フィリピン死の行進(1/5)
フィリピン米軍はあっけなく陥落しました。原因は熱病です。蚊の防除無しには感染は不可避なのでした。清浄な飲料水は望むべくもありません。半数が病傷兵となり生きる屍となったのです。
1942年04月09日。
日本軍はフィリピンのバターン半島を占領。
ケソン大統領は潜水艦で米国に脱出した。
ケソン「マッカーサー殿!一緒に逃げましょう!」
マッカーサー「ふしゅ~、ふっぷぶ~ふ(下手クソな口笛)」
マッカーサーは極度の閉所恐怖症で潜水艦は苦手だった。
その為小舟で海に脱出して、後に飛行機で豪州に向かう計画だった。
「私は再びここフィリピンに帰ってくるぞ!」
「I shall return」を残してマッカーサーは小舟で転進した。
小舟(魚雷艇)で800km先のミンダナオ島に到着したマッカーサー。
ここから爆撃機B-17に乗って2600km先の豪州に脱出するのだ。
パイナップル畑に作られた飛行場は秘密基地だった。
ここに来て1人のフィリピン人が残ると言い出した。
抗日ゲリラの雄、サントス兄弟の弟ホセ・アバド・サントスだ。
B-17はすでにエンジンが掛かって待っている。
マッカーサー「本当に一緒に脱出せんのか」
「日本兵は抗日ゲリラを即銃殺すると聞いておるぞ」
ホセ・アバド・サントスは笑った。
ホセ「私は残って比島のために尽くしたい」
マッカーサーは返事の代わりに頷くと機上の人となった。
ホセは兄のペドロの待つマニラに戻っていった。
バターン半島では消極的な米英豪比軍の抵抗が続いていた。
なんだかとても弱々しい抵抗というか戦闘だった。
やがてコレヒドール島に守備隊は撤退し始めた。
これはなんというか本隊ではないようだった。
そしてエドワード・P・キング少将はしばらく後に降伏した。
コレヒドール島要塞はまだ戦闘を続けていた。
弱々しい抵抗はしぶとく1ヶ月近く続いた。
05月06日。
ついにコレヒドール守備隊は降伏した。
約7万6千余名の米英豪比軍が全員捕虜となった。
弱々しい戦闘や降伏した理由はすぐに判明した。
敵兵の半分以上が傷病兵だったのだ。
南国の環境では病原体が多い。
マラリア、デング熱、赤痢・・・・・・。
米軍倉庫には食料も弾薬も唸るほどにあった。
だが米兵は萎びた大根みたいになっていた。
米兵「青菜に塩……」
医者も看護師も皆が動けない状態になっていた。
約7万6千余名の捕虜をどうやって収容するのか?
日本軍の想定では捕虜は2万人程度と見積もられていた。
なんと実際にはその4倍弱なのだ。
しかも半分は傷病兵なのだ。
日本軍にもそんな数の病人を手当てする準備はない。
ただちに台湾の台南市と高雄市から医療物資を搬送する。
輸液のゴム栓付きバイアル瓶と塩化ビニルのディスポーサブルチューブ。
これを毎日4万人分船便で取り寄せることにした。
清潔な環境と清潔な飲料水もこの悪疫蛮地では絶対に必要だ。
街中ならまだしも、熱帯の原生林での戦闘はどうしようもない。
生水は汚染されており、清浄な飲料水は日本兵にも不足していた。
そのため貨物船には10万人分の飲料水も積載してもらった。
まさしく補給こそ戦争でもあるのだった。
マラリアにはキニーネ、デング熱、赤痢は対処療法を施した。
万が一(感染症)のために抗菌剤も用意された。
臨時の野戦病院が仮設され、3万人もの敵傷病兵で溢れかえった。
60人を収容するバラックを500棟建設したものだ。
コレラ患者は点滴による補液だ。
デング熱は蚊が媒介する伝染病だがヒト=ヒト感染はない。
出血熱のためアスピリン等の薬の処方はせず、補液等に留める。
治療法がないので、安静療養に努めるしかない。
赤痢も同様で、不衛生な環境から距離を置く事が先決だ。
接触性感染の為、隔離病棟に収容してある。
これを聞きつけた原住民の難民はぞくぞく集まってきた。
コレラ、赤痢、デング熱が地元に蔓延していたからだ。
軍医「野戦病院は野外病院として災害に備える機能もある」
「しかし、難民の数が余りにも多すぎる」
補液は10万人分用意していたが在庫が怪しくなってきた。
軍医は台湾の高雄港からさらに10万人分届けさせた。
戦禍により地元農業は壊滅的打撃を受けている。
10万人分の食料を毎日調達は望めない。
もはやコレヒドールにいてはダメだ。
河根良賢少将は食料調達に奔走した。
河根「タルラック州カパスならなんとかなる」
「直ちに移動を始めなければならん」
カパスの陸軍基地を検索した「ここだ!」。
カパスのオドンネル陸軍基地を収容所に定めた。
だが捕虜と難民は合わせて10万余人。
輸送トラックは200台しかなかった。
河根良賢少将「タルラック州オドンネル基地を収容所に転用する」
本間雅晴司令官「本気か?143kmも彼方じゃないか?」
河根「歩かせればいいだろう」
本間「本気か?半分は病人だぞ?」
河根「では、司令官殿のお好きなように」
本間「では、そうさせてもらう」
本間雅晴は人格者で、病人を歩かせるわけにはいかなかった。
用意したトラックでも、病人は途中で死んでしまうだろう。
マッカーサーはすでに豪州に撤退し、ここにはいなかった。
エドワード・P・キング少将が今は米軍の責任者である。
キング少将は徒歩による移動に強行に反対した。
「そんな事をしたら2万人が途中で死ぬだろう」
7万余人の米軍捕虜のうち、4万人は健常者である。
彼らは後ろ手に縛られ、道路の脇に座らされていた。
米軍捕虜のそばには日本軍戦車と兵士がくつろいでいた。
捕虜はアホバカマヌケと英語でずっと罵っていた。
米軍捕虜A「おいこれ75mm砲だぞ」
米軍捕虜B「車体は鋳造じゃなくて溶接か」
米軍捕虜C「ウチのM4といい勝負だな」
「Are you interested in tanks?」
米軍捕虜「え?」
「戦車に興味はありますか」とどこからか聞こえてくる。
米軍捕虜たちからではなかった。
「Please take a look」
米軍捕虜「えっえ?」
よく見ると戦車兵が英語で話しかけてきているのだ。
米軍捕虜は真っ青になった。
さっきまでアホだのバカだの英語で罵っていたからだ。
日本人は敵性言語でカタカナを禁止しているのではなかったか?
米軍捕虜「どうして英語が分かるんですか?」
日本軍戦車兵「我々はあなた方と戦争をしているのですよ」
「敵国の言葉が分からなくて、敵の事が分かりますか?」
「FuelもPowderも読めなくて見逃す事になりかねません」
これは四式中戦車の試製車(32トン)であった。
シンガポール戦で登場した75mm砲を載せたものと同型だ。
こちらは全電気溶接の量産タイプの先行品だった。
だがこんな戦車をどうやってフィリピンに揚陸できたのか?
それは4000トン級戦車揚陸艦の完成に寄る所が大きい。
フィリピン攻略には戦車が欠かせない。
また劣悪なインフラに対応する重門橋も配備予定だ。
日本軍は揚陸艦を100隻配備し、順次輸送する予定である。
米軍も負けてはいない。
さらに壮大な計画を立てていた。
米軍はM4戦車の為の揚陸艦を配備計画中であった。
これはLST-1級戦車揚陸艦と呼ばれ30トン戦車20台を揚陸可能だった。
すでに1152隻の建造計画が立案され、実行に移されていた。
日本軍100隻vs米軍1152隻。
この馬鹿でかい国力と技術が米国との戦争なのだった。
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米英豪比軍の捕虜は道ばたでぐったりしていた。
器用に日傘を手造りして、頭にかざしている者もいる。
米国人なのに「京和傘」の銅張りに詳しい職人がいた。
人は見かけによらないとはこの事だった。
ヨレヨレのシナシナの米兵たち。
かれらはそれでも一応の健常者なのだ。
どうしても傷病兵を歩かせる訳にはいかなかった。
トラックで運んだら、彼らはそこで死んでしまうだろう。
ヨレヨレの米兵をどうやって運ぶのか?そこに”彼”が現れます。次回はフィリピン死の行進(2/5)です




