第29話 巡る、巡る、巡り合わせ
「絵を描くのやめないでよ」
縋るような声が切実な響きを持って、夕陽で赤く染まった美術室に落ちた。
教室の中で画材を整理するジブンの背後に、顔も思い出せない少年が立っている。
これは夢だ。
だってこの光景は遠い昔に終わったことの追体験。
ジブンの1度目の生。高校生だったころの、人生最後の日。
「仕方ないだろ。勉強してちょっとでもいい大学に行くには、絵なんて描く暇ないって。お前は美大推薦貰えるんだろ?俺の分まで頑張れよな」
「そんな……」
「親にもいつまでも夢に逃げてないで現実に向き合えってずっと言われてたんだ」
背中を向けたまま、不要になったスケッチブックや描きかけの絵をゴミとして分別する『俺』を、透明な第三の視点から観測している。まるでテレビドラマを観ているかのようだ。
「そんなの横暴だよ!夢だとか現実だとかもっともらしいこと言って子どもを操りたいだけじゃないか」
自分の事のように憤ってくれる背後の少年は、不思議なことにどんなに意識して見ても顔に靄がかかって不明瞭だ。
羨ましくて、妬ましくて、でも眩しくて。あんなに見ていたはずなのに。
「世の中さ、お前んちみたく優しくって良い親ばっかじゃないんだって」
「ッ!……だとしても———」
なおも言い募ろうとする少年に、煩わしさを隠しもせず、かつての『俺』は言葉を被せる。
「疲れたんだ。描いても描いても望んだ結果が出ない、描くことが好きだったはずなのに描き続けるには結果が必要で……描き続けたって結果は伴わなくて。もう何のために絵を描いてたのか、何が描きたかったのかわかんないんだよ」
『こんな落書きに何の価値があるの?テストで100点とることの方がよっぽど嬉しいのに』
小学生の頃、母親の絵を描いて初めて賞を貰った時にその母親から投げつけられた言葉だ。
綺麗で外では優しい完璧なお母さん。そんな優しい時の母親が好きだったからいつも優しいお母さんでいてほしい、なんて。身勝手な願いを込めて描いた絵だったから、お母さんを怒らせてしまったんだろうか。
小学生のジブンはそんな風に考えた気がする。
今ならどんな絵を描いても己が自慢できるトロフィーに相応しくないものを喜ぶような人じゃなかったって理解できる。
けれどまだあの人が外向けに作った優しい母親に期待していた子どものジブンには、そりゃまあショックだった。
冷たい言葉に、小さなジブンの中にあった喜びや期待が一気に色褪せていったのを今でも覚えている。
そして胸の中の消え入りそうな灯火を、救い上げてくれた父さんの言葉も。
『賞を貰ったことも凄いことだけど、何よりお父さんはこの絵が大好きだよ。暖かい気持ちになれる優しい絵だ』
落ち込むジブンを抱き上げて、父さんはどこが好きだとかこの色使いが素敵だとか思い切り褒めてくれた。
父さんがくれた言葉のひとつひとつが灯火に焚べられる薪のように、胸の奥を暖かく照らしてくれた。
まあ、そんな優しかった父さんも中学に上がる頃に家を出て行って、それっきりだったけれど。
残されたのはあの日、父さんがくれた言葉だけだった。
それだけが母親に嫌な顔をされても絵を描き続ける灯火になった。父さんが焚べてくれた優しい小さな薪を大事に大事に抱えて、描き続けてきた。
父さんが褒めてくれたものに価値はあったんだって、いつか胸を張れたらと夢見ていたんだ。
『才能も無いのに続けてどうするの。そういう夢みがちで現実を見ないところ、本当あの男にそっくり』
『少しはお母さんが自慢できるような息子になってよ』
『お母さんを困らせて楽しい?』
『君の絵にはさぁ、彼の絵みたいな華がないんだよね』
あの人に詰られるたび、結果が出せなくて焦るたびに胸の中の炎が、薪が、小さく見窄らしくなっていった。
———そして、気付く。いつの間にか胸の中の灯火はすっかり燃え尽きていたことに。
『自分には才能が無い。』
諦めて現実を受け入れれば、空虚さと引き換えに心が楽になった。
……そう、楽になったんだ。
「———だったら」
ガラクタに成り果てた作品を破ろうとした手を、後ろから強い力で止められる。
やめてくれ。それ以上は過去の追想でも聞きたくない。
「先生に美大への推薦枠を譲ってもらうよう頼むから。だから絵を描くことだけはやめないでよ」
空虚な心に亀裂が走る。
ひび割れた心の隙間から抑えきれない猛烈な怒りが噴き出す。
「ふざけんな!!」
制止された手を振り払い、掴んだままのゴミを床に叩きつけ立ち上がる。
目の前が、夕陽のせいか怒りからか、真っ赤に染まっていた。
「お前からお情けで譲られた席に座って俺が本当に喜ぶとでも思ってんのかよ?!」
何度も何度も敵わないと思い知らされた相手だった。
だけど。だからこそ。
心からは無理でも、せめて対等な友人として応援したかった。受かった時は祝福できる自分でありたかったのに。
自分自身に残った最後のプライドまで徹底的に踏み躙られた。
もう何も残らない。
綺麗なものは何も。
残った汚泥じみた醜い言葉だけが止める力を失って、口から吹き出し続ける。
「勉強もできて!才能もあって!親にだって恵まれてる!なのにまだ俺を惨めにさせるのか?!」
そんな眼で俺を見るな。憐れむような、死にかけの虫を上から覗き込むようなそんな眼で、俺を見ないでくれ。
いつも隣に立って『俺』の絵を好きだと言い続けてくれた、お前にだけは同情なんかされたくなかったのに。
……ああ、いやだ。
惨めで、惨めで———消えてしまいたい。
*****
最悪の目覚めなんですけどー。
ジブンの寝言にびっくりして起きる日が来るとは思わなかった。
ふんぎゃお!とか言う聞いたこともない大声をあげた上に尻尾で壁を叩いてしまったらしく、隣のお部屋の飛竜から向けられた不機嫌な気配の痛いこと痛いこと。
就寝中に壁ドンされたら腹立つよね、申し訳ない。
図らずも叩き起こしてしまったお隣さんだったが、やがて穏やかな寝息と共に再び夢の中へ。
対してジブンは、また夢を見たらと思うと二度寝もできず、そのまままんじりともせず朝を迎えることになった。
そんなこんなで本日は二歳牝竜三冠のひとつめ、G1ケラスース賞当日。
この大事な日に夢見が悪いとか。
転生前のことなんて久しく思い出していなかったのに、ついてないなあ。
幸い夢見が悪くて少し寝不足なことを除けば、体調はすこぶる良好なのだけれど。
昨夜見た陰鬱な夢の名残りを引き摺ったままパドックを周るジブンに、綱を引くアルルアちゃんが眉を下げ困りきった顔で声を掛ける。
「ハレちん朝からご機嫌斜めじゃん、どうしちゃったの?お願いだから頑張ってよ〜」
がんばる。がんばりますとも。
周回を止める号令が場内に響き、騎手がそれぞれの競飛竜の元へやってくる。
シークエスが軽く腕を伸ばし、ストレッチしながら近付いてくるのを何をするでもなく待つ。
「ディアー騎手、今日はよろしくお願いしまーす」
「はいはい、よろしくお願いします……って、ハーレーはどうしたの。パドックの植木でも齧った?」
ヘルメットの下、相も変わらずのにやけ面で「渋そうな顔してるぞ」などとのたまうデリカシー無し男が撫でようと伸ばした手から、プイとそっぽを向いて逃げる。
人のこと常時腹ペコドラゴンだとでも思ってんのか。もっと『体調悪いの?大丈夫?』とか親身な心配をしろ。
そもそもあの植木は舌が痺れるくらい渋くて葉っぱもモソモソしてるから二度と齧らんわい!
「今日は植木テイスティングしてないんですけど、なーんか朝からご機嫌ナナメなんですよ〜」
「レース前にここまであからさまなのは珍しいな。飛べるかハーレー?」
アルルアちゃんの訴えを受けて、シークエスの口元から笑みが消える。
気がかりな様子で探るように顔を覗き込んでくるのを、じろりと見下ろす。
……あったりまえだ、そのためにここに居るんだから飛べるに決まってるだろ。
言葉を返せない代わりに首を下げて乗りやすい体勢をとって見せる。
言葉を理解しているような———実際理解しているんだけど———ジブンの動作。
驚いたのか一瞬呆気に取られたシークエスだったが、やがて堪え切れず肩を震わせて笑うと、軽やかな跳躍で背中に跨った。
手綱を握られる感触と共に、胴を挟むシークエスの脚に力が込もる。
首の付け根を暖かな手のひらが叩く。
「わかったよ。行こう、オレ達の力をここで証明しよう」
飛翔場からスタート地点の浮島に舞い降りると、生い茂る若草のしっとりとした柔らかな感触を足裏が拾う。
春の訪れと共に浮島も鮮やかな萌葱色に包まれ、のびのびと生え揃った若草の間に、白い小さな花がぽつぽつ顔を覗かせている。
ここまで来る間に幾つか見知った顔を見つけていた。
ラーレ賞で混戦の2着争いを制した、真っ黒な額にぽつりと灰色の模様がある競飛竜。
顔全体を覆面で覆っているけれど鱗の色とあの落ち着きのなさでわかる。薄紅飛竜もいた。……また暴走に巻き込まれたらイヤだからなるべく近寄らんとこ。
他にも何頭かレースで対峙した飛竜達がいた。
初めて見る顔もあるがG1というだけあって、どの競飛竜も羽ばたきから生み出す魔力は力強く、見目も良い。
そういえばこのレース。トトー先生達が最も警戒していた、既にG1を一勝している飛竜が参加するはずだ。
どれが噂の『カイセイルメイ』だろう。
あたりを見渡すべく、首を高く持ち上げたジブンから少し離れた場所。後続の飛竜が一頭、視界の端に着地した。
見慣れない色を見た気がして、その飛竜へと視線を向ける。
ちょうど彼方もジブンを見ていたらしい。
ばちりと目と目が合う。
頭から尻尾の先まで真っ白な競飛竜だった。
若草の上に降り立った姿は、季節外れの名残り雪を連想させる。
体格は決して良いとは言えない。当歳竜と見紛うほど小柄で、大人の中に一頭子どもが混じってしまったようなちぐはぐさだ。
鱗の色の珍しさとあいまって、一頭だけ周りから浮き上がる異様な存在感があった。
珍しい白い鱗、小さな体格。
どこかで見たことある気がする。どこで会ったんだったか……あれは確か———ってぬぉわっ!
記憶を探ろうと意識が逸れた、ほんの数秒。
離れた場所から地を滑るように飛んできた白い飛竜があっという間に距離を詰めてきた。
近い近い近い!パーソナルスペース極狭どころか皆無!君になくてもジブンにはあるの侵犯しないで。守ろうソーシャルディスタンス!あとなんでちょっと嬉しそうなのさ!
急接近してきた白竜にたじろいだシークエスがジブンを逃がそうと手綱を引くが、引いた分だけ相手が寄ってくるので、いたちごっこだ。
「おい!危ないから距離離せ!」
「す、すみません!ルー、落ち着くんだ」
苛立つシークエスに咎められ、白い飛竜の鞍上も懸命に宥めているが効果がない。
お互いの鞍上が揉めているのも気にせず、白い飛竜は首を伸ばして懸命にこちらへ顔を寄せようとしてくる。
あどけない、その瞳に記憶が呼び起こされる。
あっ!
———思い出したぞ!いつかのいじめられてた白い飛竜じゃん。
えっ、キミも出るのケラスースに?
鞍上はもしかしなくても金色の飛竜から庇っていたダークエルフくんか?
得心がいって後退るのをやめたジブンに、白い飛竜はこれ幸いとばかりに距離を詰めてくる。
ふんすふんすと鼻息荒く顔を近づけてるのって、もしやこれ挨拶しようとしてる?
飛竜同士の挨拶は幾つかあるが、その中のひとつに『鼻先を互いに擦り合わせる』というものがある。人間の握手に該当する挨拶だ。
それにしてもやっぱり距離感はおかしいけど。普通挨拶はこんな一方的なやり方じゃない。
人間で例えるなら、握手しようと手を差し出したら鼻息荒くハグしようとされている……みたいな。
「ルー、お前アオノハーレーのこと覚えてたのか」
「竜舎も離れてるけどハーレーと顔見知り?」
「調教に行く時一度会ったことが……ただそれっきり会えたことはなかったので、まさか覚えてるとは」
騎手2人の会話からすると向こうの鞍上はやはり、アルルアちゃんがはしゃいでいたダークエルフくんみたいだ。
ふわふわした巻き毛の黒髪越しに此方を窺っていた白竜の、初対面の印象が蘇る。
あの時も、見た目だけでなく動作にも幼いものを感じたのだが。接していると違和感としてはっきりわかる。
コミュニケーションがぎこちないんだ。今も見様見真似で頑張ろうとしているように思える。
……もしかして他の飛竜と交流が極端に少なかったりするのだろうか。
思い当たった可能性と、何より白竜の「ぜったいあいさつします!」と言わんばかりの熱心さに折れて、白竜が届かない高さに逃していた顔をそろりと下ろす。
白竜のまろい大きな瞳が金色の光を弾いて煌めいた。
いてっ。
予想通りというか、まあそうだろうなというか。
擦り合わせるどころか勢いよくぶつかってきたやっぱり下手くそな挨拶。
ぐりぐりと鼻先を強く押し付けられるのに我ながら辛抱して耐えていると。
『クルクルクルクル……』
白い飛竜の喉から独特の高い音が鳴る。
……これって『友鳴き』?
いやいや、友鳴きって普通は群れの親しい飛竜同士がするコミュニケーション手段よ。
ジブンも一度だけ病気の赤ちゃんを抱えた母親に害意がないよアピールで使ったけど、あれは人間相手だから例外。
本来は親子や特に親しい仲間への呼びかけに使うもの。一回会っただけの飛竜同士でやるようなものじゃないから期待に満ちた目で見られても困る。
今からレースに挑む敵同士でもあるのに、これは流石に応えられないよ。
幾度か喉を鳴らしても、困って固まってしまったジブンが応えてくれないと察した白竜が目に見えて落ち込む。
その首筋を鞍上の騎手くんが慰めるように優しく撫でた。
「ルー、ルメイ。挨拶はさせてもらったろ?もう行くよ」
手綱を引かれて白竜は最後に名残惜しげにジブンを見たが、再度引かれた手綱に諦めてゲートへと向かって行く。
———何だかジブンってば、何事もなくレース開始できたことの方が少なくないか?
人間なら盛大にため息をつきたいところだ。
ともあれレースに気持ちを切り替えないと。と、思ったところで背中のシークエスがいまだ白い飛竜に注目していることに気付いた。
どうした、まだ急に詰め寄られたこと怒ってんの?
「カイセイルメイ……フィーユドメリジーヌを大差勝ちした化け物とは思えない変わった飛竜だな」
シークエスが漏らした呆れとも驚きともつかない独り言に目を見開く。
カイセイルメイ。
あの白い小さな飛竜が?
竜舎のみんなやシークエスが度々話題にあげていた競飛竜だって?
離れて行く小さな背中を信じられない思いで見つめる。
純白の姿は見目は良いもののどこか儚げで、背中から伸びた翼も身体の大きさに見合って小さく、とても強そうには思えない。
けれどあいつが。小さなあいつこそがこのケラスース賞における最大の壁だというのか。
ごうっ!
前触れもなく春一番を思わせる突風が浮島を吹き抜けた。
足元に咲く花の白い花弁が空に舞い上がる。
———春の嵐が訪れようとしていた。
予約投稿忘れていました、すみません。
ようやくライバル、カイセイルメイ登場です。
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