第一次世界大戦マルタ出征(1/3)
第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件が発端だった。日本は対潜迫撃砲とソナーを配備した駆逐艦、試製空母を伴って、地中海のマルタに出征する。この章は全部IF歴史です
第一次世界大戦はサラエボ事件がきっかけとなって始まった。
1914年06月28日。
サラエボでオーストリアの皇太子が襲われる。
皇太子夫妻は無事だったが、補佐官は負傷していた。
暗殺未遂事件の負傷者は近くの病院へ収容された。
皇太子夫妻は市庁舎に到着し、スピーチも滞りなく終わった。
皇太子の車列は負傷者の見舞いのために病院へ向かう。
皇太子夫妻は車列の3台目から2台目に移乗していた。
万が一暗殺者が二度目のテロを企てるかもしれない。
また帰路は別のルートを行くよう、各運転手に言い含めた。
だがどういうわけか3台目の運転手にはうまく伝わっていなかった。
1台目、2台目は迂回路を行き、3台目だけが道を誤って停車した。
暗殺者達は、すわ好機来たれりと飛び出したが、皇太子の姿は無い。
慌てた暗殺者は6人の仲間と銃を乱射しながら2台目を追いかけた。
その一発が大公夫妻の車の運転手に命中し絶命した。
大公夫妻は無事だったがオーストリア政府は激怒。
サラエボに意趣返しとして、国内の反政府運動を扇動した。
これがもとで7月危機が起こり戦争が始まる。
経過は異なるが結果は同じになってしまった。
1914年07月28日。
第一次世界大戦勃発。
アジアにも戦争の影が落ち始め、無風ではいられない。
「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」である。
この当時日本海軍は主力艦に注力していた。
戦艦8、装甲巡洋艦8の八八艦隊計画である。
駆逐艦は旧態依然/古色歴然で疎かにされていた。
戦艦や巡洋艦はあっても、実働できる駆逐艦は4隻しかなかった。
敵艦に肉薄して魚雷攻撃し、主力部隊を守る役目がいない。
これは非情によろしくない事態である。
当時、日英同盟の敵、独国は中国青島にあった。
もし独東洋艦隊が日本に攻め上ってきたらどうなるか?
駆逐艦がおらず、裸同然の主力艦隊しかいないのだ。
八代「いくら大艦巨砲主義とはいえ、これはやりすぎだ」
海軍大臣八代六郎は駆逐艦急造を主張した。
1914年08月23日、日本が独国に宣戦布告。
駆逐艦不足はもはや現実のモノとなっていた。
その5日後に議会で承認され御裁可をとるという急展開だった。
造船所は海軍の横須賀、佐世保、舞鶴、呉。
民間は川崎、三菱、大坂、浦賀までがあてがわれた。
建造には3~5ヶ月という猛スピードであった。
ここで戦時標準船という発想が生まれた。
だがブロック工法という概念にはまだ届いていない。
1914年という年はまだ日本にアーク溶接は無いのだ。
三菱がやっと瑞のESA社からアーク溶接の特許を取得した年だ。
概念が先走りして、技術が追い付いていかない。
初の全溶接船は、1921年諏訪丸が竣工するまで、おあずけであった。
海軍兵器も新兵器”潜水艦”に対応したものが現れた。
陸で使われていた迫撃砲を小型化した兵器だ。
陸軍の迫撃砲を海軍で対潜兵器に転用したものだ。
日露戦争後半で日本も即製迫撃砲を使用している。
その迫撃砲で潜水艦を撃退しようというのである。
それが多段式対潜爆雷(対潜迫撃砲)である。
海洋国家ならではの陸戦兵器の転用と言えよう。
1915年英国も海洋国家として同じような発想を持っていた。
迫撃砲を作った英国はこの日本海軍の発想に慌てた。
英国はまだ発想しただけで現物は作っていない。
DMWD(多種兵器研究開発部)のヘッジホッグがそれだった。
これらは実用はまだまだ先、空想の域を出ないモノだった。
スチュアート・ブラッカー中佐率いる開発部は仰天した。
ブラッカー「その奇想天外兵器を日本軍が実装している!」
「同じ島国だから並行進化といえばそれまでだが」
英国はなんだか気味が悪かった。
悪い夢を見ているような気分だったろう。
日本は発明発見は苦手だが改造は大好きだ。
それは時として魔改造を生み出すのだ。
英対潜迫撃砲も、英海軍「はみ出し者部隊」DMWD謹製である。
「悪巧み策士部隊」と呼ばれた奇人変人の集まりである。
正式に結成されたのは1940年、研究所も事務所も無い。
それまでは提督の事務所を間借りして使っていた。
1943年に独国ダム破壊作戦に使われた特殊爆弾。
ダム破壊(反跳)爆弾の発明者ウォリス博士もここの出だ。
そしてもう一つはソナーである。
日英は同じ頃、同じモノに注目、同じモノを造っていた。
1917年。
英国はドリフター(流し網漁船:Drifter)を使い水中音響学を研究。
ハイドロフォンなるものを試行していた。
日本もその研究に触れ、日英同盟による技術供与を受ける。
東北帝国大学で研究され、試作機が形になった。
これを曳航式にまとめて、駆逐艦に搭載する。
ギリギリで第二特務艦隊に間に合った。
1917年4月13日。
第二特務艦隊が地中海のマルタ島に到着。
この艦隊には水上機母艦と全通甲板を持つ護衛空母が随行していた。
水上機母艦は日露戦争鹵獲の英貨物船レシントン改造の若宮丸がある。
これは第一次世界大戦では青島攻略戦に使われ、不在である。
第二特務艦隊に随行の水上機母艦は二番艦の新造艦だった。
護衛空母は全くの新造艦で米国航空母艦計画に刺激されたモノだ。
1910年米軽巡バーミングハムから複葉機が離艦に成功。
1911年米装甲巡洋艦ペンシルバニアに着艦に成功。
早くも航空母艦の時代が開かれたのだった。
日本も八八艦隊計画時からプランだけはあった。
だが仮想敵国の米国が動き出すまではまったく動いていない。
だが日本は動き出すと、徹底的に(とことん)速かった。
物凄い勢いで航空母艦を造船し始めた。
当時火薬式カタパルトはあったが油圧式も蒸気式もなかった。
カタパルトは装着せず、離艦は自力飛行によった。
昇降装置もエレベーター式やシーソー式と低迷している。
日本はエレベーター式を選んでいた。
だが肝心の航空機はどうするのか?
当時国産のモ式六型は少々デカすぎた。
1910年代は日英同盟第二次更新が終わった時代だ。
1923年失効まではまだまだ同盟国であった。
そこで艦載機は英ソッピースパップ、複葉機が選ばれた。
1916年製の新型機で、護衛空母には40機が艦載されていた。
当時全通甲板を持つ航空母艦は珍しかった。
マルタの軍港には見物人がぞろぞろ詰めかけた。
見物人「艦上構造物がなんにもねえ」
見物人「艦橋もねえ、砲塔もねえ」
見物人「海に浮く飛行場だろコレ」
その第二特務艦隊を遠眼鏡で見ていた1人の英国人がいた。
マルタ総督ポール・メスエンだ。
メスエン「極東の島国ごときが空母とは」
「日本も航空機の有能性に気付いていたようだ」
空母はあまり活躍しないのですが、艦載機は大活躍します。次回は第一次世界大戦マルタ出征(2/3)です




