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【書籍化・コミカライズ決定】ワンオペ母が悪役令嬢になったら、攻略対象が地雷にしか見えない件  作者: 葵 すみれ
第一章 シュプラウト育成

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40/47

40.穏やかな未来を夢見た、その直後に

 夜の温室は、昼間とはまるで別世界のようだった。

 天窓から射し込む月光が、磨き上げられた床に淡く反射し、葉の影を揺らめかせている。

 静まり返った空間には、虫の声すら届かない。ただ、外気よりわずかに温かな空気が満ちていた。


 鉢の上に立つシュプラウトは、人の形をした小さな姿で、静かに目を閉じている。

 その身から漂う淡い光は、月明かりと溶け合い、幻想的な輝きとなって空間全体を包み込んでいた。

 まるで二人を見守るように。


「……きれいね」


 思わず声が漏れる。


 隣でグレンが小さく頷いた。

 彼の横顔は月光に照らされ、柔らかい光の陰影がかかっている。

 いつもより大人びて見えて、不思議と胸がざわついた。


 静かな時間が流れていく。

 昼間のように賑やかな声も、からかうような義弟の笑いもない。

 ただ私と彼だけが、この光に包まれていた。


 ──さすがに、ここまできたらわかる。

 エミリオとミアの企みは、グレンと私を二人きりにすること。

 私たちをくっつけようとしているのかしら。


 胸の奥が妙に落ち着かない。

 ……けれど、考えてみれば不自然ではないのだ。

 私は公爵家を継ぐと宣言した。

 ならば、いつか結婚し、跡継ぎを得なければならない。

 家の存続にはそれが必要。血縁にこだわらず養子を迎えるとしても、正式な婚姻を避けて通ることはできない。


 結婚したくないわけではない。

 むしろ、家庭を築きたいという思いはある。

 跡継ぎがどうのという打算ではなく、子どもにも愛情を注いであげたい。

 ただ……もう、ワンオペはごめん。

 誰か一人に押しつけるのではなく、共に支え合える家庭を築きたい。


 ──そうして考えると、グレンは理想的すぎる。

 自分の機嫌を自分で取ることができ、誰に対しても気配りを忘れない。

 良い父親になる要素ばかりが目につく。

 彼を夫に迎えて公爵を継ぐ。

 それはきっと、理想的な未来。


 ──でも。

 そうした理想の未来を思い描いた瞬間、胸の奥に重たい抵抗が広がった。


 そんな打算だけで、彼の未来を縛ることなどできない。

 グレンは優しい。だからこそ、もし私が望めば、きっと断れないだろう。

 身分差がそれを後押しする。

 「公爵令嬢が言うのだから従うしかない」と、彼は受け入れてしまうかもしれない。


 そんなこと、できるはずがない。

 彼の優しさを利用するなんて、私自身が許せない。


 それに──私自身が、それを望んでいない。

 打算や計算で相手を決めることに意味はあるのか。

 確かに私は公爵家を継ぐと決めた。だからこそ現実的に考えねばならないのはわかっている。

 けれど、この胸にあるものまで秤にかけていいのだろうか。


 胸の奥にあるのは、もっと別の感情。

 まだはっきりと名前をつけられない。けれど、確かにここにある。


 それは、計算や打算で決められるものじゃない。

 理想の未来を思い描くと同時に、どうしても守りたくなる。

 ──この想いは、そんなものに汚されたくない。


 何を考えているのかしら、私。

 けれど、このざわめきは、これまでのどんな気負いとも違う。

 静かな温室の空気の中で、ひときわ鮮やかに浮かび上がってくる。


 いったい、これは……。

 この想いは、何なのだろう。


 戸惑いを抱えたまま視線を上げると──グレンがこちらを見ていた。

 前髪の奥に隠された瞳が、揺れながらもまっすぐに私を捉えている。

 そこに宿っていたのは、友情や敬意では言い表せない、もっと特別な光。


「……どうして、そんなにまっすぐ……」


 思わず零れ落ちた言葉は、自分でも理由がわからなかった。

 ただ、その瞳を受け止めていると、胸の奥が熱く揺さぶられていく。


 グレンは小さく息を呑み、震える声を返す。


「すみません……けれど、目を逸らせなくて」


 息が詰まる。

 彼もまた、戸惑っているのだろうか。

 けれど、その奥にあるものは……私への想いに見えて。


「私も……」


 その先の言葉は、胸の奥に熱とともに渦巻いているのに、形にはならなかった。


 沈黙のまま、どちらからともなく、ゆっくりと距離が縮まった。

 伸ばされた手が、夜の光の中で重なろうとする。

 指先が触れ合う──その寸前。


「……っ!」


 グレンの身体が大きく揺らぎ、次の瞬間、力なく崩れ落ちた。


「グレン!?」


 慌てて抱き留めた瞬間、全身から熱が伝わってくる。

 荒い呼吸に合わせて胸が上下し、額には汗が滲んでいた。

 一見すれば、高熱にうなされて倒れただけに見えるだろう。


 けれど──魔力を持つ私にはわかる。

 肌の奥で、制御を失った魔力が暴れ回っている。

 脈打つように押し寄せ、周囲の空気をかすかに震わせていた。


 ……これは、魔力の暴走?

 でも、こんな激しいものは見たことがない。


 脳裏をよぎる言葉。

 ──紅魔病。


 まさか……そんな。

 それは一度かかれば、二度目はないはず。そう教わってきた。

 けれど、彼の症状はそうとしか思えなくて……。


「二度目など、あり得ないはず。それなのに……どうして?」


 幻想的だった夜の温室は、一瞬にして緊迫の場へと変わっていった。

 胸の奥を冷たい不安が締めつける。

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