インパール(17/17):タタ・ビルラ・リライアンス(アンバニ)
インド方面進攻は慎重に戦闘を避けて行われます。英軍側インド兵と日本側インド兵の戦いになるからです。ここからは経済/政治戦争の呈を成してきます。インドの三大財閥を牛耳れば、インドを征圧した事になるからです。
ベンガル地方への進攻はほとんどが無抵抗といった有様であった。
忍びよる飢餓がこの土地の抵抗力を奪っていたのだ。
英国植民地インドの最大の輸出品は”綿”であった。
総督府は輸出増加のため、食糧の米より綿の増産を命じた。
インド・ベンガル全域の人口はなんと6030万人(1941年)である。
1901年の4210万人から43%も増加していた。
綿ばっかり作っていたら当然食糧の米が足りなくなった。
畑は綿産業で一杯で、食糧の米を生産する余裕がない。
この人口を支える為に森林伐採と埋め立てを、総督府は奨励した。
手っ取り早い方法で一時的に収穫を上げるにはうってつけだ。
しかし肥料を継続的に散布しなければ、繰り返すことは出来ない。
だがベンガルの農民に農村農業工学の窒化物の知識は無かった。
それは土壌の品質(肥沃)を下げ、沈泥化をすすめただけだった。
かろうじて灌木地を耕作する事で一時的に食糧事情に応えた。
しかしたちまちにして土壌は枯れ、慢性的な米不足となってしまった。
ベンガルは戦争前からずっと米の生産量は低空飛行だった。
植民地政策の結果、飢餓の危機に瀕していたのだ。
それがとうとう戦争によって如実化したといっていい。
ベンガルの土地所有システムは複雑怪奇に絡まっていた。
権利は三つの多様的・経済的・社会的グループに不平等に分けられていた。
①大地主のザミンダール。
②裕福な農民のジョテダーズ。
③小作農家のライオット。
それ以下の農民は土地無し農民、流浪の民だ。
「土地なし農民」は耕作用種子や牛を借金して手に入れていた。
農閑期は収入がなく借金で生活していた。
彼らに金を貸していたのが③のライオットである。
ライオットはジョテダーズからカネを借りていた。
ジョテダーズはザミンダールからカネを借りていた。
小作人は裕福な農家で雇ってもらい家計債務の返済に充てた。
この借金が積もり積もって小作人を苦しめていた。
こういった場所に「ハイ、補給物資だよ」と与える訳にはいかない。
権威と権力に強いられていた最下層は暴動を起こすかもしれない。
それは支配と被支配の構造を壊す。
社会構造を壊し、引いては経済も壊してしまう。
富裕層に取り入りながら最下層も保護する。
難しい舵取りだがやらなくてはならない。
富裕層にさらなる儲け口を宛がえばよいのだ。
恒常的に今よりさらに儲かる商売とは何か?
それは富裕層らによる産業/農業の流通経路の支配/掌握である。
ハブ&スポーク&スパーによる輸送形態の集約を目指す。
旧来の牛車や川小舟による零細輸送網をまず撤廃する。
これは英総督府の戦時対策が偶然行っている。
そこに空港<ハブ>と流通拠点<スポーク>の流通経路を導入する。
流通拠点から地方拠点<スパー>への集配荷に貧民層を雇用する。
貨物機は幸い鹵獲したDC-3が600機あった。
自動貨車はコヒマ、インパール他から英印軍の8000台を徴用する。
英印軍の自動貨車はビルマ侵攻作戦に使用される予定だった。
奇しくもそれは日本インド進攻という逆方向になってしまったが。
デルタ地帯の輸送にはエアーボートの平底船を採用した。
スクリューは藻や水草を巻き込む為、デルタ地帯では使えない。
そこで船尾に扇風機のオバケみたいなプロペラを取り付け推進する。
エンジンは自動貨車・航空機なんでもよかった。
これら近代機械が畜力輸送に代わって運搬業を支配する。
流通を支配すればその利益は、農業の比ではない。
富裕層の搾取は「流通」という抽象的な概念に飛びついてきた。
とくに若い富裕層は何かにチャレンジしてみたかったようだ。
富裕層「農業は人口増加で壊滅的危機状態だ」
富裕層「もう小作人から搾り取れるのは命だけだ」
富裕層「それなら新基軸の流通で小作人を働かせよう」
この流通経路と拠点は日本軍の進軍経路でもある。
英総督府の恐れたとおり、陸路・水路の流通を遡ってきた。
それは鹵獲された貨物機と自動貨車であった。
しかも操っているのはインド人富裕層である。
ベンガルはダッカを中心とした半独立国家の呈を成してきた。
ベンガル(人)はベンガル語でバングラ、デシュは国と呼称する。
<Bangla+desh=Bangladesh>
(ベンガル人の国)すなわちバングラデシュと人々は呼んだ。
農業にも大々的に日本が腰を入れてきた。
ベンガル・デルタ地帯では三種の米が栽培されてきた。
Aman、Aus、Boroの三種である。
これらの品種はいままで雑多に作付けされてきた。
これを雑多にせず、キチンと品質管理する事を求めた。
品質管理で交雑を廃し、品種改良をコントロールする。
人為的に種間交雑を行い、優良個体を選抜するのだ。
品種が混在すると米粒の大小が混在する事になる。
そうすると精米作業で砕米が出て、品質が落ちる。
粒が揃っていれば値段も高く売れるのだ。
また潅漑設備の開発も必要だった。
雨期に河川は簡単に洪水となるからだ。
肥料の化学的知識も皆無だった。
根肥、実肥も経験則に頼っている。
牛糞/尿と野菜残渣を原料としたメタン発酵液肥利用が望ましい。
牛は有り余るほどおり、野菜残渣も腐るほどあった。
液肥はアンモニア揮散する性質があり、注意が必要だ。
<施用後速やかに土壌と混和(耕起)する必要がある>
1度に教えてもパンクするだけだろう。
徐々に浸透させるしかなかった。
これも戦争には違いなかった。
インド領地を日本が侵略している。
だが武器は共存共栄の知識と技術だ。
インドの英国支配と経済は覆った。
<輸出財源の綿を停止し、米の生産を促した為>
かつてインドにはSwarajという民族独立運動があった。
サティヤムルティ、ダス、ネルーら政治家による運動だ。
「英国製品を買うな!」「インド製品を買おう!」
そうは言っても殆ど輸入製品に頼る生活は簡単には覆らない。
そこで彼らはスワラジ党を結成し、民族会議に訴えた。
国民政府は産業を勃て、工場を零細なから普及させ始めた。
この事がのちのインド巨大産業の先駆けとなる。
「世界の工場」と言われるインド産業国家になるのだ。
そこに日本が技術と効率/魔改造を持ち込んできた。
技術は歓迎だが、社会風紀には馴染めないところもあった。
朝はなぜか職場で一斉にラジオ体操で1日が始まる。
書類には部署ごとにハンコを押す箇所が沢山ある。
とにかく物凄い勢いでインドは発展史始めた。
東西南北ベンガル地方、ベンガルデルタに日本は進出した。
インド国民軍2万人はディマプールで20万人に膨れ上がった。
日本軍政部は綿をやめて米を作付けするよう推奨した。
だが進駐軍の命令はなかなか浸透してくれない。
そこで農業改革として政策がスワラジ党によって発布された。
インド解放を訴える政党の政策なので地元の理解を得られるだろう。
またそれはスワラジ党の選挙での勢力拡大にも繋がった。
時間は掛かるが、ベンガル食糧事情は徐々に改善されていった。
次はオリッサ・ジャールカンド・ビハールの三州だ。
ジャールカンド州にはタタ財閥の重鉱物砂鉱床がある。
クロム/マンガン/チタン酸化鉄鉱床だ。
日本軍としては是非とも手に入れたい鉱山だった。
牟田口司令はインド三大財閥とコンタクトを取っていた。
タタ・ビルラ・リライアンス(アンバニ)の三大財閥である。
この三大財閥こそ、金融/経済/産業のインドそのものだ。
贈与税は非課税で、英国にさえ手が出せなかった。
この三大財閥を牛耳れば、インド制圧は成るといってよかった。
特に最大のタタ財閥は高い論理観を持っている。
政治家の賄賂や闇市場での取引を拒否していた。
牟田口「う~む、誠実で健全か」
「ワシの性根に合わんなあ」
「こんなヤツが大富豪とか」
「南機関の鈴木に頼むか」
鈴木少将はビルマ・インドシナ独立に尽力した率直な性格だ。
彼ならインド三大財閥とも上手くやっていけるだろう。
まずインド財閥の税金優遇策であるが、日本もそれにならう。
独立を支援する日本軍と言った手前、財閥解体は行わない。
鈴木も今までの優遇策を覆さなかった。
確かに「自由、自治、平等」は尊い原則かもしれない。
だが「善の押し付けは毒」にもなりうるのだ。
インドにはインドのやり方がある。
鈴木「まず手始めにタタから身辺調査を行う」
当主JRDタタはインド最大の大財閥だ。
タタ・スティールは巨大なオリッサ鉱床を東インドに有している。
国内に巨大な露天掘り鉱山があり、操業を続けている。
ジョダにはマンガン鉱床、ガンジャムには重鉱物砂鉱床がある。
重鉱物砂鉱床にはチタンが含まれていた。
日本軍政部はそれを徴用せず、タタ・グループに預けた。
その御礼としてタタ・スティールは日本の兵器工場と化した。
インドで工廠を開けるのは凄いことだった。
もう内地に無心しなくても済むのだった。
ビルラ・ファミリーはタタ・グループと肩を並べる大財閥だ。
ビルラは情報という無体物に最初に価値を見出した財閥である。
もとは繊維産業で財を成し、農商務に強かった。
ところがそこに日本軍政の「綿から米へ」農業改革が行われた。
それで食糧事情は改善され、飢饉は起きなくなった。
それはそれでいいが、綿事業で生計を立てていたビルラは大変だ。
輸出出来る綿が無くなって、商社は危機に直面した。
日本軍政が行った「綿産業から米産業への変遷」は大打撃だった。
先見性のあるビルラは直ちに流通業への転向を図った。
日本軍の鹵獲自動貨車と航空機を譲り受けたのがビルラだ。
流通網をインド全土に構築して、綿産業より稼いだ。
情報と流通を牛耳るのが今のビルラ財閥の姿である。
リライアンス(アンバニ)は石油/工業化学のパイオニアだ。
インド西部に同国最大の石油処理工場を有する。
彼らの石油処理技術は日本軍の欲するオクタン価に達していた。
もう内地に無心しなくても済むのだった。
日本はこうして進撃しながらインド基幹産業に食い込んでいった。
特にビルラ財閥は国民会議/政府への献金で有名だった。
政治的影響略を利用して独占的拡大を続けていた。
<高い倫理観で知られるタタとは犬猿の仲であった>
この信用と影響力を日本軍政部も利用させてもらう。
まだ戦中ではあるが、経済は既に戦後を見据えていた。
進駐する日本/インド国民軍は各地で歓迎されていた。
インド人A「解放軍バンザイ、国民軍バンザイ」
インド人B「チャンドラ・ボース、バンザイ」
インド人C「とにかくバンザイ、バンザイ」
これは日本側の宣撫工作が、若干ないワケではない。
兎にも角にも、インド国内で戦闘は中断されていた。
戦場に居場所がなくなり、牟田口司令はしょげていた。
岡田参謀長は最後まで彼の行く末を計算していた。
岡田「大丈夫ですよ、貴方の知識を存分に生かしましょう」
「兵学校で教鞭を執れば宜しかろうと存じます」
牟田口「なるほど、その手があったか!」
元々、牟田口は自分の考えを後輩に残しておきたかった。
そのため予後は教鞭を執ろうと考えていた。
彼は予備役中将となり、陸軍予科士官学校の学校長となった。
少々放言が過ぎる校長だが、もう現場から距離がある。
牟田口節を存分に発揮してもらいたいところだ。
士官の兵棋演習では突拍子も無い作戦がバカウケした。
堅苦しい授業より、破天荒な発想が好まれた。
牟田口廉也は「天職」を得たのである。
東インドと中央インドはほぼ制圧された。
英国人たちはインド西側の経済特区(国際港)に逃げ込んだ。
即ちカンドラ、ムンバイ、ジャワハラール・ネルー、パナジ。
モーミューガオ、マンガロール、コーチの7つの国際港だ。
およそ3億人のインド人をたった6万人の英国人が支配していた。
6万人は市街地に閉じ込められたが、生活苦にはならなかった。
これら国際港は中国の上海のような租界地区だったからだ。
いわゆる英国人租界のような雰囲気で、生活水準は高い。
日本軍はこれ以上英国軍を追い詰めなかった。
もう英印軍ではない、インド軍は離脱していた。
籠城する彼ら英国人には帰る祖国がないのだ。
親独国家となった英国はもう祖国ではない。
チャーチルがいるスーダンは親英国家だが難民は拒否していた。
エジプトは独軍と戦闘中で難民受け入れどころではない。
ケニアのモンバサ軍港には艦隊保全主義の英国艦隊がいる。
ケニアは元英国植民地で英国人の評判がよろしくない。
自分たちがやった事が自分たちに今度は降り掛かってくる。
インドの英国人はもうどこにも逃げられないのだ。
もし彼らを攻めれば、死に物狂いで立ち向かってくるだろう。
いま、日本軍は太平洋で米国と全面戦争を戦っている。
いくらなんでも両面戦争で戦えるほど日本も強くない。
だが休戦協定は出来ない、英国の後ろ盾は米国なのだ。
ここは孤立無援の籠城をさせておくしかない。
こうしてインドは西部沿岸を残して独立した。
細々と南豪州に脱出する英国人もいた。
南豪州は現在鎖国状態で難民を迎えられる状態では無い。
また、わがままチャーチルのせいで親近感はよろしくない。
日本軍はこういう難民をあえて見逃していた。
南豪州はさらなる人口増に喘ぐ事になる。
インドはあえて9割開放/独立となりました。これは後盾の米国に残った1割の英国領への物資輸送を強いらせる結果となります。次回はアッツ/キスカ島方面です




