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【書籍化・コミカライズ決定】ワンオペ母が悪役令嬢になったら、攻略対象が地雷にしか見えない件  作者: 葵 すみれ
第二章 杖作成

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04.家族のようで家族じゃない──その距離が揺れる

 午前の光が温室いっぱいに満ちていた。

 緑葉の匂いと魔力の流れが混じり合い、静かな呼吸のように空間を包む。

 窓辺ではリーヴが鉢の縁に腰をかけ、光を吸い込むようにまどろんでいた。

 淡い若葉色の頬に日が当たるたび、体の内側で光の粒がやわらかくまたたく。


 私は観察記録の用紙にペンを走らせていた。

 『摂水量・安定。午前の魔力反応良好。感情変化、平穏。』


 そろそろ根元の湿度を測って──。

 そう思って立ち上がりかけたとき、リーヴの鉢のそばで微かな音がした。


「あ、測っておきました。湿度はちょうどいいです」


 グレンが小型の測定具を片づけながら、いつものように控えめに微笑んでいた。

 私が言う前にすべて終えているその気遣いに、思わず息が抜ける。


「……相変わらず気が利くのね。ありがとう」


「いえ。習慣みたいなものですから」


 少し離れた場所で、彼は他の植物にも水をやりながら穏やかな声をかける。


「カルディナート家の温室って、静かですね」


「ええ。祖父の代からずっとこうなの。植物の魔力が乱れないよう、外界との魔力流を最小限に抑えてあるわ」


 グレンは感心したように頷き、笑みを浮かべた。


「代々、よく整えられてきたんですね。家の歴史が感じられます」


「……表面上はね」


 思わず、口に出してしまっていた。

 グレンが首を傾げる。

 私はペンを止め、静かに言葉を継いだ。


「父は婿なの。カルディナート家の本流は母の血筋よ。母には兄がいたのだけれど、早くに亡くなったわ。そのあと、傍流の者たちが家を乗っ取ろうと動いたの。だから母は、王族を婿に迎えて口出しできないようにしたのよ」


 グレンは驚いたように目を瞬かせる。


「……つまり、閣下は王族のご出身なんですね」


「ええ。王弟の庶子として生まれた方よ。けれど、家柄よりも穏やかさ……静かな強さで母に選ばれた人。母が亡くなったあとも、あの人は決して声を荒げたことがないわ。静かなまま、全部を引き受けてきた」


 窓の外では、風に揺れた蔦が陽光を跳ね返している。

 光の揺らめきを見つめながら、私はふと遠い日のことを思い出した。


 ──あの頃の私は、公爵家の娘としての誇りよりも、恋に憧れる少女でしかなかった。

 ただひたすらに、王太子の背中を追いかけていた。

 もしあのまま結婚していれば、カルディナートの本流は私で途絶えていたのだろう。


 それでも、父は何も言わなかった。

 叱りもせず、止めもせず、ただ静かに見守っていた。

 ──私の幸福を第一に考えてくれていたから。


 私は小さく息を吐き、言葉を口に出した。


「……私が家を継ぐと宣言したときも、父は何も言わなかったの。本気かどうか、ただ確かめようとしているのだと思う」


 グレンが静かにまぶたを下ろした。


「ノエリアさまの幸福を、第一に考えておられるんですね」


「ええ。あの人はいつだって、家より私を優先してくれる。だからこそ……私の覚悟が本物かどうかを見極めようとしているのよ。甘やかしているようでいて、誰よりも厳しい人」


 言葉にしてみて、胸の奥にじんと温かさが広がった。

 あの人の強さは、たぶん怒らないことではなく、耐えられること。己を律し、それでいて必要なときには果断に動くことができる。

 ──グレンも、少し似ているかもしれない。


 彼もまた、言い返すことよりも黙って受け止める方を選ぶ。

 それは臆病だからではなく、誰かを傷つけたくないからだ。

 人に踏まれてもなお、穏やかでいられる強さ。

 自分の痛みを声にせず、他人の痛みに気づける強さ。


 そんな彼の姿を見ていると、ときどき思う。

 本当の強さというのは、力ではなく、静けさの中にあるのかもしれない──と。


 リーヴがその瞬間、小さく寝返りを打った。

 鉢の中の土がさらりと音を立て、光がふわりと散る。

 グレンが手を伸ばし、その頭を支えるように撫でた。


「……今日も、穏やかですね」


「あなたがいるからよ」


 私が言うと、彼は少し照れたように目を伏せる。

 指先の魔力がやさしくリーヴを包み、光が小さく瞬いた。


「託児所の頃を思い出します。誰かが眠っていて、誰かがその横で見守っている……そんな時間でした」


「そういう時間、悪くないわね」


「ええ。僕は、こういう静けさが好きです」


 リーヴの胸のあたりがゆるやかに光を放つ。

 その様子を見ながら、私は手元の記録帳を閉じた。

 緑の縁取りが視界に入る。


 ──彼が贈ってくれた、革のしおり。

 双葉を象った模様が浮かび、縁は丁寧に緑の糸で縫われている。

 忙しない日々の中でも、それを指先に感じるたび、心が落ち着いた。

 彼の真面目な横顔と、あのときの少し照れた笑顔が脳裏に浮かぶ。


 しおりをそっとなぞってから、私は机の上に置く。

 グレンが視線に気づいたのか、わずかに目を見開いた。

 すぐに言葉を探すようにまばたきをして、けれど何も言わず、ただ静かに微笑む。


 ──気づいているのね。

 あなたの贈り物が、私の支えになっていることを。


 その笑顔が、どうしようもなく胸に刺さる。

 穏やかで、優しくて、まっすぐで。

 だからこそ、余計に苦しい。


「家族って、こういうものなのかしらね。血ではなく、一緒に過ごすことでつながっていくもの」


「きっとそうです。誰かの隣に居続けることも、立派な守ることなんだと思います」


 その言葉に、心が少し軽くなった気がした。

 守ることと、託すこと。

 誰かに委ねる強さを、私は少しずつ学んでいるのかもしれない。


 ──けれど、ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。

 グレンが紅魔病を発症した夜、この温室で触れかけた手のぬくもりを思い出す。

 あれは夢のような一瞬だった。

 彼が病に倒れ、すべてが霧の中に消えてしまったけれど──。

 今こうして家族のように過ごすたび、心のどこかで問いが生まれる。


 ……これでいいのだろうか。


 リーヴが再び光を散らして、まどろみの中で小さく手を伸ばした。

 グレンがそれを受け取り、指先で握る。

 その瞬間、温かさと戸惑いが胸の奥でせめぎ合う。


 ──穏やかな午後。

 この光景が、いつまでも続けばいいと思える静けさ。


 けれど、時間は留まらない。

 リーヴの芽が伸びるように、私たちの歩みもまた進んでいく。


 そんなことを考えていた矢先──温室の扉が控えめに叩かれた。


「ノエリアさま、失礼いたします」


 侍女の穏やかな声が響く。

 私は顔を上げた。


「どうしたの?」


「学園の教師の方がお見えです。二学期の課程について、ご相談があるとのことで……」


「学園の、教師が?」


 一瞬だけ、グレンと視線を交わす。

 彼も小さく驚いたように目を瞬かせた。


 リーヴが、私たちの声に反応したのか、小さく身じろぎをする。

 その光がゆらりと揺れ、温室に新しい気配が流れ込んだ。


 ──穏やかな時間の先に、また一つの季節が訪れようとしている。

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