表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍化・コミカライズ決定】ワンオペ母が悪役令嬢になったら、攻略対象が地雷にしか見えない件  作者: 葵 すみれ
第二章 杖作成

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/47

02.穏やかな日々に、長老が終わりを告げる

 夏の朝の光が、温室のガラス越しに差し込んでいた。

 鉢の上でリーヴが腰を下ろし、柔らかな光をまとっている。

 肌は淡い若葉色で、陽の光を受けると透明感が増す。

 その姿は、まるで未来へと向かっていこうとする命そのものだった。


 グレンが傍らの机で水を用意し、慎重に差し出す。

 リーヴは小さな両手で受け取り、きゅ、と静かに水面を撫でるようにして吸い上げた。

 飲み終えると、ほっと息をつくように光がやわらぐ。


 食べ物には興味を示さず、ただ光と水と魔力で満たされている。

 けれど、その反応は確かに生きているもののそれだった。

 魔力を注ぐと、身体の奥がふわりと光る。

 嬉しいときの子どものように、腕を伸ばしてグレンの胸にしがみつこうとする。

 グレンがそっと抱き上げると、リーヴは安心したように目を閉じ、口元をふわりと緩めた。


「やっぱり食事はいらないみたいですね」


「ええ。植物の性質が強いのかもしれないわ。けれど……私たちのことは認識しているし、知能は高いように思える」


 リーヴが顔を上げ、私とグレンの顔を交互に見た。

 まるで二人の会話の意味を、何となく感じ取っているかのように。

 その目に似た光が、ふわりと揺れる。


 グレンは微笑を浮かべ、記録用紙にさらさらと書き込む。


 『摂水量・安定。魔力注入時の反応良好。光の強度、昨日より少し強い。

 注入中、抱きつこうとする動作あり。抱き上げると、目を閉じて口元を緩める。

 名前を呼ぶと反応し、手を伸ばしてくる。声の区別がついている様子。』


 几帳面な字だった。だが、文面の端々には淡い情がにじんでいる。

 私はその文字を覗き込みながら言う。


「観察というより、育児日誌のようね」


「託児所でも、最初は皆こんな感じでした。どうすれば安心して眠るかとか、どんな声をかけたら笑うかとか。覚えておきたくて、つい細かく書いてしまうんです」


「そう。あなたは慣れているものね」


 そう言いながら、私は小さく息をついた。

 グレンは現在、公爵家の客人として滞在している。

 紅魔病の経過観察と、リーヴの記録係という名目で。

 南棟の客室を一室用意し、滞在に関する届け出もすでに終えていた。


 ──誤解を招くようなことは何もない。

 彼の部屋は私の私室から遠く離れており、使用人たちにもきちんと通達してある。

 もし誰かが不躾な噂を立てても、立場の上で覆せるだけの理由がある。


 それでも、本人はまだ遠慮がちだった。

 朝の挨拶のたびに「お世話になります」と頭を下げる。

 まるで一日ごとに滞在許可を更新しているような律儀さだ。


「……あまり恐縮しないで」


 温室の机越しにそう言うと、彼が少し戸惑ったようにまばたきをした。


「公爵家に滞在する以上、あなたは正式な客人よ。礼儀を保つのは結構だけれど、居場所まで遠慮しないで」


「……はい。ありがとうございます」


 静かな返事。

 けれど、その声音の奥に、少しだけ安堵が混じっていた。


 リーヴがふわりと光を放つ。

 まるで、彼の心の変化に呼応しているように。

 私はその様子を見つめながら、観察日誌に一文を書き加えた。


 ──感情の共鳴、あり。


 陽の光が少し傾きはじめる。

 窓の外では、庭師が花壇の整枝をしているらしい。

 静かで、穏やかで、どこまでも平和な時間。

 それでも胸の奥では、何かが静かに芽吹きはじめているような気がした。




 夕食を終えた食堂には、香り高いお茶の湯気が静かに漂っていた。

 卓のそばには、リーヴのために用意された小さな籠がある。

 新生児ほどの大きさの身体をすっぽりと包む、浅い寝かせ用の籠だ。

 内側には柔らかな布が敷かれ、薄い毛布が掛けられている。

 籠の中でリーヴが小さく欠伸をした。

 まぶたがふるりと震え、瞳の奥の光が淡くまたたく。

 やがてその光もゆるやかに弱まり、眠気を隠しきれない様子だった。


「今日の温室は気温が上がりすぎず、ちょうどよかったですね」


 グレンが向かいの席で穏やかに言う。

 彼の前には、観察記録用紙とティーカップ。

 几帳面に並べられたそれらが、彼の性格をよく表していた。


「ええ。午前中の光だけで十分に魔力を吸収できていたわ」


「はい。午後はうたた寝をしていましたし。……まるで小さな子どもを見ているようです」


「ふふ。あなたの記録も、すっかり育児日誌になっているものね」


 グレンが少しだけ照れたように笑みを浮かべた。


「託児所でも、こうしていました。今日はよく笑ったとか、なかなか眠らなかったとか。大人が見落とすようなことを記録しておくと、不思議と翌日がうまくいくんです」


「あなた、本当に慣れているのね」


「慣れているだけですよ。僕にできるのは、見て、待って、記録することくらいですから」


「それが、誰にでもできることではないのよ」


 私がそう言うと、グレンは少し息を呑んで視線を落とした。

 長い前髪の奥で、まぶたがわずかに揺れる。

 紅魔病の影はまだ完全に消えていないけれど、表情には少しずつ柔らかさが戻っていた。


 そのとき、籠の中でリーヴがふにゃりと頭を傾けた。

 小さな手が毛布の端をつかみ、やがて力が抜けて落ちる。

 完全に眠ったようだった。


「……眠ったわね」


「ええ。今日はたくさん魔力を吸収しましたから」


 私は立ち上がり、ティーカップを静かに置く。

 侍女のエレナが近づいて軽く会釈をした。


「今夜は私の部屋で預かるわ。環境を変えると、かえって落ち着かないかもしれないもの」


「承知しました。では、明朝また様子を見に伺います」


「ええ。……ありがとう、グレン」


 一瞬、グレンが驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頭を下げた。


「こちらこそ。ノエリアさまがいてくださるから、僕も安心できます」


 私は籠の取っ手を両手で持ち上げ、毛布がずれないように整える。

 籠の中の光が、ゆるやかにまたたいた。


「おやすみなさい、グレン」


「おやすみなさい、ノエリアさま」


 互いに一礼を交わし、私はエレナとともに食堂を後にした。

 廊下の灯りが静かに揺れ、リーヴの眠りを包み込むように照らしていた。




 こうして、穏やかな日々が続いていた。

 昼間は温室で日向ぼっこをして、夜は私かグレンと一緒に寝るのがリーヴの一日だ。

 温室の光の中でリーヴは少しずつ大きくなり、グレンは丁寧に観察と記録を重ねていた。


「……本当に、手がかからない子ね」


 思わずそんな言葉が漏れた。

 前世での乳児期の育児を思えば、こんなに静かに眠り、ぐずりもせず、数時間おきに起こされることもないなど、奇跡のようだ。

 隣でグレンも小さく笑った。


「託児所でも、ここまで楽な子は滅多にいませんでした。……人間のような表情を見せながら、やはり人間とは違うのだと感じさせられますね」


「そうね。この子が何を考えているのか、この先どう成長するのか……わからないことばかりだわ。でも、この子が望んでいること、好ましく思うことを知りたい。そして、リーヴにとってより良い未来を切り拓けるようにしたいわ」


「僕もそう願っています。この子が、自分の意思で生きていける日が来るように……」


 ちょうどその瞬間、リーヴが小さく欠伸をした。

 淡い光が瞬き、手がふにゃりと私のほうへ伸びる。


「……かわいいわね」


 思わず漏れた言葉に、グレンも静かに笑った。


 ──しかし、その穏やかな時間は長く続かない。


 数日後の昼下がり。

 私は書庫から執務室へと歩いていた。

 明るい陽光が窓から差し込み、廊下の床に淡い影を落としている。

 そこに、乾いた靴音が重なった。


「おや、ノエリアさま」


 声の主は、白髪の長老だった。

 深い皺を刻んだ顔に笑みを浮かべながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 その目には、探るような光が宿っていた。


「ずいぶんと忙しそうでいらっしゃる。──子爵家の庶子ごときを、公爵邸にお迎えになるほどに」


 その言葉に、足が止まる。

 廊下の空気が、わずかに重く沈んだ。


 言い返そうとしたその瞬間、角を曲がってくる足音がした。

 書類を抱えたグレンが現れる。

 こちらの空気を察したのか、一瞬、歩みを止めた。


 長老がちらりと彼に視線を向け、冷ややかに目を細める。


「……なるほど。まさに、そのお方ですな」


 私は息を吸い、背筋を伸ばす。

 穏やかな日々が終わりを告げる音が、確かに響いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 いっそ、ひと思いに...( ´-ω-)+
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ