03.地味男子を侮辱されたので、理詰めで黙らせました
長老の言葉が、廊下の空気を凍らせた。
子爵家の庶子ごとき──。
その一言に含まれた侮蔑は、決して聞き流せるものではなかった。
けれど、私は眉一つ動かさなかった。
怒りを見せることは、相手の思うつぼだ。
公爵家の名を背負う者として、感情よりも理を優先させるべき時がある。
「ずいぶんとご熱心ですのね。わざわざ、私の客人についてご関心をお寄せくださるなんて」
静かに言うと、長老の眉がわずかに動いた。
笑っているつもりなのかもしれないが、その目の奥は氷のようだ。
「客人……とは、随分なご表現を。公爵家に出入りを許されるのは、本来なら相応の血筋を持つ者のみ。それを庶子など……屋敷の格式が泣きますぞ」
すぐ傍らにいたグレンが、わずかに息を呑む。
それでも反論しようとはせず、抱えた書類を静かに握りしめた。
私は横目でその動きをとらえ、ほんの一瞬だけ視線を向ける。
──大丈夫、私に任せて。
目でそう伝えると、彼は小さく頷いて口を閉じた。
「そうかしら。彼は学園で正式に評価を受けた優秀な生徒です。紅魔病の経過観察という立派な理由もございます。公爵家の一室を使うに値する実績を持つ者に、出入りを禁じる理由はありませんわ」
私の声は、意識して穏やかに保った。
それでも、内側では熱いものが込み上げてくる。
リーヴの柔らかな光、グレンの誠実な笑顔──それらがこの男の言葉で汚されるのが、ただ悔しかった。
「実績、ですか。若造の手慰みを功績と呼ぶほど、カルディナート家も落ちぶれたと?」
「落ちぶれたかどうかを判断するのは、私ではなく、国ですわ」
その瞬間、長老の目がわずかに見開かれる。
廊下の奥から差し込む陽光が、床に細い線を描いた。
「学園の観察記録は王立研究所に提出されることになっています。つまり、彼の成果はすでに公的な評価を受けている。その事実をご存じでないのなら──長老こそ、少しお勉強が必要ではなくて?」
ぴたりと空気が止まった。
長老の頬がわずかに引きつる。
背後に立つ執事が、思わず息を呑む気配を見せた。
沈黙の中、グレンが小さく頭を下げる。
「……ノエリアさま」
その声には、言葉にできない感謝と戸惑いが交じっていた。
私はわずかに首を振り、穏やかに言う。
「この屋敷の客人に不敬な言葉を向けた場合──その責は、公爵家への侮辱として扱います。以後はご留意くださいませ、長老」
言い終えた瞬間、長老の顔から血の気が引いた。
頬が引きつり、返す言葉を失っている。
その沈黙を破るように、低く穏やかな声が廊下に響いた。
「……ずいぶんと声が大きいようだな」
はっとして振り向くと、そこに父が立っていた。
カルディナート公爵──この屋敷の主であり、私の父。
陽光を受けた金髪が静かに光を返し、淡い灰青の瞳がまっすぐに私たちを見つめている。
怒っているわけでも、威圧しているわけでもない。
けれど、その一歩で空気が変わった。
「……お父さま」
私が小さく頭を下げると、長老の顔に安堵が浮かんだ。
彼はまるで味方を得たかのように、饒舌に言葉を並べはじめる。
「閣下、よいところに。ご息女がこのような者──子爵家の庶子を屋敷に迎えておりましてな。公爵家の格式を守るためにも、私は忠告を申し上げていたのです。やはり、公爵家にはそれにふさわしい品格が必要。卑しい身の者を近づければ、外聞にも関わりますゆえ」
ああ、この人、本気で言っているのね。
父が来たことで、自分の意見が通るとでも思っているらしい。
私は一歩下がり、父の表情を見守った。
父はゆっくりと視線を長老に向けた。
声を荒らげることもなく、ただ静かに口を開く。
「……庶子、か」
長老が、ふっと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
だがその次の瞬間、場の空気が凍りついた。
「それは──私のことを指しているのか?」
長老の顔から血の気が引く音が聞こえそうだった。
目を見開いたまま、声にならない。
「か、閣下……まさか、そのような……!」
「私は先の王弟の庶子だ。正妃ではなく、側妃から生まれた。その卑しい身の者がカルディナート家を継ぎ、今ここにいる。それを外聞に関わると、君はそう言ったのか?」
「そ、それは……!」
長老は慌てて手を振った。
往生際の悪い声が、情けなく響く。
「閣下は側妃の子とはいえ、側妃さまもれっきとした名門貴族の令嬢であり、何より──王家の血をお引きになっておられます! 下々の庶子などとは……まったく、別の──」
「別の、何だ?」
父の声は低くも静かで、その場の誰も動けなかった。
長老の唇が震える。
「……っ……」
「貴族も平民も、生まれで差をつけるうちは進歩などない。そしてこの家は、血よりも志を重んじる家だ。それを知らぬ者が品格を語るのは、滑稽だと思わないか?」
長老は完全に言葉を失った。
やがて、蒼白な顔で深々と頭を下げた。
「……行きなさい。言葉より行いで、この家の価値を示してくれ」
「……は、はい……」
長老が足早に去っていく。
静寂が戻ると、父は私へ視線を向けた。
「ノエリア」
「はい」
「よくやったな。感情でなく理で封じた。それでいい」
「ありがとうございます」
「継ぐというのは、言葉で宣言するよりも、その覚悟を行動で示すことだ。今日の君は、それに一歩近づいたように見える」
──やはり、確かめに来たのね。
私が本気でこの家を継ぐつもりなのかどうかを。
父は静かにグレンへ視線を移した。
「ベルマー子爵家のご子息。不快な思いをさせたことを、家主として謝罪しよう」
「そ、そんな……もったいないお言葉です」
「だが、忘れるな。誇りとは血筋ではなく、何を守ると決めたかで生まれるものだ」
グレンは一瞬息を呑み、それから深く頭を下げた。
「……はい。肝に銘じます」
父は短く頷き、背を向けた。
足音が遠ざかるにつれて、張りつめた空気がゆるやかに溶けていく。
──静かで、優しい人。
けれど、いざというときは誰よりも容赦がない。
その背中を見送りながら、私は確かに感じた。
父は“娘”ではなく、“後継者”として、私を見ていたのだと。
父が去り、廊下には再び静けさが戻った。
緊張の糸がほどけたのか、グレンがそっと息を吐く。
その手に残る書類が、わずかに震えていた。
「……お騒がせしました。僕のせいで、こんなことに」
「違うわ」
私は首を振る。
窓の外から差し込む光が、磨かれた床に反射して揺れていた。
「あなたのせいではない。むしろ、あの人──長老たちが変わるべきなの」
グレンはしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。
その笑顔には、わずかな安堵と決意が混じっている。
「……強いですね、ノエリアさまは」
「強く見えるだけよ。そうでなければ、立っていられないもの」
そう言いながら、自分でも驚くほど穏やかに笑えていた。
怒りや悔しさは、もうどこにもない。
代わりに胸の奥で、静かな炎が燃えている。
──父は、私を後継者として見ている。
その意味を、今日ようやく理解した。
血筋も、性別も、慣習も、もう言い訳にはできない。
「継ぐ」とは、ただ座に就くことではなく、この家の在り方を示すこと。
誰かのために戦い、守り、正すこと。
リーヴが穏やかに成長していくように、私もまた、ゆっくりと形を変えていくのだろう。
「……戻りましょう。リーヴの様子を見に行きたいわ」
「はい」
並んで歩き出す。
廊下を抜けると、庭の向こうで光が揺れていた。
その中心にある温室が、まるで新しい時代の芽吹きを象徴しているように見えた。
──あの光の中で、きっとまた試される。
それでも構わない。
カルディナートの名を継ぐ者として、私はこの手で未来を選び取る。




