第32話 屈辱の戴冠
アルアージェ皇国、中皇競竜において競飛竜を管理育成する施設が集う調教都市トゥリームオ。
その一角に小さな事務所を構える調教師トトー・ガガラドは事務所に一つしかない机を前に、管理飛竜の出走票や報告書を作成していた。
彼女の太く短い指が書類を捲り、几帳面な文字を綴る。
ふと、書類の上に影が差す。
事務作業用に掛けていた眼鏡を外し、視線を上げれば、アオノハーレーの担当竜務員であるアルルアが何か言いたげな様子で立っていた。
いつも眠そうで無気力にすら見られるきらいのある顔立ちに、焦りとも戸惑いともつかない色が浮かんでいる。
「先生ぇ……ハレちんのことなんですけど」
朝が早い竜務員の彼女は既に午前の仕事を終え、一足早く休憩に入っているはず。
休憩時間を押してまで報告したいことがあるのだと察して、トトーは手にしていた書類を机の端に寄せた。
「飼い葉の食い付きは良くなったと聞いたけど、どこか調子が良くないのかい?」
カイセイルメイとの激しい競り合いを制したケラスース戦の後。疲労が強く出たのか、アオノハーレーは普段の旺盛な食欲が嘘のように、何も口にしたがらなかった。
レースの疲労で一時的に食欲が落ちる飛竜は居る。しかしアオノハーレーは今までそういったデリケートさとは無縁で、だからこそ皆が心配した。
ケラスースから次走のケルクスは開催までの期間が1ヶ月しかないこともあって、体調が戻りきっていないのか。
トトーがそう、一番に思い浮かべた可能性を、アルルアは弱々しく首を横に振って否定する。
「ここ最近は、ごはんもちゃんと食べるようになったし、なにか嫌がるってわけじゃないんです。熱があるとか具合が悪いわけでもない……でもッ、なんてゆーかヘン!変なんですよぉ」
可愛らしい相貌を歯痒げに歪めたアルルアが、両手をわきわきと動かす。彼女自身、自分が感じ取った違和感を具体的に言語化できずにいるのだ。
ならばアオノハーレーと関わりのある別の人間からも意見を聞こうと、向かいのソファーに座って事務作業を手伝う調教助手の青年を見やる。
「サミュア。アオノハーレーに調教で乗った感触はどうだい?」
灰色の短髪に黒い目の朴訥とした雰囲気を持つ青年が、問いかけに、書類から顔を上げて少し考え込む。
「此方の指示は落ち着いて聞いてくれますし調教自体は順調です。……ただ、確かに普段より静かすぎる気はしますね」
「遊び心というか……余裕が見られない」サミュアの言葉にトトーは顎下で結んだ髭を摩る。
調教での動きに問題がないとすれば精神的なものだろうか。
目に見えて原因が突き止めやすい肉体的な問題と比べ、精神的な問題は目に見えない分厄介だ。そして決して軽んじてよいものでもない。
素晴らしい飛行で将来を期待されていた飛竜が、肉体の不調がないにも関わらず、ある日を境に突然翼を鈍らせてしまうこともあるのだから。
「念の為もう一度、竜医に診てもらうかね。あとは伯爵に進言した通りケルクスの後は生まれ故郷の竜牧場に放牧に出す。ハーレーは長く故郷に帰っていないから良い気分転換になるさ」
「……はいっ!」
放牧で良い方向に向かうかも知れないと、希望を持てたアルルアが心なしか安心した様子で大きく頷く。
竜医の手配をサミュアに頼みながら、トトーはふと事務所の入り口に新しく飾った一枚の映し絵を思い出す。
事務所に足を踏み入れて一番目に付くところに飾られたそれは、ケラスース勝利後に魔法道具を用いて一瞬を紙に焼き付け、作成した記念の一枚だ。
竜主とその関係者、自分、厩務員のアルルア、調教助手のサミュア、騎手のシークエス。
そして———……、笑顔を浮かべた人々に囲まれながら、首を垂れ地面を見つめ続けているアオノハーレー。
多くの調教師が夢見ながら、掴み取れるのはほんの一握りとされる競竜の華、G1レース。
トトーにとってもアオノハーレーのケラスースが調教師として初めて手にしたG1勝利だった。
映し絵を撮った時は興奮と感激でレースを観戦していた竜舎職員と抱き合い、嬉し涙を流したものだ。
しかし熱狂が過ぎ去り冷静になれた今、トトーもあの日嫌に静かだったアオノハーレーの様子が日に日に気にかかるようになっていた。
形容し難い何かが形になろうとしている。
アオノハーレーの異変は嵐を引きつれた暗雲の如く、トトーの胸をざわつかせた。
*****
ケルクスを1週間後に控えた、ある夜。
シークエスはガガラド竜舎を訪ねていた。
目的は当然、自身が鞍を任されたアオノハーレー。
トトーからハーレーの形容できない違和感について聞き、自らの目で相棒の様子を確かめに来たのだ。
「起きてるかな」
チッチッチッと小さく舌を鳴らして来訪者が来た事を告げながら竜房の前に立つ。
竜房の入り口には脱走防止のため、竜栓棒が水平に3本等間隔で建て付けてある。シークエスは建て付けてられたうちの真ん中に手を置くと、身体を乗り出して中を覗き込んだ。
薄暗闇がじっとり張り付いた竜房の隅で、ハーレーは眠りにつくでもなく踞り、ただじっとこちらを窺っていた。
金色に輝く瞳と、燐光をはらんだライムグリーンの瞳がかち合う。
困惑に揺らいだのはシークエスの瞳だった。
アオノハーレーという飛竜は今まで多くの競飛竜と関わってきたシークエスから見ても、特に喜怒哀楽がはっきりしていて、分かり易い飛竜だ。
嬉しいことも嫌なことも、露骨に態度に出てしまう。その単純さがシークエスには好ましかった——————なのに。
今目の前にいる飛竜はどうだ。感情表現に使われる長い尾は寝わらの上に横たわり、ぴくりともしない。
いつもは言葉の代わりに雄弁な金色の瞳も、何の感情も乗らず温度も感じられない。
貴金属のように光を反射するだけの空虚な目。
物心ついた時から孤児院で過ごしたシークエスには、この瞳に見覚えがあった。
拒絶している。
誰か特定を、ではなく。等しく全て拒絶している。
孤児院に連れて来られたばかりの子どもがよくする目だ。親を亡くした、あるいは育児放棄されたなどの理由から庇護してくれる存在を失い、傷付きぼろぼろになって辿り着いた子どもが見せる目。
居場所がない。自分がどうしたらいいのかわからない。これからどうなるのかわからない。
心の奥底に悲しみや怒り、怯え、そういった様々な感情が渦巻いているにも関わらず、極度の心理的負荷から感情を発露させられずに自分の殻に閉じこもってしまっているような。
そんな子ども達と同じ目を、ハーレーがしている。
どうしてそうなったのかはわからない。竜務員も調教師も、周囲は皆ハーレーを優しく大事に扱ってきたはずだ。
———けれど自分たちの預かり知らぬところで、なにかにハーレーは苦しんでいる。
その『なにか』に自分たちは思い至る事ができないでいる。
いてもたってもいられず、気づけばシークエスは竜房の中へ手を差し伸べていた。
孤児院で先生から新しい子を紹介された時、前からいる子が自然とそうするように。
「ハーレー、今度のケルクス飛べるか?」
問いかけの意味を理解したわけではないだろう。
けれどハーレーは竜房の片隅から起き上がると、のそりと一歩二歩シークエスに歩み寄って———……止まった。
どれだけシークエスが身を乗り出しても、指先ひとつぶん届かない距離。
差し出された手のひらに答えはない。
普段の彼女であれば『めんどくさいなあ』と書かれた顔でそっぽを向くか、『しかたないなあ』と言わんばかりの態度で額を撫でさせるために近寄ってくるのに。
今のアオノハーレーは、擦り寄るでも拒絶するでもなく、ただ差し出された手のひらをじっと見つめている。
その様子にシークエスは眉間に寄った皺を隠すように、差し出した手のひらを引いて握り拳を作り、額に当てる。
「忘れるなよ、オレとお前で飛ぶんだ」
祈りのような呟きが、応える者のいない竜舎に落ちた。
ここからしばらく空気が重い展開になりますが、主人公の成長の為に必要なお話なのでお付き合い頂ければと思います。
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