41.絶望の温室で、小さな命が目を覚ます
「グレン……しっかりして!」
抱きとめた腕の中で、彼の体は信じられないほど熱を帯びていた。
荒い呼吸が胸を上下させ、汗が額を濡らしていく。
落ち着け。
落ち着け、私。
これは紅魔病。
恐れることはない。
紅魔病は、魔術師が治せる病気。
子どもの頃に私もかかった。ほんの短い間の苦しみで済んだはずだ。
だから、大丈夫。
「大丈夫よ、すぐに治るわ。だから……だから、耐えて」
自分に言い聞かせるように、彼に声をかける。
返事はない。ただ熱に浮かされたように荒い息がこぼれるばかり。
それでも私は彼の手を握りしめ、必死に言葉を重ねた。
「誰か! 魔術師を呼んで!」
声を張り上げると、すぐに足音が響いた。
やってきた使用人が事態を察し、慌ただしく駆け出していく。
その背中が見えなくなった途端、静けさが押し寄せた。
温室には私とグレンの荒い呼吸音だけが残る。
魔術師が来るまで、どれほどの時間がかかるだろう。
一刻も早く、と願えば願うほど、時が粘つくように遅く感じられた。
大丈夫。紅魔病は治せる。
私だって子どもの頃にかかったけれど、すぐに治った。
だから、きっと彼も助かるはず──。
祈るように彼の手を握り締めながら、自分に言い聞かせ続けた。
どれほど待っただろう。
扉の外に足音が近づき、ようやく魔術師が姿を現した。
正式に魔術師として認められた者だけに許される杖を携えた姿に、胸の奥がわずかに安堵で震える。
私の胸に抱かれたまま苦しむグレンを一目見ると、彼は険しい顔つきで頷き、杖を構えて魔力を注ぎ込む。
けれど、その表情はすぐに歪んだ。
額に汗をにじませ、数度試みても、首を横に振るばかり。
「……駄目です。ここまで暴走してしまっては、もはや制御できません」
その言葉に、胸が冷たく締めつけられる。
紅魔病は治るはず。そう信じていたのに。
「そんなはずはないわ……紅魔病は、魔術師が治せる病気でしょう?」
縋るように声を荒げると、魔術師は苦い表情で視線を落とした。
「確かに、一度目の発症であれば。ですが……二度目となれば話は別です」
「……二度目?」
私の問いに、魔術師は低く続けた。
「紅魔病は基本的に、一度かかれば再発はしない。一般的にはそう言われています」
私は小さく息を呑む。
「しかし──治療が不十分だった場合や、ごく稀な例外として、再び発症することがあるのです。そしてその際は……治療の術はない、とされています」
最後の言葉が、温室の冷えた空気に重く落ちた。
治療の術は、ない。
その響きに、思わず腕の中のグレンを抱き締めた。
そんな……そんなこと……。
彼を喪うなんて……。
いえ、そんなこと許せはしない。
きっと、何か方法があるはず。
考えるのよ、ノエリア。諦めるなんてできない。
魔術師の言葉が胸の奥に重く沈み込み、息苦しさを増していく。
けれど、頭の中では必死に記憶を探っていた。
──そうだ。
レオニールのシュプラウトが暴走したとき、彼は言っていた。
「ここまで暴走したら、もう無理だ」と。
でも、あのときは……無理ではなかった。
ミアが聖属性の力を使って、暴れる魔力を宥めることができたのだ。
ならば、今も──。
ミアなら夜中でも駆けつけてくれる。そう思えば、わずかな希望が灯る。
「……もし、ミアを呼べば。聖属性の力なら──」
縋るように口にするが、魔術師の冷たい声がその光を押し潰した。
「聖属性であっても、できることは同じです。私たちが行うように、魔力の流れを整える手助けをするだけ……ここまで暴走してしまった場合、決定打にはならないのです」
私は言葉を失った。
では、どうすればいいの?
このまま見ていることしかできないの……?
胸の奥で、焦燥と恐怖が絡み合い、冷たく渦巻いていった。
それでも、何かないかと記憶を探る。
──レオニールのシュプラウトが暴走したとき。
彼は絶望の色を浮かべながらも、必死に語りかけていた。
ペアの少女と共に魔力を注ぎ、声を重ねることで、暴走は鎮まっていった。
あのとき、確かに言葉が力になった。
魔力を注ぐだけではなく、心を届けようとしたから。
「……でも、グレンは」
彼は人間であって、シュプラウトのように私の魔力で育っているわけではない。
けれど──これまで幾度も共に魔力を流し、合わせてきた。
その記憶と感覚は、確かに私の中に残っている。
だからこそ、もしかしたら。
私だからこそ、彼に届くものがあるのではないか。
胸の奥に、かすかな希望が灯った。
どうすればいいのか答えは見えない。
それでも、ただ見ているだけではいられなかった。
私は必死に言葉を探しながら、グレンの手を握りしめていた。
どうすればいい。どうすれば彼を救える──。
そのとき、不意に気配を感じて顔を上げる。
いつからいたのか、すぐそばにエミリオが立っていた。
両腕には、棚に置かれていたはずの鉢が抱えられている。
私とグレンが育ててきたシュプラウトが、淡い光を放ちながら揺れていた。
「……エミリオ?」
声をかけると、彼は真剣な表情のまま鉢を差し出した。
「シュプラウトが……訴えている気がしたんだ。放っておけなくて」
胸が詰まる。
私は焦りに囚われていて、彼がここまで来ていたことさえ気づかなかった。
けれど、確かにエミリオは感じ取っていたのだ。
普段の彼からは想像できないほどの、鋭い感受性で。
鉢の上に立つ小さな人の姿は、淡い光を強め、苦しむグレンを見つめている。
そして──閉じられていた瞳が、ゆっくりと開かれた。
本日より『天然の仮面を被った令嬢は、すべてを賭けて傭兵領主に嫁ぐ──愛と復讐を誓う、たったひとりのあなたへ』の連載を始めました。
異世界恋愛で、「弱さ」を武器にする令嬢の話です。
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