02.穏やかな日々に、長老が終わりを告げる
夏の朝の光が、温室のガラス越しに差し込んでいた。
鉢の上でリーヴが腰を下ろし、柔らかな光をまとっている。
肌は淡い若葉色で、陽の光を受けると透明感が増す。
その姿は、まるで未来へと向かっていこうとする命そのものだった。
グレンが傍らの机で水を用意し、慎重に差し出す。
リーヴは小さな両手で受け取り、きゅ、と静かに水面を撫でるようにして吸い上げた。
飲み終えると、ほっと息をつくように光がやわらぐ。
食べ物には興味を示さず、ただ光と水と魔力で満たされている。
けれど、その反応は確かに生きているもののそれだった。
魔力を注ぐと、身体の奥がふわりと光る。
嬉しいときの子どものように、腕を伸ばしてグレンの胸にしがみつこうとする。
グレンがそっと抱き上げると、リーヴは安心したように目を閉じ、口元をふわりと緩めた。
「やっぱり食事はいらないみたいですね」
「ええ。植物の性質が強いのかもしれないわ。けれど……私たちのことは認識しているし、知能は高いように思える」
リーヴが顔を上げ、私とグレンの顔を交互に見た。
まるで二人の会話の意味を、何となく感じ取っているかのように。
その目に似た光が、ふわりと揺れる。
グレンは微笑を浮かべ、記録用紙にさらさらと書き込む。
『摂水量・安定。魔力注入時の反応良好。光の強度、昨日より少し強い。
注入中、抱きつこうとする動作あり。抱き上げると、目を閉じて口元を緩める。
名前を呼ぶと反応し、手を伸ばしてくる。声の区別がついている様子。』
几帳面な字だった。だが、文面の端々には淡い情がにじんでいる。
私はその文字を覗き込みながら言う。
「観察というより、育児日誌のようね」
「託児所でも、最初は皆こんな感じでした。どうすれば安心して眠るかとか、どんな声をかけたら笑うかとか。覚えておきたくて、つい細かく書いてしまうんです」
「そう。あなたは慣れているものね」
そう言いながら、私は小さく息をついた。
グレンは現在、公爵家の客人として滞在している。
紅魔病の経過観察と、リーヴの記録係という名目で。
南棟の客室を一室用意し、滞在に関する届け出もすでに終えていた。
──誤解を招くようなことは何もない。
彼の部屋は私の私室から遠く離れており、使用人たちにもきちんと通達してある。
もし誰かが不躾な噂を立てても、立場の上で覆せるだけの理由がある。
それでも、本人はまだ遠慮がちだった。
朝の挨拶のたびに「お世話になります」と頭を下げる。
まるで一日ごとに滞在許可を更新しているような律儀さだ。
「……あまり恐縮しないで」
温室の机越しにそう言うと、彼が少し戸惑ったようにまばたきをした。
「公爵家に滞在する以上、あなたは正式な客人よ。礼儀を保つのは結構だけれど、居場所まで遠慮しないで」
「……はい。ありがとうございます」
静かな返事。
けれど、その声音の奥に、少しだけ安堵が混じっていた。
リーヴがふわりと光を放つ。
まるで、彼の心の変化に呼応しているように。
私はその様子を見つめながら、観察日誌に一文を書き加えた。
──感情の共鳴、あり。
陽の光が少し傾きはじめる。
窓の外では、庭師が花壇の整枝をしているらしい。
静かで、穏やかで、どこまでも平和な時間。
それでも胸の奥では、何かが静かに芽吹きはじめているような気がした。
夕食を終えた食堂には、香り高いお茶の湯気が静かに漂っていた。
卓のそばには、リーヴのために用意された小さな籠がある。
新生児ほどの大きさの身体をすっぽりと包む、浅い寝かせ用の籠だ。
内側には柔らかな布が敷かれ、薄い毛布が掛けられている。
籠の中でリーヴが小さく欠伸をした。
まぶたがふるりと震え、瞳の奥の光が淡くまたたく。
やがてその光もゆるやかに弱まり、眠気を隠しきれない様子だった。
「今日の温室は気温が上がりすぎず、ちょうどよかったですね」
グレンが向かいの席で穏やかに言う。
彼の前には、観察記録用紙とティーカップ。
几帳面に並べられたそれらが、彼の性格をよく表していた。
「ええ。午前中の光だけで十分に魔力を吸収できていたわ」
「はい。午後はうたた寝をしていましたし。……まるで小さな子どもを見ているようです」
「ふふ。あなたの記録も、すっかり育児日誌になっているものね」
グレンが少しだけ照れたように笑みを浮かべた。
「託児所でも、こうしていました。今日はよく笑ったとか、なかなか眠らなかったとか。大人が見落とすようなことを記録しておくと、不思議と翌日がうまくいくんです」
「あなた、本当に慣れているのね」
「慣れているだけですよ。僕にできるのは、見て、待って、記録することくらいですから」
「それが、誰にでもできることではないのよ」
私がそう言うと、グレンは少し息を呑んで視線を落とした。
長い前髪の奥で、まぶたがわずかに揺れる。
紅魔病の影はまだ完全に消えていないけれど、表情には少しずつ柔らかさが戻っていた。
そのとき、籠の中でリーヴがふにゃりと頭を傾けた。
小さな手が毛布の端をつかみ、やがて力が抜けて落ちる。
完全に眠ったようだった。
「……眠ったわね」
「ええ。今日はたくさん魔力を吸収しましたから」
私は立ち上がり、ティーカップを静かに置く。
侍女のエレナが近づいて軽く会釈をした。
「今夜は私の部屋で預かるわ。環境を変えると、かえって落ち着かないかもしれないもの」
「承知しました。では、明朝また様子を見に伺います」
「ええ。……ありがとう、グレン」
一瞬、グレンが驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頭を下げた。
「こちらこそ。ノエリアさまがいてくださるから、僕も安心できます」
私は籠の取っ手を両手で持ち上げ、毛布がずれないように整える。
籠の中の光が、ゆるやかにまたたいた。
「おやすみなさい、グレン」
「おやすみなさい、ノエリアさま」
互いに一礼を交わし、私はエレナとともに食堂を後にした。
廊下の灯りが静かに揺れ、リーヴの眠りを包み込むように照らしていた。
こうして、穏やかな日々が続いていた。
昼間は温室で日向ぼっこをして、夜は私かグレンと一緒に寝るのがリーヴの一日だ。
温室の光の中でリーヴは少しずつ大きくなり、グレンは丁寧に観察と記録を重ねていた。
「……本当に、手がかからない子ね」
思わずそんな言葉が漏れた。
前世での乳児期の育児を思えば、こんなに静かに眠り、ぐずりもせず、数時間おきに起こされることもないなど、奇跡のようだ。
隣でグレンも小さく笑った。
「託児所でも、ここまで楽な子は滅多にいませんでした。……人間のような表情を見せながら、やはり人間とは違うのだと感じさせられますね」
「そうね。この子が何を考えているのか、この先どう成長するのか……わからないことばかりだわ。でも、この子が望んでいること、好ましく思うことを知りたい。そして、リーヴにとってより良い未来を切り拓けるようにしたいわ」
「僕もそう願っています。この子が、自分の意思で生きていける日が来るように……」
ちょうどその瞬間、リーヴが小さく欠伸をした。
淡い光が瞬き、手がふにゃりと私のほうへ伸びる。
「……かわいいわね」
思わず漏れた言葉に、グレンも静かに笑った。
──しかし、その穏やかな時間は長く続かない。
数日後の昼下がり。
私は書庫から執務室へと歩いていた。
明るい陽光が窓から差し込み、廊下の床に淡い影を落としている。
そこに、乾いた靴音が重なった。
「おや、ノエリアさま」
声の主は、白髪の長老だった。
深い皺を刻んだ顔に笑みを浮かべながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
その目には、探るような光が宿っていた。
「ずいぶんと忙しそうでいらっしゃる。──子爵家の庶子ごときを、公爵邸にお迎えになるほどに」
その言葉に、足が止まる。
廊下の空気が、わずかに重く沈んだ。
言い返そうとしたその瞬間、角を曲がってくる足音がした。
書類を抱えたグレンが現れる。
こちらの空気を察したのか、一瞬、歩みを止めた。
長老がちらりと彼に視線を向け、冷ややかに目を細める。
「……なるほど。まさに、そのお方ですな」
私は息を吸い、背筋を伸ばす。
穏やかな日々が終わりを告げる音が、確かに響いた。




