第41話 VSお母さん
前触れもなく現れた男の姿に、何をしに来たんだと訝しみながら、互いを隔てる柵へと近付く。
見知らぬ人間を警戒してか、ひっつき虫のコーラルは数歩距離を置いて様子を見るつもりのようだ。
柵越しに向かい合うと、シークエスの毒々しい燐光を宿したライムグリーンの瞳が、痩せた月のように撓む。
黒から紫へとグラデーションのかかった髪に縁取られた胡散臭い笑みは久々に見たが、のどかな牧場風景と最高にミスマッチだな。
今日の服装は、騎手がレース時に着用している見慣れたレーシングスーツみたいな服ではなく、ラフな私服なので違和感もあるし。
「ハーレーよかったなあ。ディアーさんはわざわざお見舞いに来てくれたんだよ」
「良いところで静養できているみたいで安心しました」
ジブンの鼻先を撫でながら、暢気に笑いかけるおじさんに、手を後ろで組んだシークエスが笑顔で応じる。
ふーん、お見舞いねぇ。
再度シークエスを、頭の先から足先まで観察する。
……それなら、その後ろ手に隠している御土産を早くこっちに寄越しな。何かいいモン持ってるんだろ?察しはついてるんだよ!
柵の隙間から首を突き出して、激しく上下させるジブンの催促に、シークエスは呆れたように片眉を上げた。
「なーんだ、やっぱりバレてんのか。ほんっと食い気が凄いヤツだな……ほら、お見舞い」
そう言って、シークエスは背後に回していた手を、持ち上げてジブンへと差し出す。
———それは可愛らしい花束だった。
確かにお見舞いのド定番といえば花だよね。でも飛竜に花ってどうなん……いや待て。花束から漂う、この香りは!
顔を動かして四方八方から花束を観察。すぴすぴと鼻を近付け匂いを確認。
こ、これは間違いない!
……えー、ちょっとこの花束すごいんですケドー!
花束の割に緑多めだなと思ったら、全部飛竜が食べられる葉っぱや花で統一されてるよ!
しかも花の一部は果物でできている。リュウゴウの実を薄く細長くスライスして、くるくる巻いて、薔薇の花みたいにしてるのもある。かんわいい!
名前のわからないメロンみたいな、オレンジ色した肉厚の果肉を、花に見立ててカッティングしたものとか匂いからしておいしそー!
すごい。これ、飛竜専用に作られた可食の花束だ!
驚きと興奮で開いた口の端から、ヨダレが垂れそうになる。はしたなくヨダレを溢す失態は、すんでのところで堪えたが、ごきゅっと喉が鳴るのは止められなかった。
ジブンの目の色が変わった事に気付いたのだろう、シークエスの口元が得意げににやつく。わざとらしく目の前で花束揺らすな!花束動かしてジブンの目線が追ってくるか確認すなー!
「パドック周回の時とか、植え込みの花を気にしてたから絶対気にいると思ってたよ」
ぐぐぅ、これはサプライズとして完璧……でもよりによって、コイツから貰うのはなんか悔しい。そんな気持ちで、シークエスと花束を見比べていると。
「女の子に会うなら花束の一つくらい持っていかないとな」
ばちん、と音がしそうなほど完璧なウィンクを送られてしまった。
キザな仕草だが、顔の造作自体はいいから似合うんだよなあ……でもオマエ。いくらハーレーちゃんがキャワワな牝竜チャンだとは言え、そんなキザなことを飛竜相手にしてるんじゃないよ。
人間の女の子にやれ、女の子に。
レースの時、応援に来てくれている、明らかにお前目当ての通称『シーくんガチ勢 (アルルアちゃん命名)』達には塩対応なくせによー。
彼女達はそこがいい〜とか言ってる、鍛えられた新境地開拓団だけどさ。
いつかのレース後に目撃した、シークエスとファンのやり取りを思い出し、しらーっと冷めた目を向けていると。
ぼたっ。ぼたたっ。
近くで、何かが滴り落ちる音がした。
なぬ?堪えきれなかったヨダレか?!
焦って下を確認したが、ジブンの足元にはそれらしき痕跡は見当たらない。
じゃあどこから?きょろきょろ辺りを見回すと。
ぼた、ぼた、ぼた。
匂いに釣られたらしいコーラルが、鼻をひくつかせ、半開きの口から決壊したかのような、夥しい量の涎を滴らせて隣に並んでいた。
かっぴらいた視線の先には、シークエスが差し出しているオシャレ美味しそうな花束が。
コイツの短い竜生では、まだ食べたこともないものばかりだろうに、ソレが美味しい食べ物だと認識しているらしい。
まったく現金なやつめ。これはお前のじゃないんだからな!散れッ、散れぃ!
花束へと、吸い寄せられるように顔を寄せようとしたコーラルに、口を大きく開いてシャアッと威嚇する。
飛竜は序列に厳しい生き物なのだ。先輩の物を横取りなんて許されない、つまりこれは教育的指導。
叱責されたコーラルはというと、ピィ〜と情けなく鳴いて首を縮こまらせたが、視線は未練がましく花束に固定されている。
……図太いヤツめ!
再度叱りつけようと鎌首を持ち上げたところで、横から眉をハの字に下げたおじさんの邪魔が入った。
「こら、姉妹なんだから仲良くしなさい」
首筋を宥めるように摩られて、しぶしぶ引き下がる。
でも横取りしようとする方が悪くない?!小さいからって甘やかしたらダメなんですよ、まったく。
「食べ物が絡むと急に頭悪くなるなお前……」
庇われたコーラルをじっとり睨み付けていると、やれやれと言った仕草で肩をすくめたシークエスが、リュウゴウで作ったバラの花を一輪、花束の中から引き抜いて差し出してきた。
ヒャッホウ!いただきまーす!!
一口で口腔に収めたリュウゴウの花は、しゃくしゃくとした歯触りで、鮮度の良さを感じさせる。噛み締めるたび舌全体を包みこむ甘さ。その後からくる酸味が、味全体を引き締めて見事な調和を生み出している。見た目の美しさもさる事ながら、味も絶品だ。
茎の部分はヨツミツの枝でできているのか。硬すぎず、かといって柔らかすぎるわけでもない、しなやかな若枝だ。苦味も少なく果物の後味を邪魔しないから、これは名脇役だなポリポリ。
脳内でグルメレポートをしていると、今度はどうぞとばかりに花束が差し出される。
おおおお!!ここはビュッフェ!サラダバー!食べ放題!
このオレンジの果物すごいぞ……柔らかい果肉からジュースみたいに濃厚な果汁が溢れて……おいしい……お高いスイーツの味だあ……周りのさっぱりした味わいの花を箸休めに食べると……無限永久機関もぐもぐ……。
鼻をつっこみ、うっとり夢心地で食んでいる花束の向こう。シークエスがいかにも他所行きの、人当たりが良さそうに見える笑顔をおじさんに向ける。
「そうだ。この花束とは別に、差し入れで果物詰め合わせを持ってきているので、良ければ他の飛竜や皆さんも召し上がってください」
「我々にまでお気遣いいただいて……!ありがとうございます」
うさんくさスマイルを貼り付けているシークエスと、恐縮しきりといった様子でぺこぺこ頭を下げるおじさん。
隣ではおこぼれに預かりたいコーラルが、ヨダレを垂らしている。そわそわと足踏みをしているのが視界の端に見えるが……無視。あとで差し入れを分けてもらいなさい……って、——————おや?
遠くから駆け寄って来る狭い歩幅の足音を、飛竜の鋭敏な聴覚器官が拾う。これは!
「お父さん!ただいまー!」
花束から顔を上げると、敷地を区切る柵の間を、小走りで駆け寄って来るミュゼの姿が。
可愛いひとり娘の帰還に、おじさんの顔が綻ぶ。
「おかえりミュゼ。今ちょうどお客様がいらしていてね。ハーレーのお見舞いに来てくださったんだ」
そう言って、おじさんが身体の位置をずらす。
柵の脇に生えた木と、ガタイの良いヤフィスおじさんの陰に隠れていたシークエスの存在に、今初めて気付いたらしいミュゼが、あからさまに固まった。
わかる、わかる、びっくりするよね。突然こんな胡散臭い男が目の前に現れたら警戒するよ。ジブンも初対面の時そうだったし。実際、おおよそ口に出せないような性癖してるヘンタイだから警戒されても当然と言うか。まあ悪いやつではないんだけど。
初めてシークエスと会った時の、印象の悪さを思い出す。そんなこともあったと、懐かしくなりながら、再び花束を攻略するため首を———。
「テンテンに怪我させた人が、何のご用ですか」
放たれた高いソプラノは、静かな怒りに塗れていた。
向けられたのはジブンじゃないのに、動揺して伸ばした首を亀のように引っ込めてしまう。
身じろいだ時に鼻先が花束を叩いてしまい、衝撃で可愛らしい花束は、ぼとりと地面に転がった。
ミュゼが、見たことのない厳しい顔つきで、シークエスを睨んでいた。
普段のミュゼからは想像できない剣呑な言葉に、おじさんはぎょっとした表情で驚き、固まっている。
初対面でいきなり罵倒に近い言葉を浴びせられたシークエスは……なんとも言い難い、複雑な表情を浮かべていた。
「なんてことを言うんだ!ディアーさんに対して失礼だろう!」
凍りついた空気の中、目を剥いていたおじさんが、我に帰って険しい顔で2人の間に立つ。
「……だって、ほんとのことだもん」
「ミュゼ!すみません。ディアーさん、すぐ謝罪を———」
頑ななミュゼの態度に、声を荒げかけたおじさんの肩を、シークエスが掴んで止めた。
「待ってください、ホートリーさん。彼女と話をさせてもらえませんか?」
「しかしっ」
人間達の会話に割って入れないジブンは、ことの成り行きを見守ることしかできない。
ミュゼとシークエスを忙しなく交互に見遣る視界の端で、暢気なコーラルが落ちた花束を突いている。けれど今はそれどころじゃなかった。
「ハーレーの一番傍に居ながら、無事にレースを終えさせてあげられなかったのは俺の責任です。彼女が俺を責める気持ちも理解できます」
静かにミュゼの言葉を肯定するシークエスに、焦る。
だってジブンが怪我をしたのは、シークエスのせいじゃない。シークエスが止めたのも聞かずにジブンが勝手にやった結果なのに。
ジブンが言葉を紡げないばかりに、シークエスが矢面に立たされている。
ミュゼに誤解させたままになっている。
「ごめんね……君のお父さんにも言ったけど、俺の力量不足だ」
全ての元凶であるジブンの目の前で、シークエスは深く頭を下げた。
顔の横を流れ落ちた髪の隙間から、人間より長くエルフより短い耳が覗く。
大人からこんなに素直に謝罪されるとは思っていなかったのだろう。謝罪を受けたミュゼが、気圧されたように一歩後退いた。
柵越しに戸惑うミュゼと目が合う。狼狽えているジブンを見て、ミュゼが唇を噛んだのが見て取れた。
「なら……もう二度と危ないことはさせないって、怪我させたりしないって約束してくださいっ!じゃないと、わ、私は———」
涙声で俯き、それ以上を言葉にできないミュゼ。
顔を上げたシークエスは、一瞬どこか遠くを見る目をした。次いで不可思議な光を宿す虹彩を細める。
いつもの皮肉げな表情とは少し、温度が違う気がした。
「俺はね……相手が子どもだからって理由で、こども騙しとか気休めを言いたく無いんだ。誠実じゃないからさ。だからハッキリ言う。飛竜が生き物である以上、絶対なんて言葉は使えないし約束もできない」
懇願を、撥ね付けられたと取ったミュゼの顔が苦しげに歪み、次いで怒りに染まる。
しかし、何か言おうと彼女が口を開くよりシークエスが言葉を続ける方が早かった。
「だけど、ハーレーに怪我をしてほしくない気持ちは俺も同じだよ。あの時なんとかしてあげられなかったのか、ずっと考えてるし———きっとこれからも考え続ける。だからハーレーがもしまた同じように無茶をしようとしたら、俺は次こそ命をかけてでも止めるよ。それが飛竜の背に乗って、彼らの命を預かる俺の誠意だ」
いつもは胡散臭い笑みを浮かべて、斜に構えているような男だが、その言葉は真摯だった。
ミュゼの榛色をした瞳が揺れる。猜疑と信じたい気持ちがせめぎ合っているのかも知れない。
あともうひと押しだと思う。だけどその一手を、人間達の誰も持っていない。
気まずい沈黙の中、必死に頭を回転させる。
言葉で仲裁できないとはいえ、なんとかしないと。だってこの修羅場は全部ジブンのせいなのだから。このまま傍観しているわけにはいかない。
ミュゼがシークエスを信じてみようって踏み出せるきっかけ、きっかけさえあれば…………そうだ!
閃いて、即座に柵の間から首を伸ばす。近くに立つシークエスの服の袖を咥えて、引っ張った。
「わっ?!……こらハーレー、何すんだ!」
「テンテンどうしたの、危ないよっ!?」
完全に意識の埒外から腕を引かれ、シークエスがたたらを踏んだ。
それを見たミュゼが慌てて止めるので、袖を離す代わりにシークエスに見えるように身を屈める。
なあなあ、ちょっと乗ってけ!ミュゼの前で騎手を乗せて飛んでも大丈夫だって実演しよう!ついでに改良型ロケット加速も試せたら一石二鳥だ!こっち来い!
乗りやすいよう下げた頭を、柵に小さく打ち付けて催促する。怪訝な顔をしていたシークエスが目を見開いた。
「もしかして……乗れって言いたいのか?無理だろ、ここはトゥリームオじゃないんだ。そもそも鞍も無いし」
言い聞かせるように首を横に振られて気づく。確かに鞍も舵もついてない今の状態では、跨ったとしても人を乗せて安全に飛ぶのは不可能だ。
どうしようかと思っていると、ジブン達のやりとりを見ていたおじさんが、助け舟を出してくれた。
「一式持ってきましょう。ハーレーが満足するように、ちょっとだけ乗ってやってください」
言うや否や、シークエスの返答を聞く前に、おじさんは竜舎の方へ走り去ってしまった。もしかしたらおじさんもきっかけを探していたのかも知れない。
「……えぇ、マジ?」
残されたシークエスが、面食らって目を瞬かせる。
そして居心地悪そうに視線をそらすミュゼと、尻尾の先を小刻みに揺らすジブンを見比べて、盛大に溜息をついた。
「俺、休暇できてんだけど……しかたねーな」
*****
ホートリー竜牧場の空を、青い飛竜が飛ぶ。優雅に———とは、決して言えない動きで。
「…………テンテン、すっごい引っ掛かってる。お父さん、あれは大丈夫なの?」
細長い筒が二つ並んだ形の魔法道具を覗き込みながら、気まずさも忘れて横に立つ父に尋ねる。
見上げた上空では、テンテンが首を上げ下げして舵による制御をかわそうとしている。だが背中の騎手も、負けじと腕を引いてスピードを落とすよう制止をかけている。
「久々に騎手が乗ってテンションが上がりすぎてるんだろうね……でも好き勝手しないように上手くいなしてくれているよ。さすがだ」
「……わかんない。テンテンが張り切りすぎてるのだけは、わかるけど。お父さんには、あの人が何をしてるかわかるの?」
視力強化の魔法をかけたことで、魔法道具を使うミュゼと同じように遠くが見えているヤフィスが指をさす。
「少しだけね……ほら、よく見てごらん。テンテンはもう何度か、あの加速をしようとしてる。けど全部ディアー騎手が待ったをかけてるんだよ」
父親の指差す先。一時大人しく飛んでいたテンテンが、バランスを崩して僅かにぐらついた。父の言葉通りなら、鞍上の騎手が何かしたのだろう。詳しいことはミュゼにはわからなかった。
「ハーレーは頭が良いからね。ディアー騎手を乗せたら、凄い加速を使っても良いと学習していて彼を乗せたがったのかも知れない。でも騎手がテンテンに無茶しないよう言い聞かせながら飛んでくれているんだよ」
「……」
「みんなでケルクスを観戦した日……テンテンが落ちていく中で、彼は離脱せずに最後までテンテンのそばにいたことを覚えているかい?」
「…………うん」
映し鏡という魔法道具越しに見たレースを思い出し、ミュゼの表情が暗くなる。
「競飛竜が故障して墜落する時、その背から離脱する騎手は多い。騎手だけなら装備した魔法道具で離脱できるからね。墜落する飛竜に付き合って、助かる命をむざむざ危険に晒す必要はないんだ」
「でも、あの人……」
「そう。彼は最後までハーレーを見捨てないでいてくれた。墜落の衝撃を少なくして、ハーレーを助けようとしてくれたんだと、調教師の先生から聞いたよ」
ミュゼ達が話しこんでいる間に、どうやらテンテンと騎手は折り合いがついたらしい。それまで掛かっていたのがウソのように、テンテンは大人しく従順に飛翔し始めた。
「誰もが皆、それぞれの立場でハーレーを大事にしてくれているんだよ……そして。僕ら人間がどれだけ無事にレースを終えてくれと願って、努力したとしても。相手は言葉の通じない生き物だから、必ずその通りになるとは限らないんだ」
「……」
「大切な存在が傷つけられた時、やるせなさから僕らは誰かに責任を追求したくなる。それが正しい時もある……でも責任をたった1人に押し付けるのは間違いだよ。だってこれまでハーレーを支えて、レースに送り出した人間は1人じゃないんだから」
それは自分自身にも言い聞かせているような、含みのある言葉だった。
テンテンが心配で、助かって安堵して、現役を続けることに落胆した。テンテンが怪我をしてからというもの、ずっと自分の気持ちに手一杯で、周りの大人達の反応が、どこか冷めているように感じていたけれど。
間違いだったのかも知れないと、その時初めてミュゼは思い至った。
声をあげて訴える事だけが、飛竜の身を案じている証ではないのだ。きっと。
「お父さん、わたし……」
覗き込んでいた魔法道具を下ろして、握り込む。
「……ごめんなさいって、言えるかい?」
父の声は、いつも通り穏やかだった。
問いかけに小さく頷いて、再び空を見上げる。
遠く、高く。青空を背に、アオノハーレーが翼をはためかせている。
コースの終わりでカーブを描き旋回すると、徐々に高度を下げて、こちらへ戻ってくるつもりのようだ。
その姿に、ふと、牧場の空は狭そうだなと思った。
ヤフィス達が飛竜の訓練に使う牧場の一角は、飛竜が飛ぶのに十分な広さがあると、ずっと思っていた。
けれど今、騎手を背に飛ぶテンテンは、本気では飛べていない。
父や自分達に見つかると止められると理解して、こっそりあの加速をしていたテンテン。
もっと思い切り飛びたいのかも知れない。ここではない空を、全てを置き去りにするあの翼で。
騎手の袖を引っ張って、いかにも背中に乗れと言わんばかりに催促していたテンテンは、ミュゼの知らない顔をしていた。
騎手とアオノハーレー。2人の間にはミュゼの知らない時間があり、絆があるのだろう。
空を泳ぐ飛竜を追って、天を仰ぐ。
ミュゼも本当はわかっている。
テンテンを引退させたいという気持ちは、自分のわがままだ。
大事な仔竜を、怪我を言い訳に手元に連れ戻して安心したいだけ。
わかっている———でも。
「……ミュゼ。次にハーレーが飛ぶレース、見にいってみるかい?」
「えっ」
唐突に提案されて、驚きに目を見張る。
しかし悲しいかな。ホートリー竜牧場が最近まで陥っていた資金難を知っているミュゼは、行く行かないよりも、金銭の心配が一番に過ぎった。
父もそれに気付いたのだろう。大柄な背を丸め、どこか決まり悪げに頭を掻く。
「実はハーレーが重賞を飛ぶってなった時から何度も伯爵様からよければ観戦に来ないかと、お誘い頂いてたんだ。あの時期は出産や生まれたての仔竜らの世話で忙しいのを理由に、お断りしたんだけど……今なら人手も増えたから観に行けるよ」
「それって、お父さんも一緒?」
ミュゼの問いにヤフィスの表情が強張る。
「………… えっと……いや。父さんはホラ、伯爵様とお会いしたら緊張しちゃってうまく会話できそうにないし……他の貴族様方や、有名な竜牧場の方々と罷り間違ってお会いしたりしたら、なんと言うか、こう、ね」
「そっか。お父さん緊張したらダメダメだもんね」
普段は頼もしいのに、緊張すると錆びついて関節の曲がらない鎧のように、ぎこちなくなる父の姿を思い出す。ミュゼの顔につい、納得と哀れみが入り混じる。
父が明らかにショックを受けた風だったので、すぐに引っ込めたが。
「ヨーゼスに牧場主代理として、ついていってくれるよう頼むから!気兼ねなくレースを観戦しておいで。ついでに観光もしてくるといい」
なんとか気を取り直したヤフィスは、いつもの優しい笑顔で空を見上げた。
「鏡面越しに見るレースと、実際に競竜場で見るレースは違うよ。ハーレーがどんな風にレースをするのか。ハーレーの周囲に居る人達は、どんな人達なのか。どんな人達がハーレーを応援しているのかを、見て、感じてきてほしい」
*****
がり、がり、がり、がり。
「あーもー腕もげるかと思った」
柵の向こう。疲れた顔のシークエスが、両手を握っては開いてを繰り返すのを眺めながら、柵をがりがりと齧る。
これは別にひもじいわけじゃない。抗議だ。
せっかく新生ロケット加速を披露してやろうと思ったのに。この男ときたら加速を使おうとするたび、邪魔をして一切使わせてくれなかったのだ。せっかく乗せたのに!一石二鳥チャンスだったのに!
がりがり柵を削るジブンに、シークエスが呆れたように首を傾ける。
「ぶすくれんなって。療養中のくせに、またあの加速使おうとしたらそりゃ止めるだろ。療養中だぞ、りょーよーちゅー」
ぐぬ、ぐぬぬ……。
ド正論すぎて言い返せぬ。頭のネジどっか行ってるのに、こんなときはまともな事言うのかよ……ぐぬぬ。
「ま、牝竜三冠最後のラジアータ賞は出れないけど、ヤル気を無くしてないなら何よりだな」
ラジアータ。ケラスースとケルクスに並ぶ牝竜三冠の一角を担うレース。そういえば時期的にそろそろか。
脳裏に二つのレースを競り合った、あの白い影が蘇る。
……カイセイルメイは、出るのだろうか。いや、きっと———。
「お前の出ないラジアータなら、勝つのは間違いなくカイセイルメイだろうよ」
ジブンの心の声に答えるように、シークエスが面白くなさそうに呟く。
そしてにやついた表情を掻き消し、眉間に珍しくシワを寄せる。
「お前の復帰戦。センセーや竜主サマは、カイセイルメイとかち合う可能性のあるレースを避けての再出発も視野に入れてるみたいだけど……」
———今後カイセイルメイとは戦えない可能性がある?
……それって、つまり。
悔しさで、俯く。ギリギリと前脚の爪が地面を深く抉っていた。
ジブンの苛立ちを感じ取ったシークエスが、垂れ下がった首筋を撫でる。
上目遣いに見上げると、ジブンと同じように悔しさを滲ませた目とかちあった。
「勝ちを確実に拾って積み上げる。陣営の判断としては間違っちゃいない……でもそれはカイセイルメイから逃げてんのと同じだ。少なくとも俺は、お前があのバケモンに劣るなんてこれっぽっちも思ってねーよ」
ジブンの無事を信じて待ってくれる人たちがいるように。ジブンの勝利を信じて疑わない人がいる。
そうだ。ジブンは1人でレースに、カイセイルメイに挑むんじゃないんだ。
幾つレースを経ることになっても、必ずカイセイルメイと再戦する。コイツと一緒に。
気を取り直して顔を上げる。
シークエスもまた「なるようにしかならないか」と締め括り、強張った肩をほぐすように大きく回す。
その胸元で、キラリと何かが光を弾いた。
それは片手の手のひらに包めるくらいの大きさの、ペンダントだった。
正円に近い楕円形をしたペンダントトップには、透明の石———魔力を帯びていることから魔導石だとわかる———が嵌め込まれている。
魔導石の中にはどんな技術か、複雑な幾何学模様が彫り込まれており、ペンダントが揺れ動く度に模様が浮かんでは消えていく。
手の込んだ品だと少し見ただけでわかる。惜しむらくは嵌め込まれた魔導石に、水に垂らした墨のような黒ずみが見える点か。
シークエスの胸元で揺れ光るペンダントに見入っていると、視線に気付いたシークエスが、ひどく億劫そうな顔でペンダントを摘んだ。
「あー……、先週ツェツェールで乗ったからな……また黒くなってきてら」
どこか忌々しげなシークエスの言葉に、記憶を漁る。
ツェツェールっていうと、風がめちゃくちゃ荒れてたマツカゼ記念で飛んだとこか。
それとペンダントに、何の関係があるんだろう?
プライベートが伺い知れない男の、僅かに覗かせた個人的な事情にちょーーーっとだけ興味が湧く。
「そんなじろじろ見てもこれは食べられねーって」
ジブンが興味津々なことに気付いたシークエスが、胡乱な目をしてペンダントを握り込む。
食べんわい!
魔導石だからか、魔石と違って謎の吸引力もないし。
———……ただ。
柵の間から首を伸ばし、シークエスの胸元に鼻先を押し付ける。正確にはペンダントを握り込んだ手の甲にだ。
その状態で大きく息を吸い込む。鼻腔を通り抜けるのはシークエス個人の匂いだけ。他に特別おかしな匂いがしたりといった違和感は感じないが、本能的に解る。この『黒いの』は良くないものだ。
だから。
汚いの汚いの、どっかに飛んでけー!
『ブフゥゥゥゥゥ!!』
「おわっ?!何!」
胸元で盛大な鼻息を吐かれたシークエスが、驚き仰け反る。
さっと身を引いて距離を取ったシークエスの胸元は、少し湿っていた。
「は?何事?くしゃみ?めちゃくちゃ鼻水つけられてんだけど」
それはふかこーりょくだ。と言うか、他にもっと注目すべきところがあるでしょうが!
濡れた服の胸元を、嫌そうに摘んでいたシークエスが、ペンダントの変化に気付いて目を見開く。
「あ、石が……」
黒い濁りが消え失せ、透き通って煌めく魔導石。
どうやら成功したらしい。
あの黒いヤな感じのが魔力由来だとすると、空気清浄機能付きの飛竜ちゃんなら、もしかしたらできるんじゃないかと思ったんだよね。
今後はこまめにメンテナンスしなさいよ———って……わ、ワァ!???
だー!!もう!急に抱きつくなっての!情緒がジェットコースターか何かでできていらっしゃる??
首にしがみついてくる男を、振り解こうとも思ったが。なんか……感極まってるみたいだし……ちょっとなら許すか。
仕方なく、大人しくされるがままにしていると、抱きしめるシークエスの腕の力がかすかに強くなった。
「どのレースに出るにしろ、絶対に勝つぞ」
誰に、とは言わなかった。
でも言われなくてもわかっていたし、答えだって決まっていた。
当たり前だ。
返事の代わりに、シークエスの肩を鼻先で小突く。
こちとら、あの白い小さな背中に、もう一度挑まないと終われないんだ。そうだろ?
———シークエスの来訪から暫くして。
療養を終えたジブンは、名残を惜しみつつ生まれ故郷に別れを告げた。今度は無事に、怪我なく戻ることを胸に誓って。
そして、再びトゥリームオへと舞い戻ったのだった。
明けましておめでとうございます。
今年も他の作家様方と比べて低速ではありますが、更新して参りますので、どうぞ宜しくお願いします。
良いか悪いかは別として、シークエスは騎手の中でもかなりロマンチストです。ただ人間相手には発揮されません。
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