第36話 魂の庭にて
暗闇があった。
目の前どころかジブンと周囲の境すら朧げで、目を開けているのか閉じているのかも定かではないような真っ暗闇が。
『———ばかだなぁ』
暗闇に誰かの声がぽとんと落ちてきた。
『アレは俺の記憶であって、今を生きるお前の怒りじゃないのに』
呆れたような、悲しむような、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、静かで穏やかな声。
どこか聞き覚えがある気がする。
誰だろう。暗闇に溶けて存在しているのかすら判らない目を凝らす。
他者を認識したいと考えたからか、暗闇しかなかった世界にゆっくりとジブンの存在が浮かび上がる。
暗闇から瞼が生まれて、持ち上がり、瞬く。
ぼんやりした視界に1人の人間が、こちらに背を向けて佇んでいた。
彼———後ろ姿しか見えないが背格好からして年若い男性だろう———の前には一枚のキャンバスを乗せた木製のイーゼル。
キャンバスには描きかけではあるが、艶やかな栗色の毛並みの馬が、のんびり草を食んでいる姿が描かれている。
ぼやけた意識と視界がクリアになるにつれて、目の前に立つ人間の向こうに広がる景色も見えてきた。
そこは生命力に溢れた常盤色の草が、風にそよいで波打つ草原。
変わっているのは空で、一般的に空の色とされる青ではなく、桜色を白で薄めたような不思議な色合いをしている。時折、星のような何かが控えめに煌めいていた。
現実味のない光景の中、キャンバスに向かい合う人間は相変わらず、こちらへ背中を向けたまま振り返ろうとはしない。
けれど後ろ姿だけでもわかる。これはジブンだ。ジブンがいる。
人間だった前々世のジブンが、色とりどりの絵の具で汚れたパレットと絵筆を手に、キャンバスに向かって立っていた。
『違うよ』
心を読んだみたいな早さで、目の前の人物に即座に否定される。
こちとらドラゴンだから人間に理解できる声なんて出せないはずだけど。
『わかるさ。だって俺はお前の前世で、魂が繋がっているんだから』
ジブンではないと否定しながら前々世は肯定する人間が、キャンバスに色をのせるのを止めて、こちらを振り向く。
キャンバスの中のモデルであろう栗毛の馬が、草原の少し離れた場所から、尾を振りながらゆったりとした足取りで草を掻き分け、近づいてくるのも見えた。
あっちも見覚えがある。競走馬だった前世のジブンだ。
前々世の人間だったジブンと、前世の競走馬だったジブンが並ぶ。現実では絶対にあり得ない光景だ。
人間のジブンが、隣に来た競走馬のジブンの、額から鼻筋にかけて平筆で一筆刷いたような白い模様を撫でる。
『確かに俺達は前々世や前世ではあるけど……死を境に人生は断絶され、新たに生まれ直している。魂は同じでもお前は俺じゃない。俺達はそれぞれが違う存在なんだよ。今を生きているお前は、なんでか俺らの記録を保持したまま生まれてきた別の存在ってことさ』
魂は同じだけど違う?……難しい事言うなあ。
それに前世のキミたちがいる、ここはどこなんだ。
頭に浮かんだ思考は、どうやら本当にそのまま2人に伝わるらしい。
前々世くんが『ああ』と頷いて空を見上げる。
『ここは、誰かに説明されたわけでもないから表現するのが難しいんだけど……魂の中。死んだ者の記憶が眠る場所、みたいなものかな』
あの世みたいなもの?ならジブンも死んじゃったの?
墜落後の痛みと身体が冷えていく感覚を思い出し身震いする。
そんなジブンに、前々世くんは安心させるように笑みを浮かべ、ゆるくかぶりを振った。
『今のところ死んでは、いないね———でも怪我しただろ?あの後、痛みや心的負荷から身体が強制的に意識を落としたみたいだ。恐らくその急な意識喪失を魂が死んだと誤認しちゃった感じかな。本来まだ来るべきところではないことは確かだよ』
なるほど、三途リバーのちょい手前ってわけね。じゃあ前々世くんたちは「お前はこっちに来るのはまだ早い」ってしに来てくれたのか。
『……解釈自体は間違ってないけど、なーんか緊張感なくて力が抜けるなあ……。それと俺らが「こっちに来るのはまだ早い」しに来たってのは違う。人生終わってのんびりしてる組の休憩室に天井突き破って落ちてきた迷惑な闖入者ってのが正しい』
…………はあ?
こっちはそんなつもりないんだが?勝手に勘違いして勝手にご招待してきた魂のシステムに問題あるんだからひとを無断侵入したみたいに言わないで。あと落ちるって単語も言わないで。ジブンの中でその言葉は本日からセンシティブワードに登録されたから。みんな心配してるだろうしお暇できるなら今すぐ現世に帰りたいから早くおうちに帰して!
『ああいうのんびりした環境で育ったらこんな緊張感のないやつになるんだな……』
前々世くんの呆れた声に同意するように隣の馬が顔を逸らしてぶふーん、と鼻息を吐く。人間ならこれ見よがしに溜め息をついている仕草だ。我ながら腹立つな。
『それ。さっきも言ったろ、もう違うんだよ』
緩んでいた前々世くんの雰囲気が変わる。
拒絶とは少し違う、意識して突き放そうとするような物言いをしている気がした。
『俺もこの子もお前も。生まれた世界も場所も生き物としての枠組みすら違う。記憶を引き継いでいるだけの全く違う存在だ』
そこまで言って、前々世くんの顔が堪えられなかったようにくしゃりと歪んだ。
『……だから俺の怒りを、俺達が得られなかったものを、お前が肩代わりしなくていいんだよ』
泣き出しそうな、申し訳なさそうな、様々な感情が入り混じった表情から告げられた言葉に、知らず息を呑む。
———忌々しい夕日。いつかと重なるシチュエーション。繰り返す悪夢から派生した怒りと焦燥。
ジブンを苦しめ続けたのものは、ジブンのものではないと?
『そうだよ。お前には優しい親も、優しい人たちも、帰りを待っている子だっているだろ?だからもう失敗した過去に囚われなくていいんだ。お前はお前の人生を生きろ』
戸惑うジブンへ、前々世くんは栗毛の馬を撫でていたのと同じように手を伸ばす。
温度のない手のひらに鼻筋を撫でられながら、言われた言葉を理解しようと、彼の言を頭の中で繰り返し噛み締める。
こうして現実から切り離された状況に置かれ、誰かと語ることで少し冷静になれた今なら分かる。
最近のジブンは感情に振り回されてかなり視野が狭くなっていて、良くない状態だった。
心配してくれていた人達が居てくれたのに、彼らの優しさを受け取る余裕をなくして1人で暴走した。
過去に囚われていたというのは、正にその通りだろう。
——————だけど。
だけど今のジブンがあるのは失敗した過去がいたからじゃないのか?
前々世の絵を描く事が好きだった少年が居なければ、ジブンは魔力を操るイメージが上手くできなくて飛ぶのに、もっと苦労しただろう。
それじゃあミュゼは助けられなかった。
イメージを形にするというのは誰もが同じ水準でできるわけじゃない。想像力というものは人によってまちまちだからだ。
緻密さが求められる魔力操作がすぐにできたのはイメージを何度も形にしてきた経験があったからだ。
前世で真面目に走らなかった競走馬が居なければ、ジブンは今回の転生でも勝負から逃げたかもしれない。
生き残ることへの貪欲さもなく、何も学ぼうとせず、努力を嫌って楽な方に逃げていただろう。
それだとジブンはまたお肉になってしまったかもしれない。
『それなら俺達から得た教訓だけを選んで生きなよ。俺達の未練や怒りはここに置いていけ』
前々世くんの言葉に賛同するように、横合いから栗毛の馬が鼻を押し付けてきた。こちらもやはり温度が感じられないのは、彼らが既に生を終えた者だからなのだろうか。
ジブンも頭を持ち上げて、白いラインの引かれた鼻先にそっと鱗に覆われた鼻を擦り合わせる。
人生という道のりを終えた者とまだ道半ばの者として、ジブンと過去を切り離そうとする言動。
これは過去から今を生きるジブンへ向けたエールだ。
誰にも知られないジブンの葛藤を、足掻きを、同じ魂として知っているからこそ、枷になりかねない過去から現在を解き放とうとしてくれているんだ。
過去が積み重ねた良い経験だけを持って行けと。後悔や憤りといった負債は背負ってくれるなと。
———それでもやっぱり、さ。
ジブンは『同じ魂として』未練や怒りもひっくるめて今を生きてみたいと思うよ。
誰が認めてくれなくても、誰の記憶に残らなくてもジブンだけは覚えて、背負ってやりたい。
周りに認められず苦悩を抱えたまま死んだ人間のことも。ろくに走らなかった奇行を繰り返すおかしな馬のことも。
その怒りも、無様も、全部。
だってそれができるのは現在だけじゃないか。
きみたちが培った経験を踏まえて生きていくなら、何もかも引っくるめて生きていきたい。
これは過去を糧に今を生きるジブンが、過去に示せる誠意だ。
『ばかだなぁ……』
ジブンの言葉に、前々世くんは目覚めた時、一番最初に届いた言葉をまた呟く。やっぱり静かで穏やかな声だった。
それに、悔しいものは悔しいよ。
夕日の中、追い付けない白い背が目を閉じれば今でもはっきり思い出せるほど、瞼の裏にこびりついている。
あの背中を見て胸の内に荒れ狂った感情は本当に過去を重ねただけだったのか?
カイセイルメイに勝ちたいという思いは。
負けたままは嫌だと叫ぶ心は、誰かの記憶に引き摺られただけじゃないはずだ。
誰かに譲られた勝利でなく。誰かの過去に振り回されて挑むのではなく。
繰り返してきた転生の中で培った、ジブン自身の力でカイセイルメイという飛竜から勝利を勝ち取りたい。
支えてくれたたくさんの人達に胸を張って勝ったと報告したい。
この気持ちはジブンの心から生まれたもののはずだ。
強い決意を込めて前々世くんを見つめると、彼は少しの間考えるように瞑目し、再び目を見開いてやれやれとばかりに肩をすくめた。
そしてわざと茶化すように意地悪く、口の端を持ち上げる。
『なら、うーんと頑張らないとだぜ。だってお前のあの一発芸じゃ白い飛竜に勝てないんだし』
待て待て待てぇい。一発芸ってロケット加速のこと?お笑いの一発屋みたいな扱いやめてもらえます?!
『2発目が不発になるところもそっくりだな』
やっかましい誰が上手いこと言えと?!じゃあ逆に聞きますけどお前らに、トップスピードは劣るもののアホほど長く続く末翼を持っていて、しかも前で勝負をすることもできるカイセイルメイを打倒できる策があんのかよ!
自棄っぱちに吠えるジブンに対して1人と一頭は顔を見合わせ、何言ってんのと言わんばかりの表情で揃ってこちらを見る。
『ないけど?だって俺達は既に人生を終えた過去だから、今生での壁を乗り越える打開策を考えるのはそれこそ今を生きるお前の仕事でしょ』
そこは「3人よれば文殊の知恵と言うし、ここに落ちてきたのも何かの縁。前世やら前々世やらのよしみでちょっくら相談に乗るか〜」って熱い流れに持ってこうよ!急にドライにならないで。さっきまでの応援姿勢はどこに行ったの?!知恵を貸してよ〜!!
『がんばれ〜』
『モーイ』
やる気のない形ばかりの応援ありがと!
馬に至っては飽きて寝転がりながら草食ってるし。モーイって何だ、それが馬の鳴き声か!!
恥も外聞もなく草むらの上で仰向けになり———夢の中のようなものだからだろう、怪我した翼は痛まなかった———全身を捩って、盛大に駄々を捏ねる。
流石に見かねたのか、心底呆れ果てた顔をしながら前々世くんが近くにしゃがみ込む。
『お前には元人間の知恵があるんだから周りをよく見て、聞いて。色々考えてみなって。そうやって作り出したのがロケット加速だろ?』
そりゃそうだけど……。ああ、どこかに打開策の糸口が転がってたらいいのに。
どうにもならないことを考えながら何とは無しに自身の身体を見て異変に気づく。
身体が薄っすら透けてないか?
……しかもなんか身体が上に引っ張られてる!
『おっ、そろそろ意識が戻るみたいだな』
不可思議な力によって体の輪郭が端から解けるように、ぼやけていく。
身体の感覚が消えていくにつれ、抗いがたい眠気に襲われて必死に瞬きを繰り返すその向こう。
前々世くんがエールを送るにしてはあまりに軽薄な調子で、こちらに両手を振っているのがぼやけながらも、かろうじて見えた。
『まあがんばれよ。———それとお前、俺が言うのもなんだけど一番忘れたらいけないこと忘れてるからな。おいおい後悔しろよ〜』
最後に不吉な事言わないで。なに、忘れてることって!忘れてると思うならちゃんと思い出させてよ!
訴えた直後。ぐっと引き上げられる感覚と共に視界がホワイトアウトした。
『……そっか、俺が絵を描き続けたことに意味はできたんだな』
白む世界の遠くの方で、誰かの声がぽとんと落ちて消えた。
*****
暗闇があった。
遠くで誰かの話し声。段々と何かが近づいてくる音に意識が覚醒する。
ぱちりと見開いた目に飛び込んできたのは見慣れた竜舎の天井。
どうやらここはジブンにあてがわれている竜房のようだ。
竜房の入り口付近に誰か人が———、のっぽとチビの2人組が立っている。
「おや、目が覚めたのかい」
「寝ていたらその間にさっさと済ませられたのに……御師様どうしますか?」
声に聞き覚えがない。知らない人間だ。
竜房の入り口に立っている人物達は揃って、裾の長いローブを羽織っている。色は逆光を背負っていることを踏まえてもなお黒い、光沢のない闇色。
フードを目深に被って素性が窺えない事も相俟って、なんとも不気味だ。
特に竜房の前に立つ背が高い方からは、後退りしたくなる嫌な気配を飛竜の本能が感じ取っている。
目が覚めて早々、なんだこの状況。
心の再帰は完了しましたが、一難去ってなんとやら。
少しでも面白いなと思っていただけた方はお手数ですが↓の
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をクリックして応援をしてくださると励みになります!
続きを気にしていただける方はブックマークしてくださると嬉しいです。
感想・コメントもお待ちしております。
ここまで目を通してくださりありがとうございました!




