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(本編完結)また第二次世界大戦かよ  作者: 登録情報はありません
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張作霖は死なず(1/2)

張作霖こそ第二次世界大戦のキーマンでした、彼が爆殺された遺恨がマレー・シンガポール作戦を苦境に追い込み、地元(中国系移民)の反感を買い、抗日戦闘を許す結果となったのです。もともと爆殺の原因こそ、張作霖が有能すぎた結果であり、日本の首相でさえ懇意にしていたのです。(1/2)は正史を、(2/2)ではIF歴史を扱います

19世紀終わりにかけて、中国東北地方は東三省と呼ばれ、蛮地であった。

警察の力は弱く、かの地の治安は馬賊の支配下にあった。


その蛮地に海城県(今の遼寧省)から一人の浪人が流れてきた。

彼の名は張作霖(ちょうさくりん)といい、馬賊として身を立て始める。


馬賊はいわゆる民衆の自警団、盗賊討伐隊を発祥とする遊撃隊だ。

それがいつの間にか権力を持ち始め、非合法組織に変容していった。


朝鮮人参やアヘンの密売で多大な利益を独り占めするのである。

彼は密輸密売で権力を伸ばし、頭目と見なされるようになった。


1904年日露戦争勃発。

張はロシアのスパイとして暗躍していた。


だが日本軍に捕まり、処刑される事となった。

「いや、こいつは見所があるヤツだ」


こう言って助命を請うたのが田中という男だった。

後の田中義一首相である。


こうして日本側のスパイとなった張。

ロシアスパイで日本のスパイ、いわゆる二重スパイである。


1905年清朝から趙爾巽(ちょうじそん)が東三省に派遣されてくる。

財政収入、治安向上、行政安定に手腕を発揮する政治家だ。


張作霖(ちょうさくりん)「私に背信の意志はありません、共に歩みましょう」

趙爾巽(ちょうじそん)「うむ、期待しているぞ」


張は清国にも帰順する素振りをみせて、三重スパイとなった。

彼は馬賊の頭目であったが、同時に地方支配の非合法組織でもある。


スパイとして集めた政治的情報は自分にとっても好都合だった。

だんだん彼は組織権力の頂点に登りつめようとしていた。


当時中国では、地方の有力地主が集まって、勝手に「軍閥」を形成していた。

軍閥とは列強の支援を取り付けた中央政権の支配を受けない私兵集団のことだ。


この軍閥が次々に勃興し、大軍閥、小軍閥が離合集散(りごうしゅうさん)を繰り返していた。

張作霖もまたそういう私兵集団の1人であったのだ。


張は袁世凱(えんせいがい)とも手を組み、腹心の部下の徐世昌(じょせいしょう)とも上手くやった。

東三省支配を目論む日本をなだめ、日本を追い出す為米国と結託する清国を牽制。


清国地元産業を支援し、その物流を中東、南満州鉄道(日本)にまかせたのだ。

生産業者も儲かり、流通業者も儲かる事で不公平に遇することがない。


このネットワークはさらにハブ&スポーク構想に発展する。


関東軍A「東三省に凄腕の馬賊がいる」

関東軍B「政治的手腕は政治家のようだ」

関東軍C「いや経済流通にも優れている」


やがて彼の政治手腕は双方ともに認めるところとなった。


関東軍は軍事顧問を派遣して、彼を傀儡として使おうと考えた。

軍事顧問として町野武馬が選ばれた。


軍事アドバイスが本務だが、はっきり言ってスパイである。

ところがその町野には私心が無く、機略に富んでいたといわれる。


町野にはこういうエピソードがある。

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1912年清国が滅亡し、中華民国(中国)が成立する。

1915年日本は中華民国に21ヶ条要求を突きつけた。


その内容は圧倒的に中華民国に不利な文面であった。

日満の民集間は不穏な空気に包まれ、満鉄沿線の治安は乱れた。


そこで町野は顧問だった張錫鑾(ちょうしょうばん)から借金して、沿線を巡った。

沿線の村々では宴会を催し、日満友好を説いて回ったのだった。


中華民国でさえ一般人から搾取はしても、恵与は一切無かった。

侵略者の善行に村人たちは驚き疑い、そして理解した。


奪ってばかりの祖国と欺瞞でも与えてくれる侵略者。

所詮は国同士のいがみ合いなんか貧民には関係ない。


だったら今を楽しもうじゃないか!

そういう結論に落ち着いたようだった。


町野の単純な懐柔は、単純な民衆にウケたのだ。

物騒だった沿線は、帰路には静穏になっていた。


町野は支出を当座帳に全て記入して、残余があれば返却した。

使い込みが当たり前だった支那ではこれは異例だった。


当時奉天都督だった張錫鑾(ちょうしゃくらん)は驚き、信頼もしたという。

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1919年張作霖は北方軍閥として東三省全域を支配下に置く。

この時、日本との協力関係を取り付ける事にも成功していた。


張は取り入り方がすこぶる上手かった。

もめ事の仲裁、及び腰の交渉の締結などお手の物だった。


だんだん周りに人が集まってくるのは必然だったろう。

そして、張の勢力は余りにも強大になりすぎていた。


当時中華民国は麻のように乱れていた。

各地の軍閥は、北京入城を狙っていた。


遂に強力な軍事力を持つようになった張の軍閥(私兵集団)。

その力は他の軍閥に比べても申し分ない勢力だった。


張作霖「北京入城を果たし、中華民国の主権者になるのだ」

1926年北京に乗り込もうとした張に待ったを掛けた男がいた。


この男がまたもや田中義一であった。

正確には町野軍事顧問を通じて、張に制止を掛けようとしたのだ。


この年、田中は日本で組閣に取り組もうとしていた矢先であった。

そんな時、張が中原(黄河中下流域)目指して侵攻中の報が入る。


田中「これはいけない」


張は朝鮮人参の密売や麻薬の密輸で財を成した馬賊の出だ。

華中には運河の水運から身を起こした青幇(ちんぱん)という秘密結社がある。


華中の海運・陸運を牛耳る秘密結社の勢力は強大だ。


張が軍を起こしたなら、必ずや青幇(ちんぱん)とぶつかるだろう。

服従を強いるならば、青幇(ちんぱん)は頑固として抵抗する。


地元の流通を牛耳る青幇(ちんぱん)と対立すれば、遠征軍の張は干上がってしまう。

田中は張が敗退することが分かっていて「いけない」と言ったのだった。


ついに張は北京に入城、大元帥を名乗り、中華民国の主権者を宣言。

田中は張を説得し得ず、町野軍事顧問は暴走を止められなかった。


張は共産主義廃絶の為、赤狩りを始め、ソ連は中国と国交を断絶。

この時は張はソ連を排して、欧米に追随する構えを見せていた。


一見、張作霖の一人勝ちのように見える。

だがもう1人地方軍閥を率いる気丈夫がいた。


その名は蔣介石。

彼もまた欧米の支援を取り付けようとしていた。

中国の歴史はかなり端折っています。ご了承願います。次回は張作霖(2/2)です。

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