04.家族のようで家族じゃない──その距離が揺れる
午前の光が温室いっぱいに満ちていた。
緑葉の匂いと魔力の流れが混じり合い、静かな呼吸のように空間を包む。
窓辺ではリーヴが鉢の縁に腰をかけ、光を吸い込むようにまどろんでいた。
淡い若葉色の頬に日が当たるたび、体の内側で光の粒がやわらかくまたたく。
私は観察記録の用紙にペンを走らせていた。
『摂水量・安定。午前の魔力反応良好。感情変化、平穏。』
そろそろ根元の湿度を測って──。
そう思って立ち上がりかけたとき、リーヴの鉢のそばで微かな音がした。
「あ、測っておきました。湿度はちょうどいいです」
グレンが小型の測定具を片づけながら、いつものように控えめに微笑んでいた。
私が言う前にすべて終えているその気遣いに、思わず息が抜ける。
「……相変わらず気が利くのね。ありがとう」
「いえ。習慣みたいなものですから」
少し離れた場所で、彼は他の植物にも水をやりながら穏やかな声をかける。
「カルディナート家の温室って、静かですね」
「ええ。祖父の代からずっとこうなの。植物の魔力が乱れないよう、外界との魔力流を最小限に抑えてあるわ」
グレンは感心したように頷き、笑みを浮かべた。
「代々、よく整えられてきたんですね。家の歴史が感じられます」
「……表面上はね」
思わず、口に出してしまっていた。
グレンが首を傾げる。
私はペンを止め、静かに言葉を継いだ。
「父は婿なの。カルディナート家の本流は母の血筋よ。母には兄がいたのだけれど、早くに亡くなったわ。そのあと、傍流の者たちが家を乗っ取ろうと動いたの。だから母は、王族を婿に迎えて口出しできないようにしたのよ」
グレンは驚いたように目を瞬かせる。
「……つまり、閣下は王族のご出身なんですね」
「ええ。王弟の庶子として生まれた方よ。けれど、家柄よりも穏やかさ……静かな強さで母に選ばれた人。母が亡くなったあとも、あの人は決して声を荒げたことがないわ。静かなまま、全部を引き受けてきた」
窓の外では、風に揺れた蔦が陽光を跳ね返している。
光の揺らめきを見つめながら、私はふと遠い日のことを思い出した。
──あの頃の私は、公爵家の娘としての誇りよりも、恋に憧れる少女でしかなかった。
ただひたすらに、王太子の背中を追いかけていた。
もしあのまま結婚していれば、カルディナートの本流は私で途絶えていたのだろう。
それでも、父は何も言わなかった。
叱りもせず、止めもせず、ただ静かに見守っていた。
──私の幸福を第一に考えてくれていたから。
私は小さく息を吐き、言葉を口に出した。
「……私が家を継ぐと宣言したときも、父は何も言わなかったの。本気かどうか、ただ確かめようとしているのだと思う」
グレンが静かにまぶたを下ろした。
「ノエリアさまの幸福を、第一に考えておられるんですね」
「ええ。あの人はいつだって、家より私を優先してくれる。だからこそ……私の覚悟が本物かどうかを見極めようとしているのよ。甘やかしているようでいて、誰よりも厳しい人」
言葉にしてみて、胸の奥にじんと温かさが広がった。
あの人の強さは、たぶん怒らないことではなく、耐えられること。己を律し、それでいて必要なときには果断に動くことができる。
──グレンも、少し似ているかもしれない。
彼もまた、言い返すことよりも黙って受け止める方を選ぶ。
それは臆病だからではなく、誰かを傷つけたくないからだ。
人に踏まれてもなお、穏やかでいられる強さ。
自分の痛みを声にせず、他人の痛みに気づける強さ。
そんな彼の姿を見ていると、ときどき思う。
本当の強さというのは、力ではなく、静けさの中にあるのかもしれない──と。
リーヴがその瞬間、小さく寝返りを打った。
鉢の中の土がさらりと音を立て、光がふわりと散る。
グレンが手を伸ばし、その頭を支えるように撫でた。
「……今日も、穏やかですね」
「あなたがいるからよ」
私が言うと、彼は少し照れたように目を伏せる。
指先の魔力がやさしくリーヴを包み、光が小さく瞬いた。
「託児所の頃を思い出します。誰かが眠っていて、誰かがその横で見守っている……そんな時間でした」
「そういう時間、悪くないわね」
「ええ。僕は、こういう静けさが好きです」
リーヴの胸のあたりがゆるやかに光を放つ。
その様子を見ながら、私は手元の記録帳を閉じた。
緑の縁取りが視界に入る。
──彼が贈ってくれた、革のしおり。
双葉を象った模様が浮かび、縁は丁寧に緑の糸で縫われている。
忙しない日々の中でも、それを指先に感じるたび、心が落ち着いた。
彼の真面目な横顔と、あのときの少し照れた笑顔が脳裏に浮かぶ。
しおりをそっとなぞってから、私は机の上に置く。
グレンが視線に気づいたのか、わずかに目を見開いた。
すぐに言葉を探すようにまばたきをして、けれど何も言わず、ただ静かに微笑む。
──気づいているのね。
あなたの贈り物が、私の支えになっていることを。
その笑顔が、どうしようもなく胸に刺さる。
穏やかで、優しくて、まっすぐで。
だからこそ、余計に苦しい。
「家族って、こういうものなのかしらね。血ではなく、一緒に過ごすことでつながっていくもの」
「きっとそうです。誰かの隣に居続けることも、立派な守ることなんだと思います」
その言葉に、心が少し軽くなった気がした。
守ることと、託すこと。
誰かに委ねる強さを、私は少しずつ学んでいるのかもしれない。
──けれど、ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。
グレンが紅魔病を発症した夜、この温室で触れかけた手のぬくもりを思い出す。
あれは夢のような一瞬だった。
彼が病に倒れ、すべてが霧の中に消えてしまったけれど──。
今こうして家族のように過ごすたび、心のどこかで問いが生まれる。
……これでいいのだろうか。
リーヴが再び光を散らして、まどろみの中で小さく手を伸ばした。
グレンがそれを受け取り、指先で握る。
その瞬間、温かさと戸惑いが胸の奥でせめぎ合う。
──穏やかな午後。
この光景が、いつまでも続けばいいと思える静けさ。
けれど、時間は留まらない。
リーヴの芽が伸びるように、私たちの歩みもまた進んでいく。
そんなことを考えていた矢先──温室の扉が控えめに叩かれた。
「ノエリアさま、失礼いたします」
侍女の穏やかな声が響く。
私は顔を上げた。
「どうしたの?」
「学園の教師の方がお見えです。二学期の課程について、ご相談があるとのことで……」
「学園の、教師が?」
一瞬だけ、グレンと視線を交わす。
彼も小さく驚いたように目を瞬かせた。
リーヴが、私たちの声に反応したのか、小さく身じろぎをする。
その光がゆらりと揺れ、温室に新しい気配が流れ込んだ。
──穏やかな時間の先に、また一つの季節が訪れようとしている。




