5:70「キミと伴にあるために 1」
「んぶ――っ!?」
「ん゛ーーーーっ! ん゛ん゛ん゛!!!」
えっ?
何され……キス!?
は!?
何故キス!?
余りに突然のこと過ぎて、唇に触れた感触が一瞬遅れてやってくる。
その感触からまた一瞬遅れて、体の奥底から熱が湧き上がって来た。
心拍数が急激に上がり、体が嫌でも火照ってくる。
黒コートのグレィは俺の手首からその手を離し、流れるように背中へと回してくる。
そして同じくして、彼のほんの少し開いている口の隙間から、何かが俺の口の中に入ろうと――。
「っ!!!」
何かが入ろうと唇をつついてきたところで、俺は半ば反射的に、自由になった右手で思いっきり黒コートを突き飛ばした。
まあ突き飛ばしたなんて言っても、俺の力じゃあ精々一歩後ろに引かせる程度しかできなかったのだが。
「いっ! いきなり何するんだよ!?」
「……やはり、だめか」
やはりって何!
時と場所を考えてどうぞ!
「もういいよ。これ以上は押せないと分かった――どうやら、殺すしか方法はなさそうだ」
「なっ――!?」
急に血相を変えた黒コートが、左手に魔力刃を創り出し、瞬時に俺の喉元を掻っ切ろうと斬り上げてきた。
体を大きく仰け反らせ、俺はなんとか紙一重のところでこれを回避する。
左手足が拘束されているため距離を置くこともできず、俺は次の動きを見失わないようにと、黒コートの方へ今一度首を戻そうとする――と、その直後。
次は左の首筋へ向けて、頑強な岩にでもぶつけたかのようなすさまじい痛みが襲ってきた。
黒コートが振り上げた左腕を、そのまま肘打ちにして戻してきたのだ。
首だけでなく顎の先にも当たってしまい、その動きで頭が大きく揺らされた。
軽い脳震盪に陥ってしまい、体のバランスが大きく崩れてしまった。
眩暈にも襲われ、膝をつかずにはいられない。
衝撃によって乱れた髪も垂れ落ちてきて、更に視界が悪くなる。
少しの間だが頭がぼんやりとして、まともに思考を巡らすこともできなかった。
「かはっ! はっ! アァっ――ハァ……」
「あっけないな。……これで終わりだよ、お嬢」
「ん゛ん゛ーーーーっっ!!!!」
体が思うように動かない。
思う事すらも思い通りにいかない。
黒コートの声は聞こえていたが、その言葉を理解することすらも、思うようにいかなかった。
ただ自覚しているのは、このままじゃ死ぬという……ぼんやりとした意識。
動くこともままならない状況で、俺は目の前にある死を待っていた。
一秒 二秒 三秒 四秒 五秒――――。
永遠とも思えるぼんやりとした時間。
……いつまでこの時間が続くのだろう。
「……?」
いつまでたっても景色が変わらない。
少し長すぎると思ったのは、思考が回復してくると同時だった。
「おい。これは何のマネかな。」
「れ、以上……お嬢、に、触る……な……!」
「……黙ってろと言ったハズなんだけど」
ゆっくりと、ほんの少しだけ視界を動かしてみる。
俺に向けられていた魔力刃は、触れる寸前のところでフルフルと震えていた。
どうやったのかはわからないが、タキシードのグレィは口と右手の拘束を破り、黒コートの腕をがっしりとつかんでいる。
「グレィ……!」
「チッ。どこにそんな力が……痛いじゃないか」
「……我の中に、戻れ……!」
「ッッッ! ……うるさぃ!」
怒りに大きく顔を歪ませた黒コートが、右手にも魔力刃を精製し、タキシードの肩に振り下ろした。
魔力刃は肩甲骨のど真ん中を貫き、白黒の空間に真っ赤な雫が流れて行く。
「グッっあああああ」
「グレィ!!」
一心不乱に彼の体を支えようとして、俺は半分前倒しになるグレィへ向かって体を起こした。
手足が拘束されていることも、黒コートに攻撃されることすらも忘れ、ぎこちない動きで漆黒の玉座に手をかける。
そしてこの手がグレィの手に触れた、その瞬間――。
「!!!!」
互いの手が触れたその一瞬。ほんの一瞬だけ、何が起こったのかわからなかった。
でもその一瞬で……全部が分かった気がした。
グレィがいなくなってしまった――俺がエルナであることを選んだあの日。
グレィが暴走してから今に至るまでの、全ての記憶が、俺の中に入り込んできた。
長い長い悪夢のような、闇の底に沈んでいく絶望と、その過程で気が付いた暴走の『真相』。
その更に先であった、俺との再会と約束。
これがきっかけとなり、暴走したもうひとつの自分に必死に抗った……それでも足りずに、弱っていく体と心。
これは過去に何度か経験した、【視魂の術】の効果の一つだった。
しかしこのすぐ後の事。
魔力刃を受けたグレィは、ぐったりと身体を倒したまま動かなくなってしまった。
死んでしまったワケではないようだが、心なしかその姿がほんの少しだけ薄くなっているように見える。
ここは精神世界……そこで姿が薄くなっていくということは、おそらく存在の消滅を意味している。
本格的に、本当に時間が無くなってきているという事だ。
「手間取らせる……不純物の分際で」
「不純物じゃない!」
少々乱暴に地面を蹴り、立ち上がった。
そして左足を軸にくるりと後ろを振り向き、再び黒コートのグレィと向き合う。
互いに時間がないからか、彼の表情と頬を伝う汗から焦りの感情を感じた。
「今わかった。お前――いや、貴方が何なのか」
「何?」
グレィの記憶を見て、どうして暴走してしまったのかを知った。
俺を守ろうとして受けた矢に塗られた劇薬。
竜族の血を増強させるだけでなく、強制的に竜化――力の象徴たる姿に変身するということは、奥底に眠る闘争本能をも呼び覚ますのだろう。
目の前にいるのは、その本能そのものだ。
グレィは人間に尊敬の念を抱いたり、俺なんかに恋してしまう(人のことは言えないが)ようなヤツだ。きっと元からその手の意識というものは低いほうだったに違いない。
初めて会った時だって、レーラ姫を救うためならと、仕方なくやっていたにすぎなかった。だからと言って人里一つ潰そうとするのは見過ごせない案件だけれども。
そんなもともと極小だった本能が、薬によって急激に膨れ上がり、あろうことか「本来の道へ正す」などと言い放ち、体を乗っ取ろうとしている。
本来の、王としての道へ。
でも今の俺には、これが別の言葉に聞こえてならなかった。
「……消えたくないんだよね、貴方も」
「世迷言を!!」
黒コートが吐き捨てるように俺に言い放ちながら、右の魔力刃で俺を斬りつけようとする。
俺は杖を精製すると、両手でこれを構え、杖の柄でもって黒コートの魔力刃をなんとか防ぐ。
目の前にいるのはグレィのうちに眠っていた闘争本能。
つまり彼も、分身でもなんでもなく、俺が愛しているグレィなのだということ。
俺はつばぜり合いをしている中で、賢者の試練での出来事を思い出していた。
心のうちに眠る『負』の自分と向き合い、乗り越えること。
グレィにとっては、この闘争本能こそがそれに当たるんだろう。
でもグレィ自身は、暴走のおりに顔を出してきた彼を受け入れず、もう一人の自分として人格を形成してしまった。
暴走状態に必死にあらがおうとしているうちに、いつの間にかその元となる本能自体までもを否定してしまっていたのだ。
だから彼は今、自分の存在を守ろうと、自由を手に入れようと必死にあらがっている。
だったら、今の俺がしてあげられることは一つしかなかった。
俺とグレィのつばぜり合いは、圧倒的に俺のほうが不利。
杖が押され、もうこれ以上はダメだというところまで来ると、俺は杖を放棄して一瞬体の重心を右足へ移動する。
こうしてグレィの魔力刃をまたギリギリのところで避けると、次の攻撃が来るまでに両手を彼の首の後ろへと回す。
そのままぎゅっと体を押し寄せて、俺はできるだけ優しく喉を鳴らした。




