40.穏やかな未来を夢見た、その直後に
夜の温室は、昼間とはまるで別世界のようだった。
天窓から射し込む月光が、磨き上げられた床に淡く反射し、葉の影を揺らめかせている。
静まり返った空間には、虫の声すら届かない。ただ、外気よりわずかに温かな空気が満ちていた。
鉢の上に立つシュプラウトは、人の形をした小さな姿で、静かに目を閉じている。
その身から漂う淡い光は、月明かりと溶け合い、幻想的な輝きとなって空間全体を包み込んでいた。
まるで二人を見守るように。
「……きれいね」
思わず声が漏れる。
隣でグレンが小さく頷いた。
彼の横顔は月光に照らされ、柔らかい光の陰影がかかっている。
いつもより大人びて見えて、不思議と胸がざわついた。
静かな時間が流れていく。
昼間のように賑やかな声も、からかうような義弟の笑いもない。
ただ私と彼だけが、この光に包まれていた。
──さすがに、ここまできたらわかる。
エミリオとミアの企みは、グレンと私を二人きりにすること。
私たちをくっつけようとしているのかしら。
胸の奥が妙に落ち着かない。
……けれど、考えてみれば不自然ではないのだ。
私は公爵家を継ぐと宣言した。
ならば、いつか結婚し、跡継ぎを得なければならない。
家の存続にはそれが必要。血縁にこだわらず養子を迎えるとしても、正式な婚姻を避けて通ることはできない。
結婚したくないわけではない。
むしろ、家庭を築きたいという思いはある。
跡継ぎがどうのという打算ではなく、子どもにも愛情を注いであげたい。
ただ……もう、ワンオペはごめん。
誰か一人に押しつけるのではなく、共に支え合える家庭を築きたい。
──そうして考えると、グレンは理想的すぎる。
自分の機嫌を自分で取ることができ、誰に対しても気配りを忘れない。
良い父親になる要素ばかりが目につく。
彼を夫に迎えて公爵を継ぐ。
それはきっと、理想的な未来。
──でも。
そうした理想の未来を思い描いた瞬間、胸の奥に重たい抵抗が広がった。
そんな打算だけで、彼の未来を縛ることなどできない。
グレンは優しい。だからこそ、もし私が望めば、きっと断れないだろう。
身分差がそれを後押しする。
「公爵令嬢が言うのだから従うしかない」と、彼は受け入れてしまうかもしれない。
そんなこと、できるはずがない。
彼の優しさを利用するなんて、私自身が許せない。
それに──私自身が、それを望んでいない。
打算や計算で相手を決めることに意味はあるのか。
確かに私は公爵家を継ぐと決めた。だからこそ現実的に考えねばならないのはわかっている。
けれど、この胸にあるものまで秤にかけていいのだろうか。
胸の奥にあるのは、もっと別の感情。
まだはっきりと名前をつけられない。けれど、確かにここにある。
それは、計算や打算で決められるものじゃない。
理想の未来を思い描くと同時に、どうしても守りたくなる。
──この想いは、そんなものに汚されたくない。
何を考えているのかしら、私。
けれど、このざわめきは、これまでのどんな気負いとも違う。
静かな温室の空気の中で、ひときわ鮮やかに浮かび上がってくる。
いったい、これは……。
この想いは、何なのだろう。
戸惑いを抱えたまま視線を上げると──グレンがこちらを見ていた。
前髪の奥に隠された瞳が、揺れながらもまっすぐに私を捉えている。
そこに宿っていたのは、友情や敬意では言い表せない、もっと特別な光。
「……どうして、そんなにまっすぐ……」
思わず零れ落ちた言葉は、自分でも理由がわからなかった。
ただ、その瞳を受け止めていると、胸の奥が熱く揺さぶられていく。
グレンは小さく息を呑み、震える声を返す。
「すみません……けれど、目を逸らせなくて」
息が詰まる。
彼もまた、戸惑っているのだろうか。
けれど、その奥にあるものは……私への想いに見えて。
「私も……」
その先の言葉は、胸の奥に熱とともに渦巻いているのに、形にはならなかった。
沈黙のまま、どちらからともなく、ゆっくりと距離が縮まった。
伸ばされた手が、夜の光の中で重なろうとする。
指先が触れ合う──その寸前。
「……っ!」
グレンの身体が大きく揺らぎ、次の瞬間、力なく崩れ落ちた。
「グレン!?」
慌てて抱き留めた瞬間、全身から熱が伝わってくる。
荒い呼吸に合わせて胸が上下し、額には汗が滲んでいた。
一見すれば、高熱にうなされて倒れただけに見えるだろう。
けれど──魔力を持つ私にはわかる。
肌の奥で、制御を失った魔力が暴れ回っている。
脈打つように押し寄せ、周囲の空気をかすかに震わせていた。
……これは、魔力の暴走?
でも、こんな激しいものは見たことがない。
脳裏をよぎる言葉。
──紅魔病。
まさか……そんな。
それは一度かかれば、二度目はないはず。そう教わってきた。
けれど、彼の症状はそうとしか思えなくて……。
「二度目など、あり得ないはず。それなのに……どうして?」
幻想的だった夜の温室は、一瞬にして緊迫の場へと変わっていった。
胸の奥を冷たい不安が締めつける。




