ」
言いながらハルトルードは、己の拙さを恥じて唇を噛む。根拠を持たない愚直なだけの言葉だと自分でも思ったからだ。
しかしそんなハルトルードの考えも察したのか。ダリウスは目尻の皺を深めて柔らかに微笑んだ。
「ありがとう。でもね、私はアオノハーレーの為だけに祈っていたわけではないんだ」
「そうなのですか?」
首を傾げるハルトルードにもう一度微笑みかけたダリウスは、遠くを見る目で白の盟主の彫像を見上げた。
「アオノハーレーだけじゃない。どの飛竜も人も、皆無事に戻ってほしいと祈ったんだよ……難しいことだとわかっているけどね」
アオノハーレーだけではない、他の競飛竜、騎手、レースに関わる全ての人達。
そう言われて先程まで思い浮かべていたアオノハーレーから連想するように、ハルトルードは1人の男の姿を思い出す。
自分たちエルフより短く、かといってヒュマールよりは長い、中途半端な長さの耳。
威嚇するような笑みの中で撓む、毒々しいライムグリーンの燐光が宿る瞳。
アオノハーレーの騎手。エルマールの、バロールの落とし子。
———かつて人々の国が空に浮かぶ大陸ではなく、大地と呼ばれる場所にあった時代の終わり。エルフは一夜にして国を失い、散り散りに離散し流浪の民になった。
エルフであれば訓戒の意味も込めて幼い頃から語り聞かせられる伝承の中に語られる存在。
いにしえの大竜大戦のおり、親密な関係にあったエルフの王国を裏切った六罪竜が一頭『緑鱗のバロール』。
そのバロールから力を分け与えられ、人ならざる魔王となってエルフの国を一夜のうちに滅ぼしたエルマール『バロールの落とし子』。
落とし子の生まれ変わった証とされる、落とし子と同じ忌まわしい眼を持つ騎手を思い出し、不快感からハルトルードは鼻筋に皺を寄せた。
アレのために自身がこの世で一番尊敬する人の崇高な祈りが捧げられたと思うと不愉快極まりなかった。
———だが。隣に立つ老人の横顔を見つめる。
エルフからすればたった七、八十年しか生きていないはずなのにダリウスの横顔は何百年もの年月を過ごした巨木を思わせる静かな迫力があった。
数多の悲しみとともに命を送る決意を固めた聖なる人。
この穏やかで大きな気配のする人の隣に立ち、その声を聞いていると、ハルトルードの中でどろどろと波打つ嫌な気持ちは不思議なまでに凪いでいく。
憑き物が落ちた心地で、師の年輪のような皺が刻まれた横顔から目の前の石像に視線を移す。
天窓から注ぐ日の光を浴びて、白の盟主の石像は静かに佇んでいた。全ての人を等しく、見そなわすように。
アレへの拭がたい嫌悪は、今もハルトルードの中にある。けれど。
自身の感情と祈りを切り離すために、携えていた錫杖を胸の前で握り、錫杖に取り付けられた魔導石に額を寄せる。
祈りの言葉は自然と唇から紡がれた。
「全人竜がどうか無事でありますように」
「……全人竜がどうか無事でありますように」
ハルトルードが唱えた祈りに重ねて、ダリウスもまた同じ言葉を繰り返した。
*****
男は前後左右から迫る人、人、人の群れに辟易として眉間を揉んだ。
今年最後のG1レース『アルアージェ建国記念祭』を飛ぶのは、どれも名だたる競飛竜たちばかりだ。
人間で言えば高難易度の依頼をこなす冒険者の頂点たる金獅子級冒険者や、人気歌劇の有名俳優に等しい。
そんな競飛竜たちの姿を一目見ようと、パドックは人でごった返していた。
その人の多さたるや、具材を詰め込めるだけ詰め込んで煮込むドワーフ達の伝統料理、ぎっちり汁を作っている鍋の中のようだった。
隙間なく詰め込まれた観客の多さは他の重賞レースの比ではない。男のような競竜にどっぷりと浸かった人間以外にも、明らかに物見遊山で来ていると思しき人間も多くいる。
遅まきながら、パドックを見に来たのは間違いだったのではないかという考えが男の中に押し寄せてきた。
頭でおさえる飛竜は決まっている。そこからどの飛竜に流して買うかも、男は既に決めていた。
データや統計に重きを置く考え方で競竜を続けてきた男は、普段であればパドックでの様子はあまり参考にしない。飛竜とは飛んでこそ。歩き回る姿のどこがレースの参考になるのか、というのが持論だった。
だというのに今日に限ってはなんとなく、パドックを見てみたくなったのだ。もしかすると周囲のお祭り騒ぎに影響されていたのかもしれない。
だがこうしてぎゅうぎゅうと押し合いへし合いしているうちに、お祭り気分は煮崩れした野菜の如く小さく潰れてしまった。すでに後悔が心の7割近くを占めている。それでも、今になってこの場を離れるのは、それはそれで癪だった。
せっかく観に来たのだからと自分に言い聞かせ、男はパドックの競飛竜達を見渡す。
すると、ちょうど一頭の競飛竜が竜務員に綱を引かれてパドックに入場してきた。
場内にわあっと歓声が上がる。
春先のレースで骨折し、二つの季節を休養に当てた三歳の若竜だ。
すでに完成した古竜に対して未完成の三歳、しかも休養明けでぶっつけ本番に挑むという不安材料から、竜券を買う際に男が真っ先に候補から消した飛竜でもある。
上がった歓声に苦い顔をした男だったが、段々と近付いてくる競飛竜の姿には思わず目を見張った。
青い鱗が冬の澄んだ日差しを反射して宝石のように輝いていた。
体の両脇に折り畳まれた翼の被膜は張り艶良く、薄っすらと血管が浮き上がる。
翼と背中を繋ぐ筋肉は、遠目にも分かるくらいくっきりと隆起して、飛竜が歩くたびしなやかに形を変えた。
骨折からの休養明けとは思えない、見事な竜体の仕上がりだった。
なにより以前見た時とは纏う空気が違う。
歩くたび上下する顔はイレ込むことなく、かといって注意散漫な様子もなく落ち着き払っている。前を見据える金色に輝く瞳には、ギラギラとした闘志がみなぎっていた。
身体全体から湯気の如く立ち昇る闘気が見えそうな気迫を纏った姿。古竜相手にも良い勝負ができるんじゃないか———。
そこまで男が考えた時、ふいにとうの競飛竜、アオノハーレーと目が合った。
静かに燃え立つ黄金の炎と。
———一瞬にして辺りの喧騒が遠のく。
男とアオノハーレーの間に不思議な静寂が訪れた。
男の斜め前で周回を見学していた少女が、『てんてん』と聞き覚えのない単語を呟きながら手を振っていた。少女が手を振るたび頭の上で高く一つ結びにした金髪が揺れる。
きっとアオノハーレーが自分を見てくれたと喜んでいるのだろう。
だが男には分かる。
少女には悪いが、アオノハーレーは自分をこそ見ているのだ。
その証拠に、闘志を陽炎のように揺らめかせたアオノハーレーの金色の瞳が雄弁に、男に語りかけてきた。
『———なぜ、買わない?』
『なぜお前は私を買わないのだ。このレース、勝つのは私であるというのに』
物言わぬはずの飛竜は、それでも確かにそう訴えていた。
じっと男を見ていたアオノハーレーの鼻先が持ち上がり、天に向かって力強く突き出される。
『疾く、私の勝利を記した竜券を買いに行け!!』
高く上がったいななきの中、男は確かに声を聞いた。
気押されて半歩後ろに下がった男は、そのまま背中を押されるように踵を返すと、人混みを押し分け販売所へと駆け出す。
男にとって競竜は積み重なるデータを分析するものであり、そこに思い入れやロマンといったものは存在しない。
男の集めたデータはアオノハーレーの勝利を否定している。
しかし男の直感はアオノハーレーが勝つと告げていた。
息を切らせ販売所に駆け込みながら、男はこの日初めて長年集めたデータより『直感』を信じることにした。
*****
「こーら、どうどう。やる気満々すぎー溢れすぎーそのやる気はレース本番で解放するべしー。今は落ち着かれたしー」
それまで大人しく周回していたはずが、急に立ち止まったかと思うと天に向かって吼えたアオノハーレーを落ち着かせようとアルルアが手綱を手繰る。
焦りの感情を表に出しては逆効果なので淡々と言い聞かせているうちに、停止の合図が聞こえてきた。
アルルアの声かけに効果があったのか、またはただの気まぐれか。ぶふんと大きく鼻息を吐いて落ち着きを取り戻したハーレーの元に、調教師のトトーが小走りで駆け寄ってきた。
「アル!大丈夫かい?」
「はい、なんか一瞬だけテンション爆上がりしたっぽいですけど今はダイジョーブそーです」
「そうかい良かった……ここまできて何かあったらいけないからね」
目に見えてほっとしたトトーは、心なしか頬の肉が削げ、以前より痩せたように見える。
近くで見なければ気づかない程度だがアルルアも、輝かんばかりに仕上がったアオノハーレーとは反対に肌艶が良くない。
「クロトーワのお姫様がぶち上げたセンセンフコクを伯爵様が買っちゃった時はどーしよって感じでしたけど……なんとかなるもんですねぇ」
しみじみとした調子でアルルアが言うのに、トトーもまたどこか疲れた顔で同意する。
ハーレーが放牧から戻ってきてから今日まで。ガガラド竜舎の面々は心休まる日はなかった。
怪我からの休養明けだ。本来なら慎重に調教を再開し、仕上がりと状態確認もかねて前哨戦として1レース挟みたかったのだが。
放牧明け直前に決定した次走。期間的に叩きのレースを使う余裕はなく、ぶっつけ本番で挑むことになってしまった。
かといって中途半端な仕上がりでレースに出せば竜主に顔向けできないのは勿論、あらゆる方面から総叩きに合うことはわかりきっていた。
それだけアオノハーレーの復帰戦は注目されていたのだ。
とにかくまずは無事にレースを迎えて終えること。けれど可能な限り仕上がりは完璧に。
ガガラド竜舎に課せられたのはなかなかに無理難題だった。
日が進むにつれ積み重なる目に見えない重圧と心労。迫る期日。注目飛竜の情報をなんとか引き出そうと接触をはかる記者達をちぎっては投げちぎっては投げ……。取り付く島もない調教師の対応に、それならばと標的にされた騎手のシークエスが「飛竜は頑張ってるよ」と答えになっているんだかわからないコメントを出していた記憶も薄っすらある。
今日に至るまでの怒涛の日々を思い出して、トトーはしみじみと呟く。
「こればっかりはハーレーのおかげもある。この子はまるでレースが近い事を理解しているみたいに自分で身体を作ってくれたからね」
放牧明けに帰ってきたハーレーは以前にもまして調教を真面目にこなし、食事量をコントロールして自ら体を絞ってさえみせた。
あの食べることに目がなく、ガガラド竜舎一の食いしん坊と言っても過言ではないアオノハーレーが、である。
「最初はハレちんの食事量が減った!って心配したけど……成長したねハレちん!」
褒められたことを理解したかのように、誇らしげに胸を張る青い飛竜を見上げて、トトーは目を細めた。
「飛竜の中にはレースが近い事を察知して自ら体重を調整する個体もいるけれど……これも競飛竜としての素養かね」
闘志みなぎるアオノハーレーを前に、小柄なドワーフの調教師は太い腕を組む。一度目を閉じ、呼吸を整えてから再びアオノハーレーを見上げた。
「ハーレー、行っておいで。そしてなによりもまず元気に戻ってくるんだよ」
応えるようにアオノハーレーが首を上下に激しく振る。
頷き返しているかのようなタイミングの良さに、綱を手にしたままアルルアが吹き出す。トトーもまた一瞬とはいえレースの重圧が跳ね除けられたような心地で笑みを浮かべると、視線をパドックの一角に移した。
そこには人が出入りするための扉が取り付けられていた。
レースに参加する騎手らが待機する控え室に通じる、両開きの簡素な扉だ。
その扉が内側からゆっくり押し開かれ、レースに参加する騎手が続々と控え室から出てくる。
どの騎手もみな一流の騎手ばかりだが、場内の視線の多くは2人の騎手に集まっていた。
黒を基調に、腕部には紫のラインが腕輪のごとく三連並ぶ。両肩から斜めに伸びる青いたすきが交差する柄の勝負服に身を包んだシークエス。
薄灰色の布地に太い白の縦縞が首から下へ真っ直ぐ伸び、肩から手首にも一本白いラインが伸びるデザインの勝負服を身につけたカヤトー。
それぞれ伯爵家と公爵家の家紋を背負った2人の騎手は、偶然隣に並び立っていた。
鞭を小脇に挟み、ゴーグルの位置を調整していたシークエスと、指ぬきグローブに包まれた手を握って開いてを繰り返すカヤトー。
隣に立つ騎手の存在にほぼ同時に気付いた二人の視線が交わる。
数秒の沈黙。
どちらも言葉をかけることはなく、互いに無言でその場を離れる。
それぞれを待つ愛竜の元へ行くために。
それぞれの飛竜こそが勝利すると信じて。
多くの人々が見守る中、一年に幕を下ろす大一番アルアージェ皇国記念祭が始まる。
ミュゼが関係者としてではなく一般パドックに居た理由は近くでファンの反応が見れるからです。それとレース前にハーレーの近くに行ったら止めてしまうかもしれないという思いもありました。
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